70 中奥 御小座敷
本丸御殿 中奥 御座之間
四老中とともに御前に伺候し、大政参与就任のあいさつをする。
「肥後、頼むぞ」
「はっ」
平伏しながら、心の中はモヤモヤ。
昨日聞いたばかりの将軍継嗣騒動が、どうしても頭から離れない。
くわえて、大政参与抜擢の背景も……。
家定……本当はどう思ってるんだろう?
最初に将軍自身が言ってたとおり、容さんの身を守るための方便なのか?
それとも、池田が言う、「失態を間近で見て、溜飲をさげるため」が本音か?
昨日来、この二説がせめぎ合って、すごく心が重い。
そんなことを考えてぼんやりしているあいだ、大福老中は小栗の処遇をてきぱき上申。
「又一か」
小栗は、家定世子時代に西の丸御書院番士となり、家定が将軍になるとそのまま本丸御書院番・使番を兼務するようになったので、家定も小栗のキャラはよく知っているらしい。
「御側御用取次あたりが適当であろう」
「いっそのこと、奥右筆組頭ではいかがでしょう?」
「いきなり組頭か?」
ペーペーの奥右筆もすっ飛ばし、未経験者を組織のトップにすえるという超過激な人事案。
これには、さすがの将軍さまも目が点。
「昨今、奥右筆には付届(ワイロ)の過多で仕置きを決める悪しき風がございます。これを刷新するためにも、あえて経験のない又一を用いてはいかがでございましょう?」
右筆というと、書記のようなイメージがある職種だが、幕府の奥右筆はちょっとちがう。
奥右筆は、公文書や記録の管理をし、老中の諮問を受けて諸事の先例を調査する仕事。
つまり、調査役の任務をもつ書類作成責任者で、いわば政務補佐官兼秘書官的役職。
幕府には毎日、国政関係の報告書・陳情書や大名家からの依頼・要望書などなど、おびただしい数の書類が全国から上がってくる。
奥右筆はこれらを整理し、中でも重要だと思われるものについては、報告書にまとめて、老中・若年寄に上げるのが役目。
逆にいうと、どんな国家的危機についての報告書でも、奥右筆が上にあげなければ、上層部は知ることすらできない。
そこで、自分の陳情・要望を取り上げてもらうため、奥右筆への贈賄が横行している。
奥右筆は少禄旗本の仕事ながら、ワイロが集まりやすいオイシイ職場で、長くつとめればつとめるほどウハウハらしい。
そして、奥右筆にスルーされた案件はすべて『地獄箱』という言いえて妙なゴミ箱にポイされてしまう。
やり手老中阿部正弘は、行政改革の手はじめとして、この奥右筆制度に着手するもよう。
「つとまるか?」
「又一ほどの俊才ならば、必ずやご期待にそうものと」
くさい。絶対にくさい!
塩大福め、俺にかこつけて、これを持ちだしたんじゃないか?
最初から、小栗を奥右筆組頭につける気でいた、とか?
じゃあ、俺はこいつの思惑どおりに動いてたわけか?
それで、俺が「帰る」といっても余裕だったんだな!?
くっそー!
行動パターンまで、バッチリお見とおしか。
むかむか。むかむか。
「そうせい」
家定の了承を取りつけ、阿部はおもむろに平伏。
その、ぽにゃぽにゃフェイスに老獪な笑みがよぎるのを、俺は見逃さなかった。
小栗の人事が決定し、全閣僚が御前を辞そうとしたとき、
「肥後」
家定が俺を呼びとめた。
「茶でも飲まぬか? よいであろう、伊勢?」
阿部はむきなおって、すっと一礼。
「肥後守は将軍後見役にございますれば、御意あらば、いつなりと御傍近くに」
『どーぞ、どーぞご自由にお持ちください』か?
なるほどね。
容さんみたいな青二才、幕閣としてハナっからアテにしてないってこと?
ようするに、将軍決裁を得る口実や外交代表として必要なのね?
そのため【だけ】の閣僚……?
これじゃ、今後もなにかとダシにされそうだな。
結局、俺は、あの大福の掌の上でおどらされる世間知らずの若殿ってわけか?
未来知識もなくなったいま、将軍さまの茶飲み友だちくらいしか使い道はない。
(はいはい、おっしゃるとおりっすよー!)
