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戦乙女の鎮魂歌  作者: 白銀悠一
第五章 哀悼
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戦争の女神

 アテナがソラを襲撃する模様をクリスタルは映像を球状に具現化させて眺めていた。魔術の解析に長けるエデルカのおかげで魔力場が乱れても、記録に残す術を確立できたのだ。他の魔術師はリアルタイムで見ることは可能でも、録画は不可能。これはクリスタルたちにとってアドバンテージになる。

 だが、クリスタルが気にすることは戦術的優位性タクティカルアドバンテージよりも、友達の安否だった。


(アテナ……やっぱり強い)


 アテナが錯乱しなければソラは殺されていた。アテナは友人を喪って以来、心が誤動作を起こし、気が狂っていると形容しても仕方のない状態だ。

 しかし、そんな彼女も亡くなった友達の話をする時だけはまともになる。それ以外の時は、外面こそ正常だがどこかおかしい具合が続いている。

 浮き島全体のパトロールも、業務としては問題なくこなしていたが、それは全て機械的なものだった。だから融通が効かないのだ。


(何も無い時は話せる。けど……昨日のアテナは――)


 明らかにおかしかった。しかし、これはソラを救うチャンスに成り得る。

 ゆえに、クリスタルはアテナが訪れることを期待して、浮き島の端っこに座っていた。空はとても青い。

 本当は月の出る夜に会えればそれに越したことはないのだが、それは高望み過ぎだろう。アテナの話では、その友人は月を見ることが大好きだったらしい。何でも、自分の名前が古い月の女神といっしょだったからだそうだ。


(ますますソラと似ている。なのに、なぜ……。まともなあなたなら、殺す必要がないって気付くはずよ、アテナ)


 自分の名前が空だったから、空を見上げるのが好きになったソラと。

 自分の名前が月の女神だったから、月見が趣味になったセレネ。

 外面はともかく、内面――人間と魔術師を隔てることなく接する部分はとても似ている……はずだとクリスタルは思う。

 少なくとも、彼女たちの話でクリスタルとアテナは意気投合し友達になったのだ。もしセレネが生きていたら、クリスタルは彼女と友達になったはず。

 ならば、アテナだってソラと友達になれるはずだ。なのに、アテナはソラを殺そうとした。事情を知らなかったとはいえ、ソラの言葉は届いている。戦う理由はないと、アテナは踏みとどまれるはずだ。

 本当なら、銃を抜いてでもアテナを止めるべきなのかもしれない。でも、それは避けたかった。

 アテナの孤独を、寂しさを、大事な人を亡くした痛みを知っているから、どうにかして説得をしたい。


「クリスタル……」

「アテナ。来てくれると思って……っ!?」


 不安定な足取りで現れたアテナにクリスタルは息を呑んだ。

 身体中が血だらけだった。いつものような凛とした、それでいてどこか昏いものを感じさせる表情ではなく、今まさに命が尽きかける死人のそれを浮かべている。

 しかし、皮肉なことに生命力は漲っていた。精神が死にかけているのだ。肉体ではなく。


「アテナ……!」

「クリスタル。わたし、わたし……」


 アテナは地面に蹲る。見回りをしていた時の凛々しさは彼女から失われていた。以前のように反対意見を交わし議論をすることも、これではままならない。無論、説得をすることも。


「死神が、わたしをころしてくれないの。生神にのろわれてるの」

「あなたは呪いも祝福も受けていないわ」


 クリスタルはアテナを介抱し、空が見える場所へと運ぶ。空見は一種の精神安定剤として機能してくれる場合があるのだ。


「ちがう、ちがう。セレネ……あのこがわたしをうらんでる」

「私が知るその子の知識だと……絶対に恨むなんてありえない。あなた自身がよく知っているでしょう。そのことを」

「……でも、セレネ、やってきた……」


 その言葉を聞いてやっぱり、とクリスタルは確信する。アテナはソラにセレネを見出していたのだ。

 だから錯乱し、殺せなかった。敵の増援が来たとはいえ、アテナはスヴァーヴァとエイルを圧倒していた。逃げなくとも、ソラを殺せたはずなのだ。なのに、殺せなかった。ソラの性格がセレネのそれと似ていたから。


