53 版籍奉還
―――― !? ――――
突き飛ばされた!
体内で。
(か、容さん……?)
突如、俺の身体への支配力が消失した。
わけのわからない状況におちいった俺は、大粒の泪をボロボロこぼしはじめる容さんの中で途方に暮れた。
「それほど……(えぐっ)……会津が……(ひっく)……お嫌い……(えぐっ)……ですか!?」
怒り、かなしみ、うらみ、くやしさ、怒涛のように押しよせる俺のではないマイナス感情。
「会津を……(ぐすっ)……どれほど苦しめたら……(うぅっ)……ご公儀は……満足なのですかっ!?」
崩壊した涙腺からあふれつづける