阿部が、俺を大老格の重職に推薦した意図が、なんとなく透けて見えた。
俺以外の幕閣は、たまった政務を片づけるため、そそくさと退出していく。
「奥へまいろう」
オッサンたちがいなくなるやいなや、奥小姓に介助されて立ちあがる家定。
「はっ」
しずかに歩をすすめる家定の背を追い、萩の描かれた廊下をとおり、御休息之間に。
御休息之間は、将軍の寝室・居間・執務室として使われている部屋だが、家定はそこをも通りすぎ、となりのこじんまりした座敷に入っていく。
その奥は、御小座敷。
上・下段各八畳、計十六畳ほどのちいさな居間で、御小姓衆といえども、みだりに立ち入ることのゆるされない、正真正銘将軍のプライベートルームだ。
御小座敷の南北両サイドにはそれぞれ渡り廊下がとおり、南は大きな回遊式庭園に、北側は内庭に面している。
萩の廊下前、御休息之間横にも中庭はあったが、ここに付随する内庭はそれより数倍大きい。
水音もきよらかなミニ泉水。
小ぶりながら趣のある築山。
庭全体をおおう苔むした緑は、まぶしい水無月の陽光をやわらかく照りかえす。
庭の一隅には、みごとな松の銘木が並べられた漆塗りの台が。
盆栽の蒐集は、家定の数少ない趣味のひとつだ。
公邸最深部に、なぜか俺を招じ入れた家定は、近習に茶を運ばせたあと、さっさと人払いをし、松林と富士山の描かれた床の間を背にして、ゆったり茶をすする。
「ここは、はじめてか?」
空になった茶碗を置いて、家定が笑った。
よほどキョロキョロしていたらしい。
容さんがいくら迷子常習犯とはいえ、さすがにこんな奥まで来たことはないだろ?
あったら、ある意味、尊敬するけど。
なんと答えていいかわからず、目を泳がせていると、
「そうか、記憶を失ったのだったな」
ちいさくつぶやく。
そそがれるそのまなざしが泣きたいくらいやさしい。
(こんな目をする人が、政争の道具として、俺を利用するだろうか?)
例の疑問が、再度よみがえってくる。
とはいえ、記憶を失ったということは前田家などごく親しい人しか知らないはず。
なぜなら、徳川最強軍を有し、北方の守りを担当する会津藩。
その藩主が記憶喪失なんてバレたら、転封とか言われかねないからだ。
(なのに、しっかりバレてる)
また、御庭番か?
相かわらず、すごい情報収集力だなっ!
「危篤の報を聞いた折は、息が止まるかと思うた」
青白い顔がかすかに痙攣した。
(やだ、それも?)
会津側は、井伊以外には必死でかくしてるつもりだったのに、もしかして、リアルタイムでバレてました?
「その方もとうとう、とな……」
(……へ……?)
『とうとう』って、なによ? 『とうとう』って?
「それでは、あの世で先の会津中将に会わせる顔がない」
先の中将……?
容パパのことか?
さっきから、なんだろう?
なに言ってんだか、さっぱり。
「中将になりかわり、その方を守ると誓うたものを」
(いったい、なんなの???)
家定は、フリーズしている俺をおだやかに観察。
「そうか。因州が戻ったのであったな」
―― ! ――
全部、見透かされてる!
俺が、因州 ―― 池田(因幡守)からなにを聞き、それでどう悩み、大福に利用されてムカつき、家定の不思議ワードにテンパリまくってるいまの心中を、この人はすべてを看破している!
(家定……あんたって人は……)
暗愚どころか、思ってた以上に切れ者なんじゃないの?
だとすると、今回の大政参与の件も……。
これは、阿部が、「城内で会津侯が攘夷派に襲われた」とウソの報告を上げて、上司をだましてゴリ押しした人事だと思ったけど、じつは反対だったのかも。
家定はだまされたフリをして、容さんを手元に置いたんじゃないか?
なんらかの意図をもって。
だって、日本一の忍者集団をもつ将軍が、阿部のガセ情報に引っかかるとは考えにくい。
たしかに阿部は水戸・越前両藩邸に(よくつるんでる尾張も?)、間者を入れて探らせたかもしれないが、家定は家定で別途調べていたんじゃないか?
もしかすると、阿部よりずっと前から。
で、阿部から上がってきたウソの報告に乗っかる形で、この大政参与任命を認めたんじゃないか?
家定の資質・権力を考えたら、そう解釈する方が自然だ。
でも……だとしたら、なんのために?
池田の話以来、口を閉ざした家定。
なにを考えているのか、まったくうかがい知ることのできない貴人オーラ。
従弟の池田が自分の陰口を言ってるのを思い出して、ブチ切れ、とかではないだろう。
そんな単純な人じゃなさそうだ。
じゃあ、なんだ?
座敷に静謐がみちる。
ときおり聞こえてくるのは、泉水の音と鳥のさえずりだけ。
「筑前が引き受けてくれるならば……」
家定がふいにひとり言ちた。
「将軍位など、いますぐにでもゆずってやるのだがな」
(……なんだと?)