「ソラにセレネを重ねたの?」

「ソラ……どうして、あなたが」

「私の友達なの。前にあなたに話した友達がソラ」

「……つまり、にんげん?」


 アテナが問いを投げる。もはや隠す必要もなく、クリスタルは首肯した。

 すると、アテナは小刻みに震え始める。何やら葛藤しているようにも見えた。己の内に潜む二つの意志が、心の中で戦っている。


「アテナ、アテナ! しっかり!」

「に、にんげん……にんげん……にんげんは、いけない! にんげんはころさないと、あの子、あの子が……!」

「落ち着いて。セレネが何を望んでいたかを思い出して!」


 クリスタルが一喝すると、アテナの震えは止まった。ほんの僅かにでも、セレネを思い出したのかもしれない。

 想いを馳せるように空を見つめていた。クリスタルが視線を辿ると、昼間なのに月が見えている。昼間でも月は場所さえ知っていれば見つけることができるが、奇跡にも等しい偶然だった。


「……あの子は月が好きだった」

「うん」


 既に聞いた話だが、クリスタルは何も言わずに相槌を打つ。アテナが正気に戻りつつあった。

 血だらけの身体を起こして、座る。クリスタルがハンカチを取り出し、血を拭き取ってあげた。


「ごめんなさい、クリスタル」

「いいのよ、心の病だもの」


 魔術師の間ではそこまで珍しいことではない。同門の弟子の中でも、似たような発作を起こす者もいる。多くの魔術師が家族や友人を殺されている。クリスタルもたまに両親が殺される悪夢を見ることがあるのだ。


「……マスターに相談してみましょうか。ドルイドのパナケアを飲めば多少は和らぐかもしれないし」


 他にはドルイドの呪い歌で一時的症状を抑え込むこともできる。魔術での心理治療は推奨されていないので、これはあくまで一時的な処置だ。アレックもハルフィスも、|心的外傷後ストレス障害(PTSD)や|急性ストレス障害(ASD)を起こした魔術師には、たくさんの時間を掛けて治療を行っていた。

 他人に依存せず、自分でトラウマを克服するのが大切なのだ。クリスタルも、両親の死と向き合うまでだいぶ時間が掛かった。


「大丈夫……ニケが癒してくれるから。一応、私なりに努力はしてるの」


 徐々に顔色が良くなってきたアテナがクリスタルの提案を断る。


「浮き島を巡回してた時は、こんなこともなかったんだけど」

「ソラのせい、か」

「ソラさんのおかげ、かも。この件を乗り越えられればどうにかなるかもしれない」


 そう呟くアテナは清々しい顔つきとなっている。ソラに対する誤解が解けたようだった。

 ようやく、あの子の力になれたかもしれない。全ての行動が裏目に出ていたが、ようやくだ。

 クリスタルは安堵して、立ち上がったアテナに倣った。送っていくか訊ねると、一人で帰れるから大丈夫、と断わりを入れて微笑を浮かべた。


「一度、家に帰って考えてみる。どうすればいいのか……わからなくて」

「私も何が正しくて何が間違っているのかわからないわ。けど」

「けど?」

「ソラとまた会うって約束したの。その約束だけは守ってみせる」


 もちろん、それは戦場の真ん中で、という意味ではなく日常の中で、だ。

 あれは再会に含まれない。武器を持たず、あの思い出の花畑の中で約束を果たすのだ。


「いいわね。うん、とてもいい」


 クリスタルの決意を聞いて、アテナは少し元気を取り戻した。アテナは強い戦士。わざわざクリスタルが付いていなくとも大丈夫そうだ。


「じゃあ、また」

「ええ、また。今度改めて、ソラのことを紹介するわ」


 クリスタルはアテナの背中を見送ると、再び浮き島の端に座り込む。

 今前には大きな空と月が見える。ソラとセレネの意志がアテナを救ったように思えた。



 ※※※



 以前と変わらず、森はとても静かだった。帰路は身体にインプットされているので、心が不安定でも迷うことなく家に帰れる。


「後でニケに謝らなきゃ……。メローラにも」


 ニケは普段からアテナをサポートしてくれるいい子なのだ。そんな彼女に酷く当たってしまい、アテナは申し訳ない気持ちでいっぱいになる。普通なら嫌われても、罵詈雑言を浴びせられてもしょうがないのに、ニケは笑って許してくれるのだ。

