87 疑心
嘉永七年 長月上旬
本丸御殿御納戸口・老中下部屋
俺のメンタルは、その日も折れていた。
「やはり帰る!」
「殿っ!」
せまい個室にひびく近臣の叱咤。
「まもなく奥入りの刻限。そののちは公方さまの御召にございまするぞ!」
「ゆえにイヤなのじゃ! 御召は鬼門じゃ!」
「いいかげん観念なさいませっ!」
バカやろー!
いままで家定公の御召でよかったことなんてあったか?
逆だ!
百パーめんどくさい話に決まってんだろ!
だから朝練のあと、藩邸にもどる家臣にまぎれてバックれようとしたのに……。
大野に捕獲され、CRCメンバーにひきずられ、容赦なく控室にポイ。
「いやじゃー! 気分が悪いー! 政などできぬー!」
だって……だって、だって、だってーーーっ!
このビンボーくじ大名に憑依して八か月弱。
会津戦争回避のため、はたまた倒幕阻止のため、俺なりにがんばってきた。
なのに、やることなすこと全部裏目!
がんばればがんばるほどフラグだらけ!
「もうなにもかもいやなのじゃーっ!」
徒労感まみれで……ホント心底疲れはてたの、ボク。
「殿」
そんな俺に、にっこり笑って水筒を差しだす小姓頭。
「水でも召しあがられ、すこし落ちつかれませ」
さすが近習歴十四年のキャリア。
叱る・なだめるのメリハリが絶妙だ。
だが、今日の俺にはそんな子供だましは通用しない!
「さようなものは要らぬ! かくなるうえはわが祖・前田利常公にならい、わたしもしばらく登城をひかえることといたす!」
「おや?」
突如「ぐふぐふ」とあやしげな含み笑いをはじめる近習。
「ならば不登城をせめられた暁には、御老中の前で袴をめくられ『ここが痒かったゆえ、登城できなんだ』とおっしゃるのですな?」
「なっ!?」
「鼻毛を長~く伸ばされ、立小便禁止の札にむかって放尿なさるのですな?」
「……ぐっ……」
「さようなことをなされば、贔屓筋に愛想をつかされるは必定。確実に客足が減じ、今後、振比は一枚も売れぬでしょう。それでもよければ、おやりなされっ!」
「……うっ……」
くそ、容さんのご先祖さまハンパねぇな。
前田利常は利家庶子で、加賀三代目藩主。
戦国時代最後の武将・利常は、反骨精神バリバリのちょっとウザいオッサンだった。
豊臣家なきあと、徳川の仮想敵国となった加賀百万石の当主・利常さん、上記のようなありえない奇行をやっては、周囲に、
「バカなふりして幕府を油断させてんだっ! 加賀百万石をまもるためのフェイクなの!」
そうフカしつつ、改易ギリギリのラインをねらって、あの手この手で幕府を挑発しまくり。
豊臣系有力大名がつぎつぎお取り潰しになる中、天下の徳川をおちょくるだけでも相当ヤバイのに、常人にはマネできない超上級者レベルの示威行動をつづけ、やがて伝説となった。
でも、だめだ。
公共の場で立ちシ●ンとか、露出とか、鼻毛……そこまで俺は自分を捨てきれない。
「な、なれど、なれど、今日は格別悪しき予感がするのじゃー!」
「殿!」
「帰りたいぃーっ!」
「なにをさわいでおる?」
「どうなさったのですか?」
融通のきかない部下とのバトル中、乱入してくる大名がふたり。
「われらの部屋まで聞こえてきたぞ」
「すこしお控えなされた方がよろしいかと」
「うぅ、喬士郎さま、定之丞さま……」
あきれたように見下ろす半袴姿の幼なじみたち。
こいつらの控室は御納戸口土間をはさんだ反対側。
どうやら口論がそっちまで聞こえていたらしい。
「冬馬がいじめるのじゃ~! 助けてくだされ~!」
「なにっ!?」
一瞬でブチ切れる池田因幡守慶宗。
すがりつく俺をがしっと抱きとめ、憤怒の表情で大野を一瞥。
「大野冬馬か。そなたは前々から気にくわなかったのだ」
「存じておりまする」
ひるみもせず、ひややかに見かえす会津武士。
「臣下の分際で、わたしのかわゆい金之助をいじめるな! 金之助はほめられて伸びる性なのだ!」
「さにあらず。殿はあまやかすと、どこまでも増長なさる質にございます」
「まあまあ、ふたりとも」
おだやかに割って入る浅野安芸守慶輝。
「やれやれ」
大げさに嘆息する小姓頭。
「これほど申しあげてもおわかりにならぬとは。もはやそれがしの手には負えませぬ。この場にて御暇をいただきまする」
「ほう、脱藩するか? それはおもしろい!」
せせら笑う池田。
「そ、そなた、主君を脅す気か?」
「脅しではございませぬ。本気にございます」
真顔で答える男を前に、なぜか早まる鼓動。
「ああ、去ね! 去ね! その仏頂面がいなくなれば、せいせいするわ!」
無責任にあおりたてる貴公子。
「戯言であろう? 禄を失ったら、どう暮らしをたてる気だ?」
「いざとなれば、手跡指南なり傘張りなりいたし、糊口をしのぐつもりにて」
「なれば、当家でもらい受けましょう」
さわやかに参戦する浅野くん。
おい、なんで、おまえまで?
