69 本丸御殿 老中下部屋
嘉永七年六月十七日
朝練後、茶屋で休んでいると、太鼓の音が聞こえてきた。
巳の上刻 四つ(午前十時頃)
老中に登城時刻を知らせる合図だ。
茶屋を出、東の道灌濠方向にすすむ。
濠にそって歩き、御成御門から紅葉山の横にぬける。
目の前にひろがる蓮池濠は、初夏の陽ざしにキラキラ。
曇天でうすら寒かった昨日とはちがい、今日は暑くなりそうだ。
水面のむこうにそそり立つ黒ずんだ石垣と、その上につづく真っ白な多門櫓。
それを左に見ながら、紅葉山下門、蓮池御門、新御門を通過し、御書院出櫓前に出る。
ここから先は通常の登城コースといっしょ。
中雀門の石段をのぼりきり、本丸御殿に到着。
今日は大名としての登城ではなく、大政参与、つまり閣僚としての出勤。
入口は総登城時の御玄関ではなく、幕閣用出入り口・御納戸口から。
服装も、以前のズルズル長袴とちがい、今日は半袴。
この歩きやすいサクサク感っ!
思わず、御納戸口からスキップで入城。
「肥後守っ!」
間髪いれずに飛んでくる叱責。
げっ! 目付っ!?
「殿中にてさようなふるまいは慎まれよ!」
江戸城風紀委員からの警告!
「相すまぬ」
謝りつつ、相手を見やると……、
(い、岩瀬っ!)
イヤ~な半笑いをうかべて立っていたのは、俺の天敵こと岩瀬忠震。
「それほど大政参与就任がうれしゅうございますか?」
期待の海防掛目付は、ニヤニヤしながら俺をいたぶる。
見るからに楽しそうだ。
しかも、参与就任がうれしい、だと?
なにトンチンカンなことほざいてんだよ!
俺がウキウキだったのは、そっちじゃねーし!
旗本のおまえにはわからんだろうが、大名の長袴つーのは、動きづらいだけじゃねーんだっ!
蒸れて汗疹できそうなくらい、クソ暑いんだよっ!
半袴の爽快感に、ちょびっと浮かれちまっただけだろーが!
「それにしても」
岩瀬の目線が、俺の後方にながれる。
「小栗殿がついていながら、かような不作法を」
「…………」
ぉ……ぉぐ……おぐ???
背後にいるのは、又一以下いつものSPメンバーだけだ。
(あんた、だれにむかって言ってんの?)
と、思ったら、
「それがしのお役目は、城内における会津侯の護衛。挙措のひとつひとつを指導せよとは、命じられてはおらぬ」
又一が、陰険な目つきで岩瀬を見かえした。
(ま、又一……くん?)
「ははは、こたび、小栗殿はその【腕を】かわれたのであったな?」
オッサンはあきらかにおちょくっている。
ちなみに、又一くんは直心影流の免許皆伝者。
ほかに鉄砲、弓術、柔術の腕も相当なものらしい。
「いずれ、ちがう才もかっていただく所存ゆえ、貴殿に案じていただかずともけっこう」
又一は、敵意むきだしの口ぶりではねつけた。
双方から放たれたはげしい火花が中央でバチバチ衝突。
(き、君たち、ライバル同士……なの?)
「それは重畳。大いにはげまれよ」
岩瀬は皮肉な笑いを残して去っていった。
イヤミ男を見送りながら、俺はしばし放心。
幕末 ―― 旗本 ―― 小栗 ――。
……つーたら、アレしかいないだろ?
勘定奉行・外国奉行を歴任した、伝説のスーパー能吏・小栗上野介忠順しか!
「又一……ではないのか?」
だって、おまえ、最初に会ったとき、自分でそう言ったじゃん!
家定も阿部も、みんな「又一」って呼んでるから、当然それが苗字だって思うだろ!?
「『又一』は当家に代々つたわる通称にございます。歴代の公方さまはじめ、ご老中方もみなさまそのようにお呼びになられますゆえ」
はぁーーー!?
なんで初対面の人間にニックネームで名乗るんだよ!?
ふつうしないわ!
なんでも、小栗家は徳川の祖・松平氏の血をひく、いわゆる『三河以来』の名門旗本。
中でも家康小姓出身のご先祖は勇猛果敢で、数々の戦で何度も一番槍の手柄をたてた剛の者だったとか。
それで、「おまえ、また一番槍かー!」から『又一』とよばれるようになり、小栗家ではその栄光のニックネームを代々引きついでいるそうな。
まぁ、いわれてみれば、この顔、ウンチク集に載ってたかも。
だから吹上御門ではじめて会ったとき、初対面じゃない気がしたんだな。
それはともかく、問題はその能力も、あの小栗といっしょかどうか。
あっちとこっちでは、容さんや慶喜くんみたいに、同姓同名で完全な別人って場合もある。
だとしたら、同じ『小栗忠順』でも(まだ上野介ではないらしい)、スキル的にもいっしょとは限らない。
じゃあ、使えるかどうか、しばらく試してみるか?