 メローラもセレネの一件以来あまり仲はよくないものの、彼女なりに自分のことを考えてくれている。邪険にしても仕方ない。せめてもの詫びとして一度、食事でもごちそうし、今後の予定を話したい。

 そう考えて、アテナは森の中を歩いていた。背後から気配を感じる瞬間までは。


「クリスタル?」


 呼びかけたが、応えない。つまりは別人。ニケでもメローラでもない。彼女たちならわざわざ追跡しなくても直接話しかけてくればいい。


「誰? 私をアテナだと認識しての狼藉?」

「無論だ、アテナ」

「……アーサー?」


 アテナの警句を聞いて姿を現したのはアーサーだった。不気味な笑みを湛えアテナに近づいてくる。

 無意識にアテナは後ずさっていた。警戒する必要などありはしないはずなのに。


「何をしに、来られましたか」

「どうやらお前は精神に不調を来たしているようだが」

「……そ、それについては問題、ありません。先程改善しました。ブリュンヒルデの対処法をこれから見直すところです」

「ほう? それは本当か? 私にはまだ、問題を抱えているように見える」


 そう言ってアーサーはアテナに手を伸ばしてくる。反射的に魔動波を使おうか悩んだ――瞬間、アテナは金縛りを掛けられていた。


「な、何……」

「いかんな、これはいかん。やはりお前の心はまだ完全には癒えてないようだ」

「あなたに、私の、何が」

「わかる、わかるとも。アテナ……いやフレデリカよ」


 フレデリカ。それはアテナがアテナとなる前の本名。すなわち真名だ。マスターであるファナム以外知り得るはずのない情報。真名の漏えいは敵対魔術師に呪いを掛けられる可能性がある。ゆえに、厳重に管理されている。

 クリスタルのように名前をそのまま名乗るタイプの方が珍しいのだ。


「どうして、私の、名前……」

「私は精神魔術に覚えがある。他の魔術師ならば時間を掛けて治す精神病も、私なら一瞬で治せる」

「や、やめ、て……わた、し……は」


 アテナは抵抗をしようと力を入れたが、アーサーの魔術の方が上手うわてだった。気力すら搾り取られ、もはや何も考えられなくなる。自由意思を手放す。今や、彼女はアーサーの操り人形と化していた。


