2.標石のように
"ディオネ"より。
窓の外を、黒々とした影がゆっくりと過ぎていった。
「魚がいるのですか」
ローレンは驚き、問うた。
「ああ、深海魚だよ」
男は、静かに答えた。
「こんなところで、生きていけるのですか」
ここは、海の底だ。正確な深さは分からない。陽の光の届かない、深い、深い場所だ。
そして、とても静かな場所だった。
「あらゆるものが、最後は海に沈む。気分を害されるかもしれないが、彼らが食べるものに困ることはないんだ」
「気分を害すなどということは、ありません。彼らにも与えられるものがあるのなら、よかった」
部屋には、小さな窓と大きな書棚があり、コーヒーの香りが染みついていた。
男は、二人分のコーヒーを淹れて、紙包みの角砂糖と一緒に、テーブルの上に置いた。ローレンに勧め、自分もカップに口を付けた。彼は、砂糖を入れなかった。
男はここで、ひとりで暮らしていた。年齢は分からないが、そろそろ中年に差し掛かる頃だろう。背が高く、痩せていて、草臥れた白衣を着ていた。海底に眠る鉱石について研究していると言っていた。彼のほかに、研究員はいない。ひとりで鉱石を手に取り、薬品をかけたり、顕微鏡で覗いたりする。そうして、遠慮がちな筆跡で、ラベルを書き、箱に入れ、棚に仕舞う。
ときどき、通りかかる人がいる。食料や、生活に使うものを、少しだけ分けてもらう。まれに、手紙を届けてくれる人もいる。ローレンがそうであったように。
陸の上の、賑やかな街に、この男を気にかけている人がいた。旅の途中でたまたま出会い、他愛ない話をした相手の中のひとりだった。彼は、ローレンが北へ行くのだと言うと、手紙を預けたいと申し出た。どういう関係かは聞かなかった。こうして見ると、顔立ちが少し似ていた気もする。兄弟かもしれない。
「深い、深いところにいます。もし見つけられなかったら、どうぞ、捨ててしまってください。返事はいりませんから」
そう言っていた。
そうして、その手紙は、ローレンを深海に導いた。北の海の、確かに、深いところだった。深海の扉は、ひんやりと冷たかった。
手紙を渡すと、男は丁寧に礼を言い、笑った。随分長い間、どこかに仕舞い込まれていたような、少し陰のある笑顔だった。そして、少し休んでいくようにと、ローレンを研究室に招き入れたのだった。
「弟だよ」
手紙の差出人を見て、男は言った。そしてそのまま、ポケットに仕舞った。ローレンが帰ったあとに、ゆっくり読ませてもらう、と。
「少しずつ、色々なものを置いてきたんだ」
男はコーヒーを飲みながら、そんなことを言った。
捨ててきたのではなく、置いてきたのだ、と。
「賑やかなところは、苦手ですか」
「そうじゃない。楽しかったよ」
男は笑った。
「ただ、もう、相応しくはない」
窓の外で、影が動いた。深海魚が、こちらを覗き込み、また去っていった。
「私も、賑やかな場所にいたこともあるんだ。学校にも行ったし、兄弟や友人もいた。色々なものに心を動かされて、期待したり落胆したりしてね。でも、もう、ずっと昔のことなんだ」
「大切な人は、大切な人でしょう」
「でも、大切な感情は、そのときだけのものだ。そこから離れるときには、置いていかないといけないものなんだ」
別れ際、男は鉱石を一つくれた。旅の邪魔にならぬようにと、小さなものを選んで、ローレンに渡した。深い、深い青色の鉱石だった。
「今残っているのは、いくつかの大きな傷と、沢山の小さな傷だけだ。でもそれも、少しずつなくなっていく」
「なくさないために、鉱石にしたんですね」
ローレンの言葉に、男は小さく笑い、顔を背けた。
「手紙をありがとう。弟によろしく。もちろん、もしまた会うことがあればで、いい」
気をつけて、と。
そうして、深海の扉は閉まり、男は静寂の中に戻っていった。
"ディオネ"より、激情を過去に置いて。