91 海つ路
嘉永七年 長月下旬
すみわたる蒼穹。
はてしなくひろがる碧海。
凪いだ水面にひびくのは潮音と、
「殿……殿……殿…………殿ぉーっ!」
ガキのようにはしゃぐ小姓の呼号のみ。
(っせんだよー、さっきから)
イライライライラ
「まさに飛ぶがごとき速さ! 黒船とはみごとなものにございまするなっ!」
「さようか」
「会津には海がありませぬゆえ、まことに楽しゅうございますね ♡」
(なに全力で満喫してんだ、おまえは!?)
イライライライラ
ふと、わき上がる邪悪な心。
「粂之介、楽しんでおるところ、すまぬが」
ほほをピンクに染め、俺を見あげる無垢な眸。
「あの目障りなものを片づけてまいれ」
命じつつ、扇子の先で数十メートル先をさす。
示す方は、蒸気船のメインマスト付近。
キラキラの笑顔がそちらに向けられた瞬間、
「ひぃぃぃ~~~っ!」
一気に青ざめ、あわあわおろおろ。
「で、できませぬ! それがしにはできませぬ!」
「主命じゃ。あれを海に捨ててまいれ」
「さ、ささ、さようなことは、ム、ムリ……」
「そなた、主命を拒むかっ!?」
「なにとぞ、なにとぞ、その儀ばかりは……」
歯の根も合わぬほどガタガタぶるぶる。
「お、お許しください。それがしには、それがしには到底!」
半泣きになりながら、必死に懇願。
「不忠者めがっ!」
イライライライラ
「ならば……」
逆サイドにいる男を見すえる。
「そなた、小姓頭としてこのフヌケに範を垂れよっ!」
「そ、それがしが?」
理不尽なとばっちりに、身ぶるいする小姓頭。
「うむ」
威厳たっぷりに頷首。
「な、なれど、なれど……『あれ』は…………」
マストをチラ見しながら、こっちも滝汗。
「『あれ』がどうした?」
秀麗な貌にきざまれる冷酷なほほえみ。
「もしや、見知ったものに似ておる、とでも?」
「は、はい」
「錯覚じゃ! ただちに始末いたせっ!」
「な、なれど……」
ふたりの視線は、柱の陰にひそむ物体に釘づけ。
「「あれは、まぎれもなく……」」
「言うなっっっ!!!」
「「し、しかし……」」
「くどい!」
ついに沸点越え。
「ええぃ、かように使えぬ小姓などもういらぬっ! そなたらは次の港にて下船せよっ!」
「「と、殿~~~」」
抱き合ったまま涙にくれるふたり。
「肥後守さま」
ひりつく空気をやぶるおだやかな声音。
「なにか不都合でもございましたか?」
「「ま、又一さまっ!」」
しずかに歩みよる幕臣に、生気を取りもどす会津藩士ども。
「ふん。そなたにはかかわりなきこと。口出し無用じゃ」
落ちつきはらった端正なたたずまい。
それが逆に俺の神経をガリガリけずる。
「なれど、ずいぶんと大声を出されておいででしたが?」
「いや、わたしはただ――」
「くっくっくっく」
横から忍び入る嘲笑。
「肥後守さまの周囲は、いつもにぎやかですな」
「「岩瀬さま!」」
(人一倍ムカつくやつが来やがった)
「そなた、中島とともに黒船内部を調査しておったはずでは?」
(ついでに、ボイラーにでもハマっちまえ!)
