空好きのソラ
様々な花が咲き乱れる花畑。二人の少女がその真ん中に佇んでいる。
一人は泣きそうな顔。もう一人は寂しそうな顔を浮かべていた。
「本当に行っちゃうの?」
「行かないと。危険だからね」
涙を流す黒髪の少女もそれは理解している。家庭の事情で引っ越しなどというありきたりな別れでないことを重々承知済みだ。
それでも、寂しさは拭えない。如何に正当な理由であろうとも、少女と別れるという事実が悲しい。
「でも……」
とまた駄々をこねそうになった少女の手が、そっと握られる。銀の髪を持つその少女は、大丈夫、と少女を安堵させた。
「きっと、また会えるよ」
「そんなこと――わからない」
「全く、本当、甘えん坊ね。そんな子にはこれ」
少女が青いペンダントを泣く少女の首に掛ける。私が作ったお守り、と銀の少女ははにかんだ。
「く、くれるの……?」
「もちろん。ほら、泣き止んで。絶対にまた逢えるように、指切りしましょう」
いつまでも言うことを聞かない少女に苦笑し、銀髪少女は小指を差し出した。そのしぐさで、少女は理解する。日本の子どもなら誰でも知っている、あのおまじないだ。
少女と少女は小指を合わせ、二人でリズムよく歌い始める。
「ゆーびきーりげんまん、うそついたらはりせんぼん――」
※※※
「――っああ、もううるさい!」
あまりにも喧しい目覚まし時計の音。安眠を妨害する悪魔時計に、ベッドに横たわる少女は報復した。具体的には、拳で思いっきりボタンを叩く、という方法で。
目覚ましが音という叫びを喪い、がらんごとん、と音を立てて床に落ちる。
「ははーどうだー。時計如きが、人間様に敵うみゃい……」
寝ぼけてアホなことを言いながら寝返りを打つ。青いパジャマはあちこち乱れ、裸体がところどころはみ出ていた。胸元から、青いペンダントがちらりと露出している。
しばらく寝転んで、唐突にハッとした。そういえば、目覚ましの音をもうかれこれ二十回は聞いている。
「ああああっ寝坊した!!」
少女はベッドから飛び起きる。が、足元を見ずに降りたため、転がっていた目覚まし時計にリベンジされた。うぎゃあ、とすっとんきょうな声を出して、床に顔面から倒れ込む。強烈な一撃によって、目覚まし時計に敗北を喫することとなった。
「うぐ、頭がぐわんぐわんする……ああ、朝ゴハン――」
絶賛遅刻中だというのに、少女の頭には朝食のことしか浮かばない。寝ぼけ眼をこすりながら、少女は台所からパンの包みを持ってきて、むしゃむしゃとゆっくり咀嚼した。コーヒーを飲んで、優雅とは程遠いブレックファースト。
最後の一枚となった時に、壁に立てかけてある時計が目に入り、想定していた時間と現実の時間の齟齬に驚愕する。
「あ、あれ? おかしいな。もう十時……?」
てっきり八時頃だと思っていたのだ。なのに、時計はもうすぐ十の字へと針が動きそうだ。少女は失念していた。あくまで自分が聞いた目覚まし音が二十回なだけであり、実際には相当数目覚ましは鳴り響いていた、ということを。
「ま、まずい!」
トレードカラーである青色と同じく顔を青く染めて、少女はパンを咥えながら立ち上がった。急がなければならない。一時限遅刻なだけならまだ軽いお説教で済むが、二時限も遅刻したとなると、課題というオマケがつく可能性がある。
「行ってきます!」
一人暮らしの寮生活であっても、挨拶は欠かさない。慌てて制服に袖を通し、パンを頬張る少女は、課題の追加を避けるため、大急ぎで部屋を飛び出した。
(まずいやばいまずいやばい! あの理不尽極まりない課題は嫌い!)
