93 長崎
長崎
二百年間、公的に認められた唯一の交易都市。
異国情緒ただよう港町。
そして、
「ほんに坂ばかりじゃのう!」
長崎は坂の多い町。
「足が痛うなってきた」
宿舎を出てからずっと急な下りつづきで、草鞋の緒が指の間に喰いこんで、さっきからヒリヒリズキズキ。
俺のリクエストで、ようやく港近くの緩斜面に出たあたりで小休止を取る。
「だからあれほど申しあげたではありませぬか。駕籠がおイヤならば、せめて馬になさればよいものを」
本当ならここにいちゃいけない江戸留守居役がとなりでブツクサ。
「グ、グチではないぞ! 行きは六区、帰りは五区練習ができ、うれしいと言うておるのじゃ!」
「ふっ、さような強がりを」
「強がってなどおらぬ!」
「まぁまぁ、おふたりとも。かようなところで痴話ゲンカはおやめくだされ」
大きな包みを手にした森が横からしゃしゃり出る。
「「痴話ゲンカだとっ!?」」
「え? あ、だって、その、あの……」
ふたり分の怒気に、うろたえるヒラ小姓。
「痴話ゲンカとは、『情人(恋人)どうしが戯れ合っていたすもの』だ!」
「冬馬の申すとおり! いつわれらが念友となったのだ? 言葉は正しく使用いたせ!」
「も、申しわけございませぬ」
主君と元上司からの波状攻撃に、森は涙目。
「やれやれ、昨今の、言の葉の乱れようはひどいものじゃな」
悲憤にかられる俺に、大きくうなずくアラサー男。
「さよう。わが邦はいにしえより『言霊の幸ふ国』と称されておりましたが、憂うべき風潮にございまする」
「なげかわしい」
「まことに」
「言の葉は心をうつす鏡じゃ」
「殿もたまにはよきことを」
「【たま】とはなんじゃ、【たま】とは!?」
「言葉のアヤで」
「そなた、なにか言いたきことでもあるのか?」
「ならば申しあげまするが ―― くどくどくどくど ――(以下略)」
俺たちの高尚な論戦を無言で見守っていた長崎奉行一行だったが、
「ときに、六区五区とはなんのことですかな?」
長崎奉行の水野が、浅田にヒソヒソ耳うち。
俗に『九十九大久保に百本多、水野の苗字知れず』といわれる幕臣によくありがちな名のお奉行さまは、四十代半ばの上品なオッサンだ。
「お気になさらずに」
水野の問いを、さらりと流す現小姓頭。
「殿のいつもの妄言にございますれば」
「妄言?」
「わが殿は『江戸箱根間往復駅伝競走』なる構想に取りつかれておいでで、『山登りの五区』『山下りの六区』とは小田原・芦ノ湖間の走路名とか」
「箱根…………駅伝??」
「殿はその遠足大会を主催されるだけではなく、御自ら参加なさるおつもりなのです」
「い、一国の太守が、遠足に!?」
絶句するオッサン。
「はい、それゆえ、日々かくのごとく鍛錬を」
「あぁ、それで徒にて?」
「はい、さようにございまする」
「なんとも不可解な」
お奉行さまは、奉行所差しまわしの駕籠を断り、テクテク歩く俺の行動が「???」らしい。
そのうえ、政府高官が徒歩なので、それに毎日つきあわされる水野ら役人たちは相当ウンザリしているようだ。
「またその大会実施のためには、東海道筋のインフラ整備が必須だとか」
「い、いんふらふら???」
「なんでも、東海道幅員拡張普請にはじまり、六郷川・酒匂川への架橋、箱根路に新たな登山道敷設、函嶺洞門なる覆道建設等々やるべきことがてんこ盛りだそうで」
「さきほどより、申されていることがとんと……」
「いえ、われらにもようわかりませぬ、はっはっは」
あれ以来、添い寝係を大野に押しつけ、最近は体調・ゴキゲンともに上々の浅田くん。
押しつける方も押しつける方だが、それを嬉々として引き受ける方もどうかと思うが。
しかし、くやしいことに、添い寝担当が大野にかわったとたん、コンディションが激変!