「ひと通りすみました。もっとも、中島はまだ調べておりますが」
中島は浦賀奉行所与力。
ペリー来航時にはその応対をする傍ら、蒸気船の構造をしっかり偵察した熱心な男で、アメリカ側にスパイと疑われるほどガッツリ調査したらしく、今回そこを評価され、遣清使メンバー入りした幕臣だ。
「やはり【中島は】頼もしいのう!」
(あんたとはちがって)
「中島は、高島流をはじめ砲術数派の免許皆伝者。こたび、その才を買われ随行したのです。
それがしのごとき一介の【昌平坂学問所教授】など、中島や【武勇伝づくしの会津侯】にくらべれば、ただの凡夫にすぎませぬ」
「…………」
メガトン級の敗北感。
イヤミ男にイヤミをかましたら、あっさり返り討ちに。
くそ、ストレス解消どころか倍増しちまった。
イライライライライライラ
ふいに、真っ黒な内面に呼応するかのように、俺のまわりだけ陽ざしがかげった。
くわえて、至近にせまる妙な圧迫感。
「背後に立つでないっ!」
ふり返りざま、真後ろにそそり立つ肉塊をギロリ。
「何度同じことを言わせる気だ!?」
「申しわけございませぬ」
ヘラクレスのような巨体から吐き出される機械的な応え。
「視界をふさぐな! うっとおしい! 庭方なら庭方らしゅう、物陰にでもひかえておれ!」
「申しわけございませぬ」
と言いつつ、まったく反省の色もないふてぶてしさ。
「もうよい! そなたも次の停泊地にて下船せい! 護衛は又一のみで十分じゃ!」
「おそれながら」
底冷えのする眼で俺を直視。
「それがしは肥後守さまの臣にあらず。ゆえにその下知にはしたがえませぬ」
「な、なに!?」
「それがしはわが主君に命じられ、主家の婿君であられる侯の護衛を――」
「だまれっ!!!」
『主家の婿』だと!?
そんな縁談、承諾してねーぞ! 華麗にスルーしたはずだ!
なのに、あいつめ、一方的に婿認定しやがってー!
あー、もー、ない! ありえない!
松平容保があの大名を『パパ』と呼ぶなどという事態があってたまるかーーーっ!!!
「なれど、無事帰国なされた暁には、祝言を――」
「だまれと申しておるのだ、吉之介っ!」
吉之介。
とある大名が(頼みもしないのに)派遣してきたSS。
しかして、その実体は……。
庭方にしては目立ちすぎる図体。
ハンパない目力。
そして、どこかで聞いたことのあるような名前。
い、いや、考えすぎだ!
顔も体型も、上野のアレとは全然似てねー!
こいつはあんな腹の出たノンキそうなオヤジじゃなく、どっちかつーと筋骨隆々、ノンキどころかマイナスオーラどろどろの陰キャラだし!
言葉だって、若干訛ってはいるけど、「おいどん」とか「ごわす」とか言わねーし。
そうそう、絶対アレとは別人だーっ!!!
…………てか、じゃないことを祈る~。
これ以上、フラグ立ったら、メンタルもたないし~。
あ、痛……突如、胃に差しこみが。
やばい。
このままじゃ、亡命する前に心身ともに……壊滅。
と、そのとき、
「お待ちくだされ」
崩壊寸前のマインドにトドメをさす一声が湧く。
「わが部下への不当な叱責、見すごすわけにはまいりませぬ」
マストの陰からずいっとあらわれる人影。
先刻来、市原悦●の家政婦状態でこっちをガン見していたド変態ヤローだ。
(き、来た……)
とうとう来やがった。
「これは異なことを。ここにおるはわが近習。そなたがなに者かは知らぬが、さようなことを言われる筋合いはない!」
俺の啖呵に目を丸くする小姓ども。
「「殿、なにを仰せに? これなるは大――」」
「否っ! さにあらずっ!!!」
「「殿!?」」
「「「肥後守さま!?」」」
一同、呆然。
心なしか全員のポジションが一歩ずつ後退したような気もする。
「主君たるわたしがそう命じたのじゃ! あの者がここにおるはずはない!」
喉もさけよとばかりに絶叫。
「そこにおるのはあやかし ―― さしずめ海坊主が変化したものじゃ!」
キャパ超えの負荷に自制心も崩壊。
二十一世紀なら、即労災認定されるほどのブッ壊れ方。
「ぅぅ……ひっくひっく……くすんくすん……もうヤダ……マジで……帰りたい……平成……」
「「「――――」」」
こうして、徳川政権下初の外交使節派遣事業は、殺伐とした雰囲気の中スタートしたのであった。