80 襷(たすき)
えぐえぐ……えぐえぐ……えぐえぐ。
人払いした御座之間にひびく主の嗚咽。
えぐ……ぇぅ……ぅぃ……ひっく……。
「落ちつかれましたか?」
絶妙なタイミングでわく声。
「……う……む」
しがみついていた身体からのろのろ離れ、しゃくりあげる呼吸をととのえる。
先刻まで茜にそまっていた座敷には、暮色がただよいはじめている。
「これを」
さしだされた懐紙で、洟をチン。
そんな主君をしずかに見まもる小姓頭。
つねにピシっとしている着衣は、いまやぐちゃぐちゃシワシワ状態で、胸元にはドデカいシミが広がっている。
え? 人払いしたはずなのに、なんでこいつがいるのかって?
ああ、ほら、これ、等身大テディちゃんだから。『人』じゃないから!
「さて、落ちつかれたようにございますれば……」
襟元をなおし、居ずまいをただす男。
いつになくおだやかな口調ににおう危険なかおり。
「少々申しあげたき儀がございます」
き、きたーーーっ!
うすらぎゆく残照の中、一分の隙もなく端坐する侍。
最古参近習がカマしてくるであろう濃ぃ~説教に、心臓は早くもバクバク。
たぶん、今回の説教ポイントはふたつ。
≪ひとつめ≫
なぜ、将軍に命をねらわれるハメになったんだ?
どうせ、殿が逆鱗にふれる失態でもしでかしたんだろ?
(……知るかよ! 心当たりなんて、1ミリもねーわ!)
≪ふたつめ≫
なぜ、妹と仲良くできない?
妹と顔を会わせるたび、
「お入学!」
「グローバル!」
「白粉には水銀と鉛がうんちゃらかんちゃら。毒だ! 金かかる! やめとけ!」
「甘味だと? 太るぞ! ゼイ肉に金払う気か?」
なんて言ったら、女の子にきらわれてもしゃーないだろーがっ!
―― こんなあたりだろ。
(まぁ、いまにして思えば、だがな)
だって、『ひとりっ子』『カノジョなし』『男子校出身』の俺にとって、あの年頃の女子は未知の生物。
なに話したらいいか、全ッ然わからなくて、毎回、仕事関連の話題をついつい。
まさに、日ごろ疎遠な親父が、娘に、
「おい、スマホばかりいじってないで、たまには勉強しろ!」
「おまえ、すこしスカート短いんじゃないか?」
「こどものくせに口紅なんか……え、リップクリーム? いや、どう見ても口紅だろ、そりゃ」
とかやっちまって、
「ウザッ! キモッ! 死ねっ!」な構図そのもの。
それプラス【毒殺未遂】!
がっつり叱られるんだろうなぁ(トホホ)。
「先ほどの利さまに対するおふるまいですが」
ほらーーー、やっぱりーーー!
「いけませぬなっ!」
は、はい、わかってます!
てか、いま、わかりました!
反省してます!
「もっと相手の立場になって考えろっ!」ですね?
「なにゆえ、即座に脇差を抜かれなかったのですかっ!」
「――――」
「大殿亡きあと、当家の主は殿にございまする。そして利さまは、いわば臣。殿に脇息を投げつけるなど、主君に刃をむけるに等しい逆罪。ただちに成敗なされてもよきほどの無礼っ!」
「せ、成敗?」
「然り! 男であれば、その場にて切腹仰せつけるべき所行にございまする!」
切腹ぅーっ!?
「御手討ちになさらぬまでも、脇差を抜き、きつく戒めるべきでございました!」
マ、マジで?
「殿が優柔ゆえ、利さまも分もわきまえず、つけあがるのです! いま矯正せぬば、のちのち難儀いたすは利さまご本人。兄ならば心を鬼にし、しかと導いてさしあげねばなりませぬ!」
ははは、『鬼いさま』ってか!?
「利さまももう十二。いつ輿入れしてもおかしくない御歳にございますぞ!」
数え年十二で結婚!?
犯罪じゃねーか!
「いずれ他家に嫁したおり、あれでは婚家とうまくやっていけませぬっ!」
「……っ!」
こ、これがウワサの、『女今川』『女大学』風婦道論か!?