少女の担任は罰を持って生徒に教育する方針を取っている。言わば、恐怖政治である。ロベスピエールやブラックバードの異名を持つ海賊と同じ人種なのだ……少なくとも、少女からはそう見える。
「私はもう遅刻はしませんを原稿用紙百枚に書け、なんてのわぁ!」
歴史の人物と教師を重ね合わせた冒涜的行為をしたせいか否か、少女は歩道の真ん中で盛大にこけた。考え事をしていると、よく前が見えなくなるのだ。そのせいで、教師にバカにされたこともある。お前は常に前を見て歩きなさい。そうしなければ、大きく開いた穴へと落ちる。流石の少女もそんなことありません! と言い返したが、実際に抜けた木の床に落っこちたことがあるので、強くは出れなかった。
「あいたた……っ、大丈夫ですか!?」
少女が驚いて、自分の心配などおかまいなしに、歩道に倒れる老人に駆け寄る。少女が転んだのは、倒れたおばあさんの荷物に躓いたせいだ。少女の名誉にかけて、何もないところで転ぶことだけはない。
「あ、ありがとうねぇ」
「おばあちゃん、捕まって。よっとと」
おばあさんを立ち上がらせて、散らばる荷物を拾う。その間、脳裏にちょっとした疑問がよぎった。なぜこのおばあさんはここで転んだのか、という問いだ。ふと周囲を見回して――近くに老人を睨む若者が立っていることに気付いた。
「あなた――もしかして」
「ああ? んだよその眼は。そのババアが勝手にぶつかって来たんじゃねーか」
おばあさんがびくりと委縮。少女はかちんと来て、思わず怒鳴った。
「何ですかその言いぐさ! おばあちゃんに謝ってください!」
「ああ?」
ジロリ、という苛立つ眼光。流石にこれには少女もびくっと怯えてしまう。しかし、譲るわけにはいかない。妥協は教師にお説教された時だけだ。
「おいクソガキ、大人にケンカ売るとどうなるか――」
「――ああ、お前はよく知ってそうだな」
声といっしょに飛んでくる拳。キレていた若者は、たった一発でノックアウトされた。何事かと少女と老人が驚いていると、脇道からひとりの男性が現われる。服装こそ一般人。しかし、少女には何か別の、独特のオーラらしきものが窺えた。
「あ、ありがとうございま」
「礼はいらない。ちょうど人を殴りたい気分だったんだ」
男は素知らぬ顔で言う。発言こそ物騒だが、恩人なので文句は言わない。おばあさんの荷物をまとめて、手渡して、一人で家まで歩けるかを問う。
すると、おばあさんは笑顔で答えた。
「大丈夫だよ、珍しい髪のお嬢ちゃん」
「っ、あ、ああこれは染めてて」
少女は咄嗟に青い髪を手で隠した。染めてるとは言うものの、染髪に見られる不自然さは見て取れず、すごく自然な色合いだ。まるで――生まれてからこの方、青い髪で過ごしてきたかのような。
なぜか冷や汗を掻く少女だが、傍観している男がぼそりと呟いた言葉で自身の目的を思い出した。
「そういえば君、学校はどうしたんだ?」
「あ――! いけないっ。じゃあ、元気でね、おばあちゃん、男の人!」
大遅刻である。少女は慌てて駆けだした。呆然とするおばあさんと苦笑する男性を残して。
「男の人ってなぁ。しかし……」
男は興味深げな視線を少女の背中に向けて、彼女の登校を見送った。
※※※
「遅れました――! けど、私は悪くないんです! 目覚ましが壊れていたんです!」
教室のドアを開けて、開口一番、そう叫んだ。
しかし、少女に向けられる視線は生徒たちのものだけだ。怒れる担任はこの場にいない。生徒のくすくすとした笑い声に迎えられて、少女は愚痴りながら席へと歩いた。
「はー良かった。朝っぱらから説教聞かなくて済んだー。今時、有り得ないよ。化石だよ。前世期の遺物だよ」
生徒に本気で怒る教師というのは今時珍しい。大抵は無関心で、生徒にただ授業と忌々しいテストを配るだけの機械的役職となっている。だというのに、少女の担任は生徒に手厚く指導してくるのだ。暴力こそ振るわないが、どうも目の敵にされているようで、たくさんの課題をプレゼントしてくる忌々しいデスサンタなのだ。