「さぁ、来い。フレデリカ。治療の時間だ……すぐ終わる」


 アーサーは酷薄の笑みのままワープゲートを前に呼び出す。そして、瞳から光が消えたアテナと共にゲートの奥へと消えていく。


「このくそ親父!」


 茂みから現れた青き衣の騎士がロンギヌスを片手に消失地点へ飛び掛かったが、何もかもが手遅れだった。



 ※※※



「ニケ! 戦闘準備!」


 ドアが開いたと思うや否や、次の瞬間には怒声が響いていた。


「な、突然何をおっしゃいますか、メローラ」


 夕食の準備をしながらアテナの帰りを待っていたニケは、メローラの気迫の籠った叫び声に面喰らう。

 メローラは興奮し、槍を手にしている。いつもの悠々としたクールさは何処かへ飛んで行ってしまっている。

 ニケの背中に生える羽が不規則に揺れる。不安の表れだ。誰かが怒る時、ニケはいつも心配になる。


「気付け薬を煎じましょうか」

「そんなものはいらないわ。戦闘準備をしなさいと言ったの、あたしは」

「で、ですが元々私は戦えませ」

「アテナがどうなってもいいの!?」


 反論していたニケが目を見開く。


「アテナに何かあったんですかっ」


 ニケがお皿を落とそうになったところをメローラがキャッチする。彼女は悔しそうな表情で、皿をニケに手渡した。


「親父に攫われた」

「攫われた……!?」


 ニケは食器棚に皿を戻すと、メローラと共にリビングに向かう。普段ならお茶を用意するところだが、今はそんな余裕はない。

 席に着いたメローラの反対側へと座り、彼女の言葉を待つ。


「そ、それで」

「アテナは不完全だったけど、冷静さを取り戻していたの。きっと、それが気に入らなかったんでしょうね。だから親父は……」

「どうなるのです?」


 ニケが不安の眼差しをメローラへ注ぐ。メローラは頭を振って答えなかった。わからないのだ。何が起こるか。


「でも、いいことじゃないのは確か。お父様の秘密。凶悪な魔術師だけを集めて、何かをしてる。それと無関係だとは思えない」

「で、でもアテナは凶悪な魔術師では」

「凶悪じゃないなら染めてしまえばいい。常套手段よ」


 メローラは恐ろしいことを言い放つ。ニケの心を不安が襲う。


「人を善くすることは大変だけど、悪くするなら簡単なの。人間にも魔術師にも絶対者はいない。上書きは至極簡単。人の心色は改変できる。ソラやセレネのように優しい色で染め上げるのではなく……悪意を無理やり塗りたくれば、人も魔術師も容易に暴力へと奔る」


 今の戦争のようにね、とメローラは呟いた。ニケの知り得ない、想像もつかない真実を彼女は知っているのかもしれない。

 しかし、今のニケの関心はアテナだ。アテナとニケは一心同体なのだ。アテナがフレデリカからアテナになると決意した時、ニケもまたニケとして振る舞うことに決めた。切っても切れない親友同士だ。

 アテナがセレネを忘れられないように、ニケもアテナを大切に想っている。


「で、ではどうすればいいのでしょう? 気付け薬を煎じますか?」


 混乱するニケは同じ手法提示を繰り返す。比較的冷静なメローラが彼女を諭した。


「キャメロット城に乗り込んで連れて帰ればいい。それだけよ」


 メローラは素知らぬ顔で言うが、それがどれほど大変な事態となるかニケはわかっている。ゆえに、驚愕の眼でメローラの顔を見つめ直した。


「そんなことしたら……」

「必要なら、やるだけよ」

「でも、メローラの父親ですよ?」

「あなたもジャンヌみたいなことを言う。血筋が何? 敵は敵、味方は味方。それだけよ」


 メローラは平然と吐き捨てる。非情な世界に生きている。

 ニケ自身忘れそうになるが、今の世界は冷たい。幸せに生きれる方がおかしいのだ。

 そんな冷たい世界をどうにか温かくしようとしたのがセレネである。メローラは冷たい世界を破壊することで、強制的に熱くしようとしているのかもしれなかった。

 でもそれはとても悲しいことだとセレネが言っていたのをニケは覚えている。メローラはその言葉すら忘れてしまったのか。


「しかし、セレネは……」

「……あなたも私の話を聞けば気が変わるわ。アテナだってね。だから、まずはアテナを救出し――」


 と順序を立てて説明を始めたメローラの言葉が遮られる。がちゃり、とドアが開いたからだ。

 来客は滅多に来ない。警邏けいらを行っていたアテナはあまり魔術師たちによく思われていない。メローラのように一部の友人だけが、アテナの家を訪れるだけだ。

 メローラは持っていた槍を強く握りしめて、臨戦態勢を取る。ニケは固唾を飲んで近づいてくる足音を聞いていた。

 何者かがリビングにやってくる。攻撃しようとしたメローラが止まる。ニケも緊張を解きほぐして、息を吐いた。


「ただいま、ニケ、メローラ」


 晴れ晴れとした表情のアテナがそこに立っている。しかし、対称的にメローラは訝しげだ。


「あなた、どうやって帰って……」

「私が家に帰ることが不満? 歩いてきたに決まっているでしょう」


 当然のことをアテナは口ずさむ。いつも通りのアテナ、と安心して近づこうとしたニケだが、


「……アテナ?」


 どこか違う、違和感のようなものを感じて歩みを止めた。


「どうしたの、ニケ」


 アテナは笑いながらニケに迫る。ニケは得体の知れない恐怖を感じて、後ずさった。

 だが、アテナの家はそんなに広くない。すぐに壁際へと追いやられてしまう。


「ちょっと、アテナ。ニケが怯えてるわよ」


 指摘しながら、メローラはまた警戒を色濃くしている。武器こそ使わないが、魔術で抑え込もうとしているのが見て取れた。彼女の動作をアテナも認識しているはずだ。アテナはメローラとあまり仲が良くない。いつもなら、文句の一つも飛ばすはずなのに、彼女の視線はニケに釘づけだ。