『女今川』『女大学』は、江戸時代の女子教育における代表的テキスト。
内容は、
「親・夫・舅姑に孝行をつくせ」
「夫・兄弟を尊重し、立てろ」
「家業をまもる男を一生懸命サポートしろ」
「怠慢でわがままな女は、家中をみだすから失格」などなど。
ようするに、儒教をベースにした『忠孝貞淑』の教えが満載なのだ。
十九世紀、女性の地位は低い。
これは日本だけの話じゃなくて海外でも同じで、あの欧米でさえ、婦人参政権が本格化するのは二十世紀になってからだ。
いや、抑圧されてるのは、女子ばかりじゃない。
すっかり忘れてたけど、江戸時代は儒教精神をバックにしたガチガチの封建社会。
士族や商家・本百姓など、代々家業・家産を引き継いで成り立つ組織では、当主(家長)の存在は絶対。
そして、家を継承するのは、基本的に男。
さらに、このころの日本は、男女をとわず『個』より『家』(あるいは『公』)が絶対優先という常識が浸透した世界だ。
ご先祖さまがきずき、代々継承してきた『家』。
それを次世代につなげることが、現役世代最大のミッション ―― いわば、家系・家業・家産の駅伝だ。
襷を託された当主は、その一生をかけて襷リレーをする義務を負う。
自家にふさわしい格・財産・権利等は死守しながらも、できればちょっとでも上にいくよう努力し、任された区間を走りきらなきゃならない。
だから、たとえ、どんなに好きになった女の子がいても、自分と身分や家柄がつりあわなかったら結婚できないし、できたとしても正妻にはしてやれない。
そのうえ、男子に恵まれないときは(いや、たとえ恵まれたとしても)、後継ぎとそのバックアップ用男子をストックするため、好きでもない複数の相手と子づくりするよう周りからもとめられる。
こんな、平成ニッポンとはまったく異なる価値観・倫理感に支配されている社会で利ちゃんがやらかしたのは、当主である兄への暴行。
本来、従順であるべき女が、当主に反抗し害すなんて、絶対やってはならない凶悪犯罪だ。
もし、あの脇息がぶつかって、容さんが破壊されていたら、ハデな兄妹ゲンカじゃすまない御家騒動あつかいになってしまう。
だから、大野が強硬論をはきまくるのはあたりまえっちゃ、あたりまえなんだが……。
なんか、心底イヤになってきたわ、大名業。
だって、大名より、むしろ町人の方がすごく自由だし、感覚的にはそっちの方が合ってるんだもん。
町人 ―― とくに江戸・大坂など大都市の一般市民 ―― は、日雇いの仕事がたくさんあるので、より好みさえしなければ引っ越した翌日からどうにか食っていける。
また、収入はその日暮らしのカツカツだから、ホレたオネーサンと所帯をもっても共働きじゃないと生活はキツイ。
ってことで、奥さんが働きに出れば、ダンナは積極的に家事育児にいそしむ『イクメン』に変身し、夫婦で協力しながら家庭を守っていくのだ。
つまり、庶民層は現代に通じる部分も多く、その世界ならさほど違和感なく暮らしていけそうな気がするんだけど。
でも容さんは、パパは二代将軍の子孫、ママは百万石のセレブ姫という文句なしの貴種。
いわば、会津葵の襷をにぎって生まれた待望のエースランナーというわけだ。
その赤ん坊は「オンギャー」と同時に、その肩には家臣や領民の生活がずしりと覆いかぶさってきている。
職業選択の自由がない容さんは、苛酷な宿命から降りたくても、『死』以外での途中棄権など許されない。
適性も志向もなにもかもガン無視の非情なルールなのだ!
前世では、自分ひとりの人生だって思うようにならなかった俺が、他人の人生まで背負いこむなんて……絶対ムリだ。
あーぁ、できたら、町人に憑依したかったなぁ。
町人なら、理由もわからず命をねらわれたり、暴徒に教育的指導をしろとかムチャブリかまされることもなかったろうし。
しかも、勝手にチョロチョロ出てきて、ヤバくなったら即バックれる家主との共生とか……。
なんの因果で、こんなワケあり物件に引っ越しさせられたんだ!?
神さまのバカヤロー!
グッスン……もう、ヤダ。
「利を……わたしが諭すのか?」
「ほかにどなたが?」
心底あきれはてる近臣。
(やりたくねーよ、そんな憎まれ役なんて……)
「亡き大殿が、もそっときびしくおふたりを躾けてくださったら……(ブツブツ)……みなが……迷惑……難儀……(ブツブツ)……」
(なんか、聞えよがしにいろいろボヤいてるし)
でもね、言いたかないけど、最初からああだったよ、利ちゃん!
