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1 鍵をめぐる考察

 八月上旬、季節は夏。真夏である。こんな暑い日は、冷房の効いた部屋でアイスを食べてだらけていたい、と怠け者のつまらない願いの典型みたいなことを考えながら、桐島丈は、現実には冷房がさっぱり効かないアパートの一室で、数学の宿題をちまちまと進めていた。たいして広くない部屋だというのに、旧式のエアコンはちっとも冷気を溜めてくれない。手にじんわりかいた汗のせいで、数学のノートはしっとり湿ってよれてきている。消しゴムで間違えたところを消す際に、勢い余ってページを破いてしまったときには、えもいわれぬ苛立ちを感じた。

「暑ぃ……」

 思わず呟いてしまうと、テーブルを挟んで向い合せに座っていた真壁阿澄が、バンとテーブルを両手で叩いて抗議した。

「暑い暑いって言わないでよ、余計暑くなるじゃない」

「じゃあ、なんだ。寒いとでも言えばいいのか」

「白々しい嘘をつかないで、余計暑くなるわ」

「どうすればいいんだ」

「冷房買い替えてよ」

「帰れよ」

 勝手に人の部屋に押しかけておきながら文句を言う幼馴染に出す麦茶はない。丈はキッチンに立ち、キンキンに冷やした麦茶をこれ見よがしに一人で飲んだ。これが家主の力だ、とドヤ顔を向けると、阿澄が思った以上に本気で怒っている顔をしていたので、渋々阿澄にもグラスを勧める。意志の弱いことである。阿澄は満足げに麦茶を一気飲みして、ごん、とグラスをテーブルに置く。

「丈もさぁ、夏休みくらい実家に帰ればいいんじゃない? 平日の昼間なんて、誰もいないんじゃないの?」

 実家はアパートからほんの一キロしか離れていないところにある。思春期特有の妙な自尊心のせいで勢いで家を飛び出してしまったのが中学生の時のこと。安いオンボロアパートとはいえ、家賃を姉に出してもらっているのだからお笑いである。

 別に丈は四人の姉たちと折り合いが悪いわけではない。ただ、四人もの姉に囲まれていると、喧しくって仕方がないというのもあり、飛び出してしまった手前引っ込みがつかなくなったというのもあり、滅多に実家に帰らない。だが、姉たちと顔を合わせるのが気まずいのだとしても、姉たちがいないときに新式の冷房の入った実家の部屋を使用することくらいはいいだろうという阿澄の意見は、もっともなものかもしれない。あわよくばその恩恵に自分もあずかりたいと考えているのであろう阿澄の下心については、あえて触れない。

「そうは言うけど……確かにはじめ姉と双美姉は、昼間は家にいないけど。四葉姉は家に引きこもって受験勉強に本腰入れ始めたし……」

 丈としては、ふだんから学校から帰るなりほぼ部屋に引きこもって勉強をしている四葉が、それでもまだ本気でなかったということに驚きである。来年になって自分がそれを真似できるかというと、甚だ疑問である。

「三恵姉は、遊びたい盛りだとか言いながらも、結局家に引きこもって本読んでるし」

 文学専攻の大学三年生、三恵は、読書が趣味だ。完全なるインドア系女子のため、どこかへ遊びに出かけるということはほとんどない。

「だから、夏休みでも、家には常に二人の姉がいる。だから帰らん」

「はぁ……前から思ってたけど、あんたも意外と頑固なところがあるわよね。しかもつまんないことで」

「自分でも解ってるから何も言うな」

 丈が思わず苦々しい顔をするが、麦茶が渋かっただけを装った。

「ところでさ、お姉さんたちって、どんな魔法を使うの? そういえば、聞いたことない気がする」

「姉さんたちの魔法か……連中の魔法に関してはあまりいい思い出がないんだがな」

 再び丈は苦い顔。

「はじめ姉さんは、普通の人より身体能力が高くなるらしい。オフィスでパソコンいじくるより現場で肉体労働してた方が適材適所だろうと、何度思ったことか」

 だが、職場で魔法がまったく役に立っていないわけではないようだ。実際、はじめは職場のセクハラ上司を、魔法を使った殺人的威力の蹴撃で撃退したらしい。それがあまりにひどくて、被害者だったはずなのに上司から窘められる始末。もっともこれは、魔女と非魔女とでは、もめごとが起きた時にどうしても非魔女のほうが擁護される傾向にあるせいなのだが。ようは「弱者は守られるべき」との考え方に則っているわけだ。魔女が多く住まう魔法特区で、「弱肉強食」のような考え方では、魔女でない者にとってあまりに不利だ。

「……で、双美姉は、知ってのとおり駅前で怪しげなポーション屋をやってる。双美姉は、そういう怪しい薬を作るのが得意だ。白雪が前に言ってたポーション屋って、双美姉の店だと思うぞ」

「えっ、じゃ、じゃあ丈、今度買ってきてよ、家族割で安くなるでしょ!」

「何くいついてんだよ。家族割なんかないし……だいたい何が欲しいんだよ」

「それは、ほう……いや、なんでもない。続けて」

 阿澄が顔を赤くして俯くが、なんでもないというので、丈は重ねては問わない。

「三恵姉は、念動力っていうのかな、手を触れずに物を動かせる。自分は一歩も動かずに書架から本を運べるっていうんで重宝がってる」

 おそらくは姉妹の中で一番魔法を、よく言えば平和に、悪く言えばつまらないことに使っている人間だ。

「四葉姉は……言ったら怒られるから秘密」

「ふぅん? まあ、いっか。それにしても、へぇ、なんか多彩だねえ。よりどりみどりっていうか」

「まあな。けど母さんは、たった一人でよりどりみどりだったぞ。姉さんたちの魔法を、母さんたちはどれも使えたから。というか、割と何でもできる人だった。何でもできるのをいいことに、いろいろと道具を作っていた」

「その一つが、魔法の鍵ってわけね」

「そういうこと」

 魔女ではないため魔法を使えない丈に、唯一託された、魔法の鍵。話によれば、桐島御影作品の中でも最高傑作らしい。

「でもさぁ、お姉さんたちがそういう魔法を使えるってことは、逆に言うと、鍵はそういうことに使うわけではないってことよね? そうじゃないと、わざわざ道具を作る必要がないから」

「確かに、そういうことになるな。馬鹿力とか薬作りとか念動力とかだったら、道具なんかに頼らなくても、姉さんたちは自分でできるんだから」

 もっとも、姉たちを生む前に鍵を作っておいたら、同じ力を持つ魔女が生まれてしまったという可能性もないではないのだが、それでは自分の死後に鍵を大事に保管するように言いつける理由がないから、あまり考えなくてもいい可能性だろう。

 桐島御影は、生前に魔法の鍵を作った。しかし、それを自分で使ったことはない。いまだ鍵は誰も使っていない。誰かが使っていたら、もっと情報が流れているはずだ。誰にも使われないまま、丈だけが知る隠し場所でひっそりと眠っている。

 御影は、死に際に鍵を託した。それは、自分の死後、誰かにとってその鍵が必要になると予測していたからだろう。

 誰のために、なんのために、魔法の鍵は残されたのか。

 多くの魔女が狙う魔法の鍵とは、なんなのか。

 今まではどうでもいいと思っていた、ことなのだけれど。

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