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60 混沌


 そ…………、そんな……ばかなーーーっ!!!



 歳は容さんと同じくらい。


 字幕は、《徳川慶誠・清水家当主》。


 

 全然聞いたことがない名前。

 だが、この顔 ―― 白皙というより、青白いうりざね顔。

 小柄な、虚弱そうな痩身。

 うつむきかげんに伏せられた目元は長いまつげにふちどられ、その奥の瞳がときどきこっちをチラ見してくるこの人は…………ちがう名前でなら……徳川慶誠……じゃない名前でなら、俺は知っている!


 ウンチク集の粒子の粗い陣羽織写真。

 その下に書かれていた名前でなら ―― 《松平容保》 ―― という名前だったら。



 松平容保。



 突然、視界がぼやけた。



 ……なんで? なんで、ここにこの人が?

 

 こっちの世界の《松平容保》は容さんじゃないか。


 なのに、なんで、あっちの世界の《松平容保》が?


 なんで、ちがう名前でここに?


 なんで? なんで? なんで?


 なんか…………妙だ。

 なんか…………すごくヘンな気持ち。

 なんて、言ったらいいのか?



 そうだ。


(なつかしい)んだ。


 まるで、地球の裏側で、何十年ぶりかで日本人と会ったような……。

 なつかしさと、恋しさ……そして、切なさ。


 でも、それって、おかしいだろ?


 だって、あっちでは『松平容保』に会ったこともないのに。


 なのに、なんだよ、『なつかしい』って?


 あまりに非現実的なことが起りすぎて、とうとう頭が逝っちゃったのか?


 

(容保……公)



 それは、じいちゃんやおやじが生まれ育った街を、むかし治めていた殿さまで、いまは会津若松郊外の歴代藩主霊廟に神式で葬られているあの人。


 徳川斉昭や阿部正弘・島津斉彬、ウンチク集で見た顔はいままでいっぱいあったのに、なんで、この人にだけ、こんな気持ちになるんだろう?



 ぼろぼろぼろぼろ。


 涙滴エンドレス。


 メガトン級の衝撃に、知覚の全部をもっていかれる。


 ここが御前であることも忘れ、俺は呆けたままただただ泣きつづけた。



「ひかえよっ!」


 

 すさまじい怒気に、一瞬で覚醒。


 トリップからもどった世界は、阿鼻叫喚の巷と化していた。


「「「公方さま御不興!!!」」」


「放せ、犬千代!」

「父上、お静まりください」

「金之助殿ーっ!」

「老醜――」

「これ、薩摩守さま!」

「あちらに聞こえますぞ」

「水戸さま!」

「さすがの老公もこたびばかりは」

「はじめて目にする御勘気」

「前代未聞」

「「「一大事!」」」


 音声超多重。状況把握は不可能。



 あ、あのぉ……なんか、あったんすか?



「――――」


 はじめて見る家定のきびしい顔。



 平伏するジジイの息子。


 その横でプルプルふるえるジジイ。


 徳川ズの強ばった表情。


 半泣きのお子ちゃまたち。


 室外でさわぐオジキと、それを必死に制止するアニキ。


 冷ややかにだれかをディスるナリさんら賢侯トリオ。


 それを取りまくギャラリーのざわめき。



 ―― ? ――



「前中納言」


 よびかける口調は妙にしずかだったが、その顔は不自然に引きつり、首と手の不随意運動が発現 ―― 過度のストレスにさらされている証拠だ。


「その方が陰でなんと申しておるか、予が知らぬとでも?」


 怖いくらいおだやかな物言いが、かえってそのキレっぷりをしめしている。


「は、はて?」


 傲岸不遜の見本のような水戸老公が、目を泳がせオロオロしはじめる。


「その方、予の奇態をおもしろおかしく語っているそうだな?」


「そ、それは……」


 みるみる蒼白になる斉昭。


「『異国船のことは一切おわかりもなく候て、おそれいることのみなり』とな?」


「うっ」


 いつも毒を吐きつづけていたジジイはひとことも言い返せず撃沈。



(なに? その『異国船~』って?)



「越前」


 今度は御三家末席の、二十代半ばの大名に目を転じる家定さん。



 越前?

 ああ、これが春嶽か!?



「『凡庸中の最も下等』とは、いかなる意味か?」


「な、なにゆえ、それを? それは日記にしか……っ!」



 あらら、なんかゲロってるし。



 でも、日記って?

  

 もしや、御庭番的な人たちを使って情報収集したら、なんかヤバいものでも見つけちゃった感じ?


 じゃあ、さっきの『異国船~』ってゆーのも、日記か手紙に書いてた家定の悪口かなんか?



 家定さん、案外、やるときはやる人なのか?



「いつ予がガチョウを追いまわし興じた?」


 春嶽への、公方さまの鬼の弾劾はつづく。


「な、なななんのことか、とっ、とんと」


 滝汗&裏返った声。テンパる御家門筆頭・越前松平家当主。



 にしても、『凡庸』『ガチョウ』 ―― これ、ウンチクにも書いてあった話だよね?


 でも、おかしい。

 これ、明治期に書かれた春嶽の回顧録に載っていた逸話のはずだ。


 なんかへんじゃないか? 

 こんなに早く人に知られちゃうなんて。



(それにしても……)



 張りつめた空気。不気味なしずけさ。



 ちょっとー! なんでこんなことになってんのー?


