表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/2

2.標石のように

"ディオネ"より。


 窓の外を、黒々とした影がゆっくりと過ぎていった。

「魚がいるのですか」

 ローレンは驚き、問うた。

「ああ、深海魚だよ」

 男は、静かに答えた。

「こんなところで、生きていけるのですか」

 ここは、海の底だ。正確な深さは分からない。陽の光の届かない、深い、深い場所だ。

 そして、とても静かな場所だった。

「あらゆるものが、最後は海に沈む。気分を害されるかもしれないが、彼らが食べるものに困ることはないんだ」

「気分を害すなどということは、ありません。彼らにも与えられるものがあるのなら、よかった」

 部屋には、小さな窓と大きな書棚があり、コーヒーの香りが染みついていた。

 男は、二人分のコーヒーを淹れて、紙包みの角砂糖と一緒に、テーブルの上に置いた。ローレンに勧め、自分もカップに口を付けた。彼は、砂糖を入れなかった。

 男はここで、ひとりで暮らしていた。年齢は分からないが、そろそろ中年に差し掛かる頃だろう。背が高く、痩せていて、草臥れた白衣を着ていた。海底に眠る鉱石について研究していると言っていた。彼のほかに、研究員はいない。ひとりで鉱石を手に取り、薬品をかけたり、顕微鏡で覗いたりする。そうして、遠慮がちな筆跡で、ラベルを書き、箱に入れ、棚に仕舞う。


 ときどき、通りかかる人がいる。食料や、生活に使うものを、少しだけ分けてもらう。まれに、手紙を届けてくれる人もいる。ローレンがそうであったように。


 陸の上の、賑やかな街に、この男を気にかけている人がいた。旅の途中でたまたま出会い、他愛ない話をした相手の中のひとりだった。彼は、ローレンが北へ行くのだと言うと、手紙を預けたいと申し出た。どういう関係かは聞かなかった。こうして見ると、顔立ちが少し似ていた気もする。兄弟かもしれない。

「深い、深いところにいます。もし見つけられなかったら、どうぞ、捨ててしまってください。返事はいりませんから」

 そう言っていた。

 そうして、その手紙は、ローレンを深海に導いた。北の海の、確かに、深いところだった。深海の扉は、ひんやりと冷たかった。

 手紙を渡すと、男は丁寧に礼を言い、笑った。随分長い間、どこかに仕舞い込まれていたような、少し陰のある笑顔だった。そして、少し休んでいくようにと、ローレンを研究室に招き入れたのだった。

「弟だよ」

 手紙の差出人を見て、男は言った。そしてそのまま、ポケットに仕舞った。ローレンが帰ったあとに、ゆっくり読ませてもらう、と。



「少しずつ、色々なものを置いてきたんだ」

 男はコーヒーを飲みながら、そんなことを言った。

 捨ててきたのではなく、置いてきたのだ、と。

「賑やかなところは、苦手ですか」

「そうじゃない。楽しかったよ」

 男は笑った。

「ただ、もう、相応しくはない」

 窓の外で、影が動いた。深海魚が、こちらを覗き込み、また去っていった。

「私も、賑やかな場所にいたこともあるんだ。学校にも行ったし、兄弟や友人もいた。色々なものに心を動かされて、期待したり落胆したりしてね。でも、もう、ずっと昔のことなんだ」

「大切な人は、大切な人でしょう」

「でも、大切な感情は、そのときだけのものだ。そこから離れるときには、置いていかないといけないものなんだ」



 別れ際、男は鉱石を一つくれた。旅の邪魔にならぬようにと、小さなものを選んで、ローレンに渡した。深い、深い青色の鉱石だった。

「今残っているのは、いくつかの大きな傷と、沢山の小さな傷だけだ。でもそれも、少しずつなくなっていく」

「なくさないために、鉱石にしたんですね」

 ローレンの言葉に、男は小さく笑い、顔を背けた。

「手紙をありがとう。弟によろしく。もちろん、もしまた会うことがあればで、いい」

 気をつけて、と。

 そうして、深海の扉は閉まり、男は静寂の中に戻っていった。

"ディオネ"より、激情を過去に置いて。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