「まーったく、もうすぐ夏休みだってのに、デスサンタのプレゼントなんて受け取れないよー」
結構な大声でぼやくたび、周囲の笑い声も大きくなる。ん? と少女が違和感に気付いた時には遅かった。ポン、と背後から左肩に手が置かれる。――どうやら、カーテンに包まって隠れるというモダンニンジャ的ステルス行動をとっていたらしい。
「あ、あの、これはですね、ちょっとしたジョークというかー」
「デスサンタから、ちょっと早めのクリスマスプレゼントをたっぷりあげるわ、青木空さん」
「ひぃ!」
少女改めソラが顔を引きつらせる。女教師の眼鏡がきらりと光りを反射した。
その後、ソラが土下座を行い、クラス中が大爆笑に包まれて、たくさんの課題をプレゼントされたのは言うまでもない。
「くそー。鬼! 鬼教官!」
「そんなこと言うと、またお叱りを受けるよー? 新井先生は今時、珍しく熱い人なんだからー」
ソラは今、グラウンドにいる。体操着姿で芝生の上に体育座りをしていた。隣には、茶髪のわがままボディを持つ女の子が座っている。
間延びしたトーンで話すのは、ソラの友人のホノカだ。今は身体運動プログラム、つまり体育の授業中だ。外にいるのは管理ドローンだけで、生徒たちは独自にやりたい種目を行い、訓練をすることになっている。外に大人はいない。比較的自由に過ごせる体育の時間がソラは好きだった。特に、外での体育。
「空はこんなに晴れ晴れとしているのに、私の心は曇天だよぉ」
「ソラちゃんの好きな空が見れてるんだから、いいじゃない。“空好きのソラ”でしょー」
「やめてよ、もう」
“空好きのソラ”というのはソラのあだ名だ。自分の名前がソラだったから空好きになったのか、空が好きだったから名前がソラだったのか、ソラは知らないし知る必要性も感じない。
ただ、空を見ていると、どこかと――別れたあの子と繋がっているような気がして、好きなのだ。空は繋がっている。地球が一つであると教えてくれる。特に今日のような雲一つない青空が、ソラの一番お気に入りだった。
「だったら、髪を青く染めるのを止めて、改名すればいいんだよ」
「やだよ。何で言うのを止めるって選択肢がないの」
笑い合いながら、手うちわで風を扇ぐ。ソラとは違いグラマラスなホノカは体操着をひらひらさせて、扇情的に風を身体へと送っている。同性でも思わずどきっとしてしまう。遠くから男子の視線を感じて、ホノカを諫めるが、純情の塊たるホノカはなぜソラが自身の風送りを止めるのか理解していない。
「ストップストップ! 見られてるから!」
「ソラちゃんに見られても私気にしないよー?」
「私じゃないよ! だ、男子にだよ!」
顔を真っ赤にしながら訴えるが、ホノカはイマイチピンと来ていない。
「自信過剰だねーソラちゃんは」
「私じゃないよ!!」
大声で憤慨する。と、その声を聞きつけたのか、管理ドローンが一体近づいてきた。ぷかぷかと浮かぶ円盤のような形をした無人機は、グラウンドの隅でサボっている二人を見咎めて、
『警告。訓練生はただちに訓練を続行されたし。これ以上訓練の遅延が見られた場合、不適格者として更生プログラムの実施を――』
「休憩、ちょっと休憩してただけです! 行こっ! ホノカ」
「うんー。走るの面倒だけどねー」
ソラとホノカはランニングを再開した。実はサボるのに一番最適な訓練なのだ。ある程度走れば、後は疲れたから休憩中です、と言い訳をすればいい。
ゆっくりとグラウンドを走っていると、生真面目に何十週もしている少女が二人の横を並走してきた。ポニーテールが特徴的な黒髪の女の子。胸は三人の中で一番残念なことになっている。
「……どこ見てるんだ、おい」
「いやーホノカと横に並ぶのはちょっとカワイソウかなーなんて思いまして」
げんこつが飛んできた。ソラにたぶん十くらいのダメージ。
「酷いよメグミ!」
「酷いのはテメエだろ、ソラ。今は訓練の時間だ。しっかり訓練しろ! そんなんじゃ命がいくつあっても足りねえぞ」