 さっぱり状況見えないんすけどー! だれか、説明してー!



「さよう。その方らが申すとおり、予は病弱なばかりか暗愚。かような将軍では、みなも心もとないであろう。ならば……」


 自虐的な笑みをうかべる家定。


 だが、その姿は冒しがたい気品と知性のかがやきにつつまれ、後世、おもしろおかしく語られる人物像とは真逆の雰囲気。



 おい、もしかして、この人って、本当は、すごく頭いいんじゃない?


 自分じゃコントロールできない奇異な動作で誤解され、バカにされてるけど、本当は周囲のいろんなことが見えすぎるくらい見えてるんじゃないのか?


 だって、水戸家や春嶽が陰でいろいろ言ってるのも、全部把握してるみたいだし。



 暗愚とはほど遠い雰囲気の青年は、深慮をたたえた眼で座を見まわした。


「ならば、予が補佐役をおいても異存はあるまいな?」


 冷徹な口調で言葉をついだ家定は、ふしぎなことに、例の不随意運動がピタリととまっている。



「肥後」


「はっ」


「こたび、その方に『大政参与』を仰せつける」


 最高権力者らしい威厳にみちた重々しい君命がくだされる。


「大政……参与?」



 な、なんすか、それ?



「伊勢」


 家定は、下座にひかえる老中に目くばせし、


「みなに、説き聞かせよ」


「はっ」


 うやうやしく叩頭した阿部は、やや前にいざり出て、


「大政参与は、大老格の要職にございます」


「「「た、大老っっ!?」」」


 一同、騒然。



 あ、あの、どーゆーことっすか?



「会津は、大老の家ではない!」


 ジジイが大声を張りあげる。


「大老は、『井伊』『堀田』『酒井』『土井』の四家と決まっておるではないか!」


 

 開闢以来の慣例で、会津侯は大老職につけない決まりになっているらしい。



 ってか、絶対なりたくねーし!


『大老』つーたら、あの桜田門外の変でバッサリやられたことしか思い浮かばない。

 めちゃくちゃ不吉なイメージしかない!



「大老ではなく、『大政参与』にございまする」


 もちもちほっぺにうかぶ老獪な笑み。


「かつて会津松平の祖・保科正之公も厳有院(四代家綱)さまの治世において、その任にありました。昨今は置かれなくなりましたが、かの職制が廃止されたわけではございませぬ」


「保科?」

 


 おい、それって何年前の話だよ!?


 かーるく二百年くらい経ってんだろ?


 俺のいた世界(201×年)の二百年前ってたら、家斉の時代だぞ!


 そんな大昔と今じゃ事情も全然ちがうだろうが!



 ところが、阿部はシレッとした顔でつづける。


「先例もございますゆえ、なんら障りはないものと」



 ちょ、待て、塩大福っ!


『障り』、大ありどころか、『障り』だらけだわ!


 第一、俺自身、そんな話、これっぽっちも聞いてねーぞ!


 

「大政参与とは、いかなるお役目か?」



 俺になにやらせる気なんだ?

 ひとことの断りもなく、勝手なことをーっ!



おおやけのお役目はほぼ大老とかわりませぬ。なれど、大政参与は幕政全体だけではなく、将軍の後見も職務の範疇に入ります」



 大老は非常置の要職で、将軍の意向をうけ財政・民政などの重要問題を担当する家臣としての最高位だ。


 大政参与は、その公務オフィシャルプラス将軍の私的プライベート面のサポート?



 保科正之は、将軍になった家綱がまだお子ちゃまだったから補佐・後見をしたんだ。

 なのに、なんで数え年十九歳の会津侯が、三十すぎたオッサンの後見をしなきゃいけないんだ?

 あきらかにオカシイだろ!



 ――と、思ったのは俺だけではなかったらしい。



「かような若輩に、大老以上のお役目とは! 正気の沙汰とは思われぬ!」


 案の定、ジジイがほえた。



 ――が、つぎの瞬間、


「いまなんと?」


 家定の眼光がするどく光った。


 いつもの柔和さは、いまやカケラもない。


「予を『狂気』と申したな?」


 いくら激昂したとはいえ、いまジジイはこの国の最高権力者を、公の場で乱心よばわりした。

 文句のつけようもない不敬の大罪だ。



「「「…………」」」



 峻烈な気が室内にみちる。


「中納言」


 家定は、水戸家の現当主・徳川慶篤をかえりみ、


「その方の父のふるまい、いかが見る?」


「ち、父こそ……乱心かと……」


 平伏したままいらえる慶篤(息子)


「さようか。では前中納言の身、その方に預けてもよいか?」


「はっ」


「いかがいたす所存か?」


「当然、押込に……」


 家定はかすかにうなずき、了承の意をしめし、


「予はなにも命じてはおらぬぞ? これは水戸家中での仕置きじゃ。ましてや、肥後に逆恨みなどもつ筋合いではない」


「むろんにございまする」


「万一、肥後に刃をむける者を一人でも出したれば、たとえ水戸が御三家のひとつといえども容赦はせぬぞ」


「お言葉、肝に銘じまする」



 この瞬間、徳川斉昭の政界引退が決定っ!



 とはいえ、俺が、慶喜ちゃんと容保さまにメンタルふっ飛ばされてる間にいったいなにがあったんだ?



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