今後の歴史が読めなくなった俺。
なのに、ポストだけは国政を左右する重要閣僚。
そんな重職、いいスタッフをそろえて能力不足を補わなきゃ、こなせるわけがない。
もし、こいつがあっちの小栗と同じなら、ぜひ俺の下にほしいっ!
そして、性格は最悪だが、仕事はデキる岩瀬。
このふたりが部下になったら、全部、丸投げできるー!
(……でも、上司として、使いこなすのはキツそうだけどな)
本丸御殿御納戸口。
またの名を老中口ともいう。
老中たちは太鼓の合図で登城したあと、いったんここの小部屋に入る。
『老中下部屋』とよばれる六つの個室は、いわば老中のロッカールームで、出勤した老中はここで衣服を着替えたり、ちょっと一服したりして小休止する。
また、屋敷からついてきた供侍は、主君の執務が終わるまでここで待機している。
「肥後守!」
御納戸口の土間で履物をぬいでいると、松平忠優の声が聞こえた。
「おお、伊賀守」
小部屋からあらわれた上田侯にかるく会釈。
「ようやく登城していただけましたなぁ」
その言葉どおり、松平(その一)はうれしそうにニコニコ。
「これは、肥後守!」
こんどは隣室から松平(その二)こと、三河西尾藩主松平乗全が顔をのぞかせる。
「和泉守?」
「三秋の思いで、お待ち申しておりましたぞ!」
「…………」
あんたら、なに期待してるの?
悪いけど、俺はあんたらが思ってるような賢侯でも、能吏でもないからね?
そもそも大政参与なんて、全然乗り気じゃなかったのに、池田からさらに凹むようなこと聞かされて、完全にモチベーション下がっちゃってますから。
それに、どうやら唯一無二のセールスポイント = 未来知識も無効になっちゃったみたいだし。もう使いものにはなりませんぜ。
オッサンふたりに引きつった笑みを返していると、
「おそろいですな」
昨朝聞いたばかりの声が、土間にひびいた。
老中首座阿部正弘と牧野忠雅が、それぞれの個室から姿をあらわした。
「では、まいりましょうか」
どうやら、ここで全員そろってから、いっしょに執務室に行くらしい。
案内坊主にしたがってすすみ、表エリア最奥にある十五畳ほどの部屋に到着。
ここが老中の詰間、『上御用部屋』。
中では、数人の坊主が平伏してお出迎え。
こいつらは御用部屋坊主といって、ここの掃除や、紙・墨・筆など事務用品の補給をする係だ。
「さ、肥後守」
塩大福が邪気のない笑顔を見せる。
(腹の中は、邪気だらけのくせにぃーっ!)
阿部にうながされ、しかたなく入室。
(……ありゃ?)
なぜか、小栗がついてこない。
「又一、どうした?」
畳廊下に膝をついた小栗は、切れ長の目で俺を見あげ、
「それがしは、こちらに入る資格がございませぬ」
「資格?」
「上御用部屋入りをゆるされるは、若年寄、御側御用取次、奥右筆組頭、同朋頭と御用部屋坊主のみ。それがしがごとき御書院番士は入室できませぬ」
「…………」
おい、なんだよ、それ?
ってことは、目付の岩瀬もアウト?
マジかーーーっ!?
さっそく、小栗をお試ししようと思ってたのに、傍にいてくれなきゃ、仕事ぶりも見れないじゃないか!
「伊勢守、なんとかならぬのか?」
「決りにございますれば」
ご老中はあっさり却下。
あ、そう。
「ならば、帰る」
「「「な、なんと???」」」
阿部以外の三老中は愕然。
「護衛の又一が傍におらぬでは、怖くて城づとめなどできぬ。屋敷に帰る」
そして、もっちりオヤジをまじまじ凝視。
「なにしろ、いつ【攘夷派】に襲われるか、恐ろしゅうてならぬでのう」
塩大福は顔色ひとつかえず、愉快そうに眼をほそめる。
「ふふ、侯もなかなかに……」
「であろう、伊勢守?」
オッサンに負けじと、ハッタリかましのほほえみで対抗。
「これより、参与・老中全員で公方さまの前に伺候いたします。その折、なにかふさわしきお役目をいただきましょう」
阿部が笑みを深めながら、譲歩。
「護衛のみならず、公務の補佐ができるように、だ!」
「わかっておりまする。又一は文武両道に秀でた男。侯のお役に立つようはからいましょう」
おっ! ってことは、やっぱ、こっちの小栗もデキるやつなのか?
しめしめ。
「それがしに、お役目を?」
さっき、なんの根拠もなく、岩瀬に大見得きったばかりの小栗くんは、目をかっ開いて呆然自失。
まさか、こんなにすぐ、首から上のオファーがくるとは思っていなかったようだ。
「又一、以後よしなに」
「はっ!」
高揚感にほほをそめ、叩頭する青年旗本。
オグちゃ~ん、ホント頼りにしてるよ~ ♡
その引き締まった体躯を見下ろしながら、俺はニヤけそうになる表情筋を懸命に制御した。