口調こそ汚いが、メグミは真面目だ。何事も真剣に取り組む性格で、真面目な不良などと揶揄されている。
「どうして言葉遣いがあれなのに真面目なのかなー。少しは肩の力抜こうよ」
「テメエが不真面目過ぎるんだよ。髪染めたり、遅刻したり、授業サボったり。それでも防衛軍の一員になる自覚はあるのか? 一生懸命にやれ。ダチに死なれたら……悲しいだろ」
急にしおらくなるメグミ。そのギャップにソラがやられた。大真面目にペースを考えず走り出す。
「わかったよ、メグミ! 私は努力して死なないように頑張るよ!」
「死なないのは当たり前だろうが!」
「ソラちゃーん、メグミちゃーん、頑張ってー」
ホノカが競争を始めた二人を後方から応援する。クラスメイトたちの注目が二人に集まった。二人は、特にソラは人当たりのいい性格で友達も多いのだ。辺りから、頑張れだの賭け事らしき話だのが聞こえてくる。
その喧騒の中で、彼女をじっくり眺める少女がいた。テニスコートでソフトテニスをしていた黒髪の少女はサーブを待つ間よそ見して、笑って走るソラを観察している。
「甘ちゃん、ね」
少女はボールを見ずにサーブを打ち返した。
※※※
「これが適正者のリストです」
「助かりました」
ソラの担任と男が、応接室で会話を交わしている。男は資料を閲覧し、パラパラと吟味し始めた。
「ランクCやBが多いですね」
「すみません……私の教育が悪いんです。生徒たちは悪くありません」
「いえ、そんなことは。私はあなたがいるからここに来たんです。今時、古風な教育を行う珍しい教師がいると聞いてね」
謝罪した教師が目を丸くする。男は微笑んで、事情を説明していく。
「昨今の教育者は良くも悪くも手抜きが多い。やる気のある人間は教職につかず軍に志願する。しかし、我々の求める人材はそんな手抜き教育では発掘できないんですよ。あなたみたいな、古風な、人情溢れる教育が必要不可欠だ」
「最近は教育プログラムばっかりで……。そう言ってくれると励みになります」
現代の教育は一昔前の教育とは一線を画している。教師は一応ついているが、生徒に勉強を教えるというよりも、サボりを防ぐための監督官的意味合いが大きい。しかし、ソラの担任は用意されたテキスト外のことも教えている。
戦士となるべく最適化されたプログラムよりも、ひと手間もふた手間もかけて、生徒を育てることを選んだ。その心構えを知ったから、男はわざわざ足を運んだのだ。
「それに、このリストの適正は出たからいいってわけじゃない。むしろ、出ない方が好ましい――ん」
男は適正ランクがA-のファイルで手を止めた。ポニーテールの少女。滝中恵美。
身体適性がA。知能適性もA。心理適正がBだ。
「惜しいですね。バックボーンは?」
「彼女は……両親が殺された復讐心から軍学校に入学したので」
教師が躊躇いがちに言う。なるほど、と男は頷いた。
「それじゃあ心理適正が酷くなるな。……復讐は何も生まない」
誰かに、というよりも自分に言い聞かせるように呟いて、男はリストのページをめくる。
次に目に留まったのは、楠木帆乃夏だ。彼女は逆に、身体適正が低くて、知能適性と心理適正が高かった。それでも心理判定はB+だ。
「これもダメだな。僅かに足らない……」
男は口惜しそうに呟き、今度は珍しい髪色の少女を発見。
「青髪……今朝会ったな」
「ああ、ソラですか。ソラはダメダメです。とんだ不良娘ですよ」
言葉の内容の割には、教師の口調は随分楽しそうだった。気になって、男は話に耳を傾ける。
「不良」
「髪を染めるなって何べんも言ったんですけどね。表現の自由の侵害です! とかとんちんかんなセリフで反論してきて……。でも、あの子、いいところがたくさんあるんですよ。特に、人と仲良くなる才能がすごいんです」
「人と仲良くなる才能……面白い」
俄然興味が湧いて来て、男は少女のプロフィールを注視する。全体評価はB。運動はそこそこできるが勉強がダメダメで、それでいて心理適正はA+。
「A+……なるほど」
男がほくそ笑む間にも、教師の話は続いていく。とても楽しそうに、軽やかに。