筑前 ―― 前田筑前守慶泰の動向を探ろうとして、カマをかけてるのか?
だとしたら、アニキのためにも、疑いははらしておかなきゃ。
外様世子のアニキが一番困るのは、徳川への謀反を疑われること。
ここは従弟として、ひと肌ぬいでやろう!
「わが従兄・筑前守は、将軍職への野心などみじんもございませぬ!」
昨日、泣いてイヤがってたもんな。
ありゃガチだろ?
「さようなウワサが絶えず、筑前守も、父の加賀守もまことに迷惑しておりまする!」
いきおいこむ俺を、おだやかに見つめる家定。
そのほほえみが、なぜかひどく苦しげに見えた。
「さもあろう。予が筑前ならば、同様に思う」
(あれ?)
家定とアニキは、将軍位を争ったんじゃないの?
でも、これって、ジョーカーの押しつけあいぽくない?
(だれも欲しがらない最高権力者の座……???)
と、
「肥後」
「はっ」
「大奥が作られたは、なにゆえだ?」
「…………」
あまりに唐突すぎる問いかけに、思わず絶句。
「そ、それは……将軍家の血を絶やさぬため、では?」
しばらくフリーズしてから、どうにか答えを返す。
いまの大奥の基礎ができたのは三代将軍家光のころだ。
じつは、ガチホモだった家光さん。
三十すぎまで、女には一切興味をしめさなかった。
「これじゃ、徳川の血が絶える。そうしたら、また覇権をめぐって戦乱の世に逆もどりだわ! なんとかしなきゃー!」
と、立ちあがったのが、家光の乳母・春日局。
そこで、男♡な家光に男装の娘をあてがい、街中で目についたキレイなギャルを手あたりしだい囲いこみ、あいさつに来た公家出身の尼ちゃんを監禁してハーレム投入などなど。
あらゆるテを使ってオネーサンへの興味をかき立て、一心不乱に「子づくり! 子づくり!」運動。
そのかいあって、家光くんも衆道オンリーから女色に目ざめ、男子も数人お誕生。男系による継承が可能になった。
こうしてできたのが、現在の『徳川印お世継ぎ製造所=大奥』……ですよね、公方さま?
「さよう。だが、実態はどうじゃ?」
「実態?」
「わが父(家慶)には正室側室九名に二十七人の御子がいたが、二十歳をすぎるまで生きたは予ひとり。
祖父・文恭院さま(家斉)は四十人もの側室をもたれ、御子を五十五人もうけられた。なれど、その半数近くが夭折。おかしいとは思わぬか?」
「なにが、でございましょう?」
「大奥に生まれる子らじゃ」
「御子が?」
「いくら幼子が脆弱とはいえ、死にすぎるとは思わぬか?」
突如、寒気がはしった。
外は暑いはずなのに、全身にぞくぞくと鳥肌が。
「市井の者らよりはるかに滋養のあるものを食し、傍らにはつねに医師もおるのだぞ?」
い、家定さん、あんた……なに言おうとしてるの?
それって……まさか……?
「文恭院さまのころ、懐妊した側室がほかの女子に突き飛ばされ、二度も子が流れたという記録がある。なれど、記録には残らぬが、同じ目に遭うた女子は、さぞ多かろう。無事生まれた子らも、おそらく互いに毒を盛りあい、殺し合うておるのだ」
「―― ! ――」
う、うそ。
そんな、まるでドラマみたいなドロドロが、本当にあったの!?
「おぞましきことよ」
いつもは温和な眸に、冷え冷えとした光が宿っている。
「女同士、将軍の子を殺し合うとはのう。
大奥は、いまや春日局の思惑とは逆のものになりはてておる。いわば、すでにその役目を終えたのだ。かような仕組み、はたして大金をかけ、保つ必要などあろうか?」
家定の冷徹なまなざしはこっちにむけられたまま固定されているが、おそらく、そこに容さんの姿は映っていない。
その目には、大奥の女たちの醜悪なバトル・ロワイアルが見えているのだろう。
びえ~ん~~~!
今日の家定さん、なんかコワイよー!
この空気、耐えられないよーー!
藩邸に帰りたいよーーー!
俺の泣き目と家定の暗い眼窩が交錯した。
「……肥後……」
いやっ! やめてっ! これ以上聞きたくないっ!
だが、俺の願いは、またもや天に届かなかった。
「予は、大奥を廃す。力を貸してはくれぬか?」
ぎゃーーー!!!
また、面倒なことにまきこまれたー!
ギリギリ持ちこたえていた俺のメンタルは、瞬時に瓦解したのであった。