「この者には以前より目をつけていたのです。案ずることはないぞ、大野。わたしが倍の禄にて召し抱えよう」
ま、まずいっ!
あの人間ばなれした有能さ、フリーになればヘッドハンティング一直線!
でも、こいつがいなくなったら藩邸機能は即停止。
会津藩政に、いまだかつてない深刻な危機到来っ!
「まことにございまするか? いかにも安芸守さまのもとならば、それがしもかような苦労はせずにすみ――」
「ならぬぅーっ! 冬馬はわたさぬぅーっ!」
(……ぇ……?)
「行っては……(えぐ)……ならぬ。傍を……(えぐ)……離れては……(えぐ)……ならぬぅーっ!」
叫ぶと同時に大洪水。
こ、これ、容さん……だよな?
俺……じゃないよな?
にしても、コワイくらいの、この一体感はなに?
そして、ふしぎなデジャビュ感。
たしかガキのころ、スーパーで「食玩買ってー!」で母ちゃんに叱られて、似たような体験を……。
あのときは反対に「それなら他家の子になりなさいっ!」だったが。
「では、わかっておられまするな?」
しずかにさとす大野。
「もう……(えぐ)わがままは言わぬ。そなたの……(えぐ)言うとおりにする」
「ならば、よろしゅうございます」
忠臣の顔にひろがるやわらかなほほえみ。
その笑顔に、ちぢんだ心がほぐれていく。
「冬馬ぁ~!」
感きわまって腕の中にダイブ。
「そなたは(えぐ)、死ぬまで(えぐ)、わたしだけに(えぐ)、仕えるのじゃー!」
「はいはい、ずっとお傍におりまする」
背中をやさしくなでなでされ、安心感と幸福感でほっこり。
なじんだぬくもりにつつまれ、徐々に平安を取りもどしていく容さん。
ふいに、
(いつもながら、かたじけのうございます。喬士郎さま、定之丞さま)
頭上でなにやらひそひそ。
(なんの。そなたも大儀よの)
(ふふ、なれておりますゆえ)
(ふむ、つねに同じテが効くからな、金之助さまは)
(……お恥ずかしいかぎりで……)
((そこがまたかわゆいのだがな♡))
(これからも、なにとぞよしなに願いあげまする)
(うむ。金之助の儀、われらがしかと引き受けた)
(さよう。大野は奥入りできぬゆえ心配であろうが、わたしたちがついておる。安心いたせ)
(実にありがたきお言葉。家臣一同になりかわり御礼申しあげます)
((ふふふふ、なれておるでのう))
「……?……」
いまのはいったい???
と、
「ごほん。お取りこみ中、おそれいりまする」
背後から、笑いをかみ殺したような声が。
……上田侯……?
「そろそろ刻限にございますれば」
こわごわふり返ると、池田・浅野の後ろには四老中がずらり。
阿部は能面。目が点の牧野。チューユーさんと西尾侯は爆笑寸前。
ぜ、全部見られて……た!?
ぎぇぇぇーーーっ!!!
大老格のこの会津侯がみっともない姿をーっ!
お、俺じゃねぇ!
容さんだ! 容さんがいけないんだっ!
容さんの、バカーーーっ!!!
こうして、最初から折れていたメンタルは、あとかたもなく粉砕されたのであった。