「恥ずかしながら、カウンセラーがほとんど軍に取られていて、生徒たちのケアに手が回らないのが現状なんです。でも、ソラはそういう問題を笑顔と言葉で解決していくんですよ。いじめっこといじめられっこを仲直りさせて、親友同士にまでしちゃいました。考えられます? 普通、そんなことはなかなかないのに」
「優しい子のようだ。滅多にいないタイプですね」
男は同意しながら、ファイルを閉じる。何かを得たような、確信的な表情だった。
※※※
ソラの放課後は、ぶあっくしょん、という大きなくしゃみから始まった。
鼻を啜りながら、呟く。
「誰か私の噂でもしてるのかな?」
「ソラちゃんの話題は尽きないからねー」
ホノカが適当に相槌を打つ。まぁ、私は人気者だからねーとドヤるソラ。
ソラとホノカは学校から帰る途中だった。昇降口から出て、グラウンドを歩いて校門から出ようとする。
「ちょっと、いい」
「んん?」
が、声を掛けられた。クラスメイトのマリだ。大人しめの性格で、あまりソラと会話したことはない。
「どうしたの?」
「来て」
ソラの問いかけには答えず、一方的に手を引っ張っていく。うわわ、ちょっと!? というソラの驚く声も無視。
ホノカに助けを求めるが、彼女はじゃあまた明日ねーと言い関わる気が微塵もない。ソラはなす術もなく、マリに連れていかれた。
(この展開古い青春ドラマで見たなぁ……いやな予感がズンズンする)
結局、ソラはマリと小鳥や虫たちが鳴き叫ぶ体育館裏に来ている。今でこそそんなロマンチックな話は聞かないが、一昔前二昔前の青春物語なら、体育館裏というのはとても重要なフィールドとなる。
不良が煙草を吸ったり、果たし状で呼び出したりと、デンジャランスゾーンであると同時に、恋人が不純異性交遊を働くいかがわしい場所でもある。
そんな場所でどうするのか、とソラは不安げにマリを見る。黒髪が似合う純日本人といった様子の彼女は、いつの間にか手に持っていた竹刀の切っ先を突きつけてきた。
「うわッ!」
「覚悟は、ある?」
「と、突然なにー!?」
ソラはわかりやすくビビッて、両手で頭を押さえた。生まれてこの方、喧嘩など一度もしたことがない。
ここは生徒が教師に内緒の秘め事を行うところだが、だからと言って必ず喧嘩しなければいけないわけではない。もちろん、恋物語もだ。体育館裏は体育館の裏。表と同じように、健康的なスポーツに興じればいいのだ。
「何か誤解をしているようね」
「ご、誤解?」
てっきりぶっ叩かれるとソラは思ったが、マリはあっさりと竹刀を手放した。ただ覚悟を知りたかっただけよ、と言い訳して、ソラに何かを投げてくる。
「っとと」
ソラはその小さな箱をキャッチして、訝しむ。現物はないが、どこかで見たことある黒い箱だ。記憶を手繰り寄せて、思い出す。――指輪などが入った、ジュエリーボックスだ。
「ハハハ、まさかー。本当に指輪なわけなし」
と余裕の表情で箱を開けたソラだが、ふぇ? と間の抜けた声を出して、呆然とする。
箱の中には確かに金の指輪があった。ソラの見立てでは、間違いなくエンゲージなリングである。
「あ、あれー? 何か重大な誤解があるような。私の知らないところで、謎めいた陰謀が展開しちゃってるっていうか」
同級生《同性》に体育館裏に呼び出されて、突然指輪を渡された。しかもとても高そうなやつ。
これは一体どういうことなのか? ソラには全く理解できない。
「……わからない?」
「わかるわけないよ! なにこれ! 超展開過ぎるよ!」
ついさっきまでソラは普通の女子高生だったのだ。なのに、いきなり意味不明な出来事に巻き込まれている。いくら人気者を自称するソラでさえ、このような“人気”は必要ない。ソラはノーマルであって、アブノーマルではない。
確かにこの年になってまだ恋も知らないけれど。そうぶつぶつ独り言を呟くソラを、マリはまた勝手に手を取って、
「指輪をしなさい」
「うえぇぇっ!? ちょっと!?」
まるで、婚約者に指輪を渡す男の人のように、ソラの左手の薬指に指輪をはめる。
「これでもう逃れられないわね」
なぜだか、マリの極悪人めいた笑み。こんな笑い顔を、ソラは漫画でしか見たことがない。
「何が、何が起きているんでしょうか!」
もはやソラの思考は、急転回過ぎる現状に追い付いていない。ソラに指輪をはめたマリは満足したように頷いて、ソラの手を引っ張っていく。
「ちょ、え、お次はどこに?」
「あなたのお家」
「いやだから、説明してえ!!」
ソラの事情などお構いなしに、マリは学生寮へと走り出す。
放課後とは、学校生活を送る生徒にとって、その一員であるソラにとって、自由の時間であるはずだった。しかし、ソラは家の中でのんびりと自由を謳歌することはせずに、最終防衛ラインを死守するべく寮の部屋の前で立ち塞がっている。
「早く開けなさい」
「嫌だよ! いくらなんでもまだ無理だよ!」
普段のソラならクラスメイトならば誰でもウェルカムという状態で、特に同性ならば何の躊躇いもなく部屋に入れたものだが、マリが相手となると事情は異なる。いきなり指輪をさせるという奇行を行った彼女を、何の考えもなく部屋に入れるほどソラは迂闊ではない。
(指輪、外そうとしても外れないし……訳がわからないよ)
金色のお高そうな指輪は、ソラの薬指から一向に外れる気配がない。今はまだマリの相手で気を取られているが、これはこれで大問題である。学校のトラブルを解決する“頼れるお姉さん”を自称するソラと言えども、これほどの難題を即座に対処はできない。
「まずはお互いをよく知ってから、ね。ほらさ、変なことになったら嫌じゃん?」
「なるほど、確かにあなたの意見は一理あるわね」
「やっとわかってくれたー。じゃあさ、この指輪の外し方を――」
「まぁ、だからと言って聞くとは限らないんだけど」
「うえっ!?」
驚くソラの脇をひょい、と通り抜けどこかから取り出した鍵を鍵穴に差し込む。ソラの理解が及ばなかった。確かに、ソラの部屋の鍵は右手に強く握りしめられているのだ。
部屋はマリを部屋主と認識し、何食わぬ顔でドアが開く。そこへ、平然と主を置いて入っていくマリ。それを慌てて追いかけるソラ。
「ちょっと、え、ええっ!?」
「合鍵。頭を使いなさい」
「そういう問題じゃないよ!?」
マリは無断で部屋を物色し始める。平凡な趣味ね、と言いながら部屋を探索。ソラは鞄を部屋の定位置に置き、トイレから台所、洗面所や浴室と、あちこちを見て回る不法侵入者を撃退しようと言葉を放つ。
「ダメだよ! ねえ、聞いて! 私の言葉に耳を傾けて!! これ、犯罪だよ! 空き巣ならぬ居る巣だよ!」
「押しかけ強盗とも言う。安心して、何も取らないから」
「だからぁ……!」
マリは飾ってある写真立てを見て、何かを確信したようにほくそ笑む。そして、唐突にソラの方へと向き直り、彼女をベッドに向けて押し倒した。きゃ、というソラの短い悲鳴。邪悪な笑みを浮かべるマリ。
「な、何する……っ!?」
ドンと鳴り響く壁。ベッドをバウンドし態勢を立て直したソラの後ろにある壁に、マリが掌を突いたのだ。いわゆる――壁ドン状態。
「な、は、え」
ソラの思考は空回転。状況に理解が追い付かない。こういう感じのシチュエーションは、メグミの趣味である恋愛映画鑑賞に付き合わされて何度も見たことがある。主に男性が、女性に行うトキメキ行為。しかし、ソラはマリに行われている。同性が同性に、行っている。
何だこれ、とソラの頭はパンク寸前だ。
突然同級生(同性)に指輪を渡されたと思ったら、無理やり指輪をさせられたあげく、部屋の中で壁ドンされているですが。ライトノベル辺りのタイトルに使えるかもしれない。
「ふふ、綺麗な髪の毛ね」
「っ!?」
まるで恋人がそうするかのように、マリはソラの髪をなぐ。青い、まるで青空のような髪の毛を。
ゾクッとした寒気に襲われたソラだが、次の発言にソラは別の意味で冷や汗を掻くこととなる。
「ペンダントと同じ色」
マリの視線が、ソラの胸元にある青色のペンダントに向けられる。ソラは慌ててペンダントを制服の下に隠した。
「な――ぐ、偶然だよ。この色が好きなだけで」
「にしては、自然な色合い過ぎる。染髪したにしては不自然なくらい自然な色ね。……少し部屋の中を調べさせてもらったけど、この部屋には染毛剤が一つも見られない。かといって、あなたの利用ログを調べても、美容室には髪を切りにしか言っていない」
戦慄するソラにマリは棚の上に飾ってある写真立てへ目をやって、
「昔は綺麗な黒髪だった。横の白い髪の子はお友達かしら。とっても綺麗な銀髪ね。まるで……魔術師みたいな」
「く、クリスタルは魔術師じゃ……!」
「だったら、あなたの方が魔術師なの? 青木ソラさん。生徒を大切に想うあなたの担任は、そのような疑いがあってもずっと庇っている。あなたを取調べするために、捜査当局が何度学校を訪れたか知ってるの?」
「私は――私も、魔術師じゃないです……」
ソラは思わず目を逸らしてしまう。嘘を吐いている顔ね、とくすりと笑みを漏らすマリ。完全にマリのペースだった。ソラは少し泣きそうになっている。
だが、全てマリはお見通しだったようだ。泣きそうな顔となっているソラの顎に手を当てて、
「その涙は、自分が魔術師だと疑われたからじゃないわね。友達を庇うために、嘘を吐いたから流す涙。甘ちゃんが過ぎるのよ、あなたは。あなたの友達は魔術師かもしれないけれど、あなたが魔術師ではないことは、とっくの昔に結論が出ている。あなたの取り調べに捜査官が現われたのは、どうでもいいいちゃもんのため。奴らを数回痛い目に遭わせたら素直に言うこと聞いて引き下がったわ」
「ど、どういうこと……?」
あっさりと真実を暴露され、ソラは呆けた表情でマリを見る。それはね、とマリが説明しようとしたその時、思いっきりドアが開かれて、メグミの声が部屋に響き渡った。
「おーっす。ソラ、いるか? なぁ、また映画借りてきたんだが……ああ、勘違いするなよ? お前が一人で寂しがってると思うから、わざわざ来たわけであってだな、別に、私がひとりで映画見るのが寂しいってわけじゃ――え?」
ツンデレめいた言い訳を述べながら短い廊下を通り、リビングへと辿りついたメグミが驚く。
傍から見れば――ソラは今にもマリに接吻されそうな状態となっていた。顔を真っ赤にしたメグミが慌てて廊下の方へと後ずさる。
「いや、は、お前ら、そういう関係――?」
「ち、違うよメグミ! 誤解だよ!!」
我に返ったソラが反論するが、メグミは聞く耳を持たない。
「いやだって、目じりに涙まで溜めて――。なんかこう、扇情的な――。す、すまんな、私にはよくわからん。ごめんよ、親友の性癖を否定する訳じゃないんだ。わ、私は、愛されあれば誰が誰と付き合おうが問題ないと思ってる。これは本当だ。だ、だからな、その、ちょっと、整理する時間をくれーっ!!」
「うわー待って! ここで逃げられたら面倒くさい!!」
ソラは逃げようとするメグミの手を掴んだ。離せーっ! とメグミが暴れるので、傍観者となっていたマリの助力を求める。
「マリさん、手伝って」
「……いいけど、ややこしくなるわよ……」
「うわー待て! 私をそっちの道に引きこむなーっ!!」
魂の絶叫を上げ、抵抗するメグミだが、あっさりと部屋の中へと引きこまれてしまう。床に仰向けに寝かせられ、ひぃ!? と怯えてマリを見上げるメグミに対し、嘆息しながら説明を開始しようとした彼女だが、突然鳴り響いた轟音に、またもや中断させる運びとなった。
しかし、その瞳には呆れではなく警戒の色が灯る。ソラたちも、それは同じだった。
「爆発ね」
「ッ!? 魔術師共の攻撃……!!」
いち早くその原因に反応したのはメグミだった。次に冷静沈着なマリ。最後に、固唾をのんだソラ。
三人は窓の外を眺める。空には真っ黒な煙と、杖を携えるハットをかぶった少女が浮かんでいる。
「魔術師……!」
ソラは愕然としながらも、友達から貰ったお守りを握り絞めた。そうすれば、勇気を貰えるような気がしたからだ。