たしかに、元気になるにつれて、パワーアップしたかもしれないけど。
だから、俺のせいじゃない!
これは完全に前任者の責任だ!
なのに、なんで俺が責められるんだー!?
(……とは、言えないもんなぁ)
「許せ」
モヤモヤするけど、とりあえず謝っとこう。
うちのおやじも、こうやって母ちゃんの攻撃をかわしてるし。
「いつも苦労をかけ、すまぬな」
とにかく低姿勢で、なんとかやり過ごすんだ。
うちのおやじみたいに。
「衷心よりそのように?」
ちっ、面倒くせーやつだな。
「当然ではないか! 口にこそ出さぬが、つねづね感謝しておるのだぞ! そなたあってのわたし、そなたあっての会津松平家とな! かくも優秀な臣に恵まれたわたしは、三国一の果報者じゃっ!」
ひたすらヨイショだ!
ヨイショあるのみ!
「ったく、調子のよいことを」
グチグチ言いながらも、わずかにゆるむほほ。
(よっしゃ! イケるっ!)
「いずれにせよ、女子が表の決め事に異をとなえるなど僭越至極。あまりに分際をわきまえぬふるまいにございますれば、殿にはもそっと毅然とした態度でのぞんでいただかねば困ります!」
「心得た!」
はい、ここで、『必殺・容さんスマイル』発動。
「また、さような御顔をされて」
ピリピリしたオーラが一気になごむ。
なんだかんだ言いつつ、家臣全員、このニッコリに弱いのは把握済みだ。
よしよし。あとは、ダルイ仕事をこいつに押しつけて、と。
「なれど、あのようすでは、利がわたしの言に耳を貸すとは到底……」
しょんぼりした表情で、大野の方をチラチラ。
すると、
「なるほど。殿がヘタに近づかれ、御身になにかあっては一大事」
期待どおり、忠臣は思案顔でボソボソ。
そうそう、殿の御身は、御家の存亡にかかわりますぞー!
メンタルもってかれそうな仕事は、パス一択っ!
「では、まず、それがしがこの顛末につき申し開きをいたします。しかるのち、殿よりじきじきにお話しをなさいませ」
そうこなくっちゃ。
おまえが怪獣を懐柔してくれ!
「さすが、家中一の知恵者! そういたせ!」
「御意」
へへ、やったー♡
「お、お待ちを!」
「火急の用だ」
「いま取次を」
「さような暇は」
「困ります!」
「小栗さま!」
「御免!」
ウンザリなオシゴトを部下に丸投げし、ホッとしたのもつかの間。
どうやら新たな厄介ごとが勃発したもよう。
急速に近づく喧噪。
ただならぬ気配に、迎撃態勢をとる大野。
(……又一?)
暮六つの鐘も鳴り終わった時分。
日没と同時に閉鎖される三十六見附(江戸城防衛のための主要門)のひとつ、和田倉御門内にあるわが会津藩上屋敷に、この夕刻、ここまでたどりつくのも容易ではないはずだ。
ましてや、旗本の又一くんとは仕事上のつきあいだけで、いままで互いの屋敷を行き来したことは一度もないのだが、こんな時間に、なんの用?
荒々しい足音が至近にせまる。
大野の右手が刀の柄にかかる。
バシィッ!!!
開け放たれた開口部にうかぶ男のシルエット。
「肥後守さまっ!」
第一声は、うわずった絶叫。
はじめて目にする能吏の醜態だ。
「御無事かっ!?」
交錯する複数の視線。
「まにあったか……」
瞬時に脱力し、襖に寄りかかる幕臣。
その言葉に、すべての疑問が氷解。
「では、そなたは知っておったのだな?」
ようやく止まった涙が、ふたたびあふれ出す。
「公方さまが、わたしに……毒を盛られたことを……」
「無事」
「まにあった」
又一のセリフが意味するところは、俺が最後の最後まで認めたくなかったこと。
すなわち、「家定が俺を排除する計画」を知っていたからこそ出た言葉だ。
俺が抱いた疑惑が、疑惑ではなく事実だったという証言が取れたわけだ。
灯りのない御座之間は、夕闇に飲みこまれつつあった。
それに呼応するように、俺の心にも絶望の闇がひろがっていった。