 ニケが友達だから? いいや、違う。ニケを一つの道具として、アテナはぞっとする視線を向けている。


「怯えるなんて、酷いわ。私は悲しい。悲しいよ、ニケ」


 明らかな嘘泣きをアテナは披露した。ふざけないで、と低い声でメローラが言う。

 怒りで魔力が漏れ出て、ポルターガイスト現象のように周囲の飾りや置物が浮いていた。


「あなたに手を出したくはないけど……こうなったら仕方ない」

「ふふ、お前に私を止められる? 私より弱いお前が」

「何年前の話をしてるッ!」


 ニケの前でリビングにあるあらゆるものがアテナに向かって飛び交う。ニケは恐怖のあまり目を瞑った。

 だが、しばらく立っても何かが壊れたり、落ちたりという音が聞こえない。

 恐る恐る目を開けて、ニケは、


「……え」


 と絶句する。

 アテナがメローラに触れずして、彼女の首を絞めている。周囲には、メローラが浮かせた物品が宙に浮いたままだ。


「く、これ、本気で」

「だから言ったでしょう? お前は私に勝てない、と。お前は甘い。私を殺そうとしなかった。でも、私はお前を殺せるわ。だから、勝てない。殺す気で戦わないと、私には勝てない」

「く、一体、何をされた」

「とても、気持ちのいいことよ」


 アテナは恍惚の表情を浮かべて、妖艶さを感じさせる吐息を吐いた。

 普段のメローラなら言うであろう皮肉の言い回しが出てこない。これがどれだけ非常事態であるかを表していた。

 ニケから見て、恐らくメローラが本気を出せばアテナを止めることが可能だろう。しかし、それは間違いなく死闘となる。メローラが死ぬかもしれないし、勢い余ってメローラがアテナを殺してしまうかもしれない。