睡眠時間は同じなのに、翌朝の回復度が全然ちがう。
どういう構造になってんだ、この身体は?
大野じゃないとダメなのか?
どんだけ、こいつが好きなんだ、容さん!
こんな口うるさい説教オヤジのどこがいいんだ!?
(そりゃ、ちょっとカッコいいところも、あったり、なかったり……ごにょごにょ……)
「おそれながら」
後方で人声があがった。
「お武家さま方はどちらのご家中でございますか?」
見れば、最後尾の随員におずおず話しかけているのは、四、五人ほどの質素な身なりの一団。
(……農民……?)
「われらは会津松平家家中だが、なにか?」
にこやかに答える家臣A。
(よしよし)
会津藩士は、中屋敷での交代勤務があるので、つねにスマイルゼロ円対応が染みついているのだ。
(そうそう、どこにビジネスチャンスが転がってるかわからないもんね!)
ところが、
「無礼者めがっ!」
耳障りな怒号が湧いた。
「こちらにおわす御方をどなたと心得る!? 大政参与・松平肥後守さまなるぞ! 控えい、控えい!」
(その決めゼリフ、俺は、水戸黄門じゃねーよ)
「「「い゛っ!?」」」
白目をむく民間人一同。
ふつう、そんなオエライさんはのんびりウォーキングなんかしないから、たしかにビックリするだろう。
「「「こ、この徒士の中に、さような御方が!?」」」
「えぇい、控えよっ!」
役人はそう叫びながら、呆然とするオッサンたちを六尺棒でぼこぼこタコ殴り。
開闢以来初の大老格要人の長崎滞在に、奉行所スタッフはつねにピリピリ超厳戒態勢を取っているのだ。
「これこれ、やめぬか!」
地面に平伏する一団のほとんどが額やこめかみから出血している。
さっき殴られたときに切ったようだ。
「なんと無体なことを」
ったく、なんちゅうことしてくれるんだ!?
この時代は、国民の八割以上が農民で、一方、サムライは陪臣をあわせても一割未満。
農民が年貢払ってくれなかったら、武士は即破産。
ましてや、国家規模の反乱なんか起こされたら、武士階級即終了だ。
時期的にも倒幕のカウントダウンがはじまりそうなころなのに、ホントもうちょっと考てくれよ!
「すまぬのう」
懐から懐紙を出して、みんなのおでこをペタペタ拭き拭き。
あー、もー! あっちでもこっちでもみんなの尻ぬぐいばっかりだ!
「「「も、もったいない!」」」
「よいのじゃ、よいのじゃ。そなたらあっての御公儀ぞ~」
「「「!!!」」」
感激のあまり泣きだす男たち。
「「「ありがたい、ありがたい」」」
「かわいそうなことをしたのう」
汚れた着物をパタパタしてやると、号泣はいっそうはげしくなる。
(こいつら、なんも悪いことしてねーのになぁ)
お百姓さんたちに対する同情心がむくむく湧いてくる。
(それに、もとはといえば)
みんなが言うように、俺がおとなしく駕籠に乗っていればこんなことにはならなかったはず。
こいつらも被害者だが、神経を使うよけいな仕事をふやされた役人だってある意味被害者だ。
(すんません、俺のせいで、こんなことに……)
いろいろ申しわけない気持ちでいっぱいになる。
ふと、
「おお、そうじゃ、粂之介!」
「はっ」
「この者らに、例のものをつかわせ」
「御意」
一礼した森は、手にした包みから人数分を取り出して、テキパキ配布する。
「「「こ、これは?」」」
配られた赤い根付に困惑する農民たち。
「これはべこコボ吊紐と申し、江戸でも入手困難なお宝グッズだ」
森くんは、そう言ってにこにこ愛想笑い。
「「「お宝ぐっず???」」」
「いま江戸にては『べこコボグッズを持たざれば人にあらず』とまで言われる、通人のマストアイテムであるぞ」
浅田もさりげなくセールストーク。
「「「それほど貴重なものを!?」」」
ストラップを押し抱きながら、うるうるするご一同。
そして、俺たちを囲むようにできはじめるやじ馬の輪 ――――