 既にこの状況が詰みだった。戦う前からメローラは負けていたのだ。


「……ッ」


 いや、まだ打開策はある。自分自身だ。そうニケは直観する。

 ニケの勝利のエンチャントなら、メローラに祝福を与えることができる。

 咄嗟にニケはメローラにエンチャントを付与しようとした。だが、身体が動かなくなる。


「な、あッ」

「うふふ、いけない子、ニケ。お前は私の奴隷なのに」

「ちが……わたし、アテナの、とも、だ……」

「冗談止めてよ。お前のこと、一度も友達だと思ったことないから」

「……ッ」


 身体中が締め付けられる感覚を味わうと同時に、心にまで痛烈な痛みが浴びせられる。

 メローラが遠くの方で叫んでいる――それはアテナの本心じゃないわ! と。

 だが、そうであると信じる理性が、ショックを受ける心に打ち負かされている。


「そうな、のですか……。これが、これ、が、奴らの、やり方」

「さぁ、言うことを聞け、ニケ! お前は私の奴隷だ!」

「あ、てな……」


 ニケの意識が段々と奪われる。闇に呑み込まれようとしている。

 アテナなら使うはずのない精神魔術の一つだった。洗脳とはまた違う。

 疑心を対象者に植え付け、増幅させて、心を塗り潰す。人が誰しも持つ表と裏を分離させ、強制的に裏だけを表出させる。

 恐ろしい魔術。禁術指定すらされていたはずだ。なのに、なぜかアテナは使えた。

 いや、そうではない。今前に立つのはアテナではない。

 ギリシャ神話におけるもうひとりの戦争の神、アレスを彷彿とさせた。


「……はい、アテナ様。私はあなたの奴隷です」

「くそ……親父め……ぅ」


 ニケが侵食され、アテナに屈服したと同時に、恨み言を漏らしながらメローラも気絶した。



 ※※※



「――剣は武器ではない。お前の身体の一部だ。闇雲に振るってはならない。お前自身を一つの剣として昇華させるのだ。真の剣士とは、一振りの剣なのだ」


 ソラは黙って、脳裏に響く声に耳を傾ける。メディカルルームのベッドに座っているのに、別の場所にいるように錯覚する。

 ボーっとしていると勝手に聞こえてくる謎の声には、もう慣れた。老人の声は悪意あるものではなく、善意としての助言だった。


「精神的にも問題なし……声が聞こえる以外は。……統合失調症、だっけ? そういう類じゃないでしょうね」

「いいや、それはない。メディカルチェックはこれで終了だ」


 疑問視したジャンヌにはっきりと相賀が断言し、ソラの検査が終了する。緑色の患者服は少し大きめでひらひらしている。

 最新鋭の医療機器で医療ドラマばりの検査をされたと思えば、数十分にも渡る精神科医の問診の後、高校でやるような身体測定までやらされた。

 まだ若いので行ったことはないが、人間ドックというのはこういうものなのだろうか、とソラはどうでもいいことを思う。

 自分の症状に不安があったが、医者に問題なしと太鼓判を押されてソラは安心した。やはり、誰かにチェックしてもらうのはいい。不安を吹き飛ばしてくれる。


「で、これから私はどうすれば」


 ソラが真っ白な医療ルームの端で壁に寄り掛かる相賀に訊ねると、相賀は微笑み返した。


「今日は安静にしていろ、と言いたいところだが、いつ敵が襲ってくるかわからないからな。訓練はしなくていいが、いつでも出れるように心構えはしといてくれ」

「わかりました。じゃあ、着替えてきますね」


 ソラは更衣室へと移動し、服を脱いで軍服へと着替える。外から相賀とジャンヌの言い合いのようなものが聞こえてきて、自然とソラの着替え速度は低下した。


「異常ですよ、声が聞こえるなんて。しかも、聞いてるのはたぶん――」

「わかってる。……こいつの安全は立証済みだ。危険はない」

「でも、試験データはないんですよね? こんな危険な装置を、よくわからないまま使うなんて」

「いいや、ある」


 相賀の声音が苦りきったものに変わった。どうして見せてくれないです? とジャンヌが問うと、君が全てを明かさないのと同じことだ、と突っぱねるように相賀は言った。

 不穏な空気が漂っている。ジャンヌも相賀もいいひとなのに。しかも自分のせいで口論になるのは、ソラにはとても耐えられない。


「す、ストップ……とぅわ!」


 素っ頓狂な悲鳴を上げて、ソラは床へと派手に転んだ。ちゃんとズボンを履かずに、慌てて更衣室の外に出ようとしたからだ。


「あいたた……」

「……パンツ、見えてるわよ」


 ジャンヌの忠告を聞いて、ソラの顔が真っ赤に染まる。相賀は目線を逸らしてくれたようだが、それでも恥ずかしさは緩和しない。


「う、うわわわ! ご、ごめんなさい?」

「謝る理由がわからないわ、全く」


 と呆れるジャンヌだが、二人の間からは険悪な雰囲気は掻き消えていた。ハプニングは痛いが、喧嘩にならなくて良かったと心の底からホッとする。

 しかし、その安堵もすぐに消失することとなる。ソラは反射的に相賀へ叫んだ。

 ――強烈な悪意を、基地の外から感じたのだ。


「……ッ、相賀大尉!」

「おいおい、冗談だろ」


 大尉が全てを悟って仲間へと指示を出す。ジャンヌが怪訝な顔でソラの感知を見守っていた。


「やっぱり、おかしい。あなたは人間なのよ、ソラ」

「ごめんね、ジャンヌさん。その話はまた後で!」


 ソラはジャンヌと別れると、外に向けて走っていく。



「おい、ソラ!」「ソラちゃん!」

「メグミ、ホノカ!」


 メグミとホノカも滑走路付近へ走ってきていた。すぐにパワードスーツを装着したマリとヤイト、そして相賀も装備を状況に合わせて整えてやってくるだろう。


「今度は誰だ?」


 メグミが闘志を燃やしながら、正体不明の敵に想いを馳せる。


「あまり強くない人だといいなー」


 ホノカが楽天的に述べる。いつもならそこで同意したソラだが、今日は違った。

 初めてだ。これほどの悪意を感じたのは。

 オドムでさえも、ここまで人間を憎んでいなかった。

 不意に脳裏をよぎるのは、ジャンヌが教えてくれたアーサーの企みだ。

 円卓の騎士の魔術師が襲いに来たのかもしれないと身構えて、


「え……?」


 上空に現れた二つの影に絶句する。

 黄金の騎士と、翼を生やした天使。

 アテナ、と恐らくニケが、どちらも昏い眼差しをソラたちに向けていた。


「殺す。人間は殺す」

「ご主人様の仰せの通りに」


 アテナとニケが雷撃を纏い、手綱基地を急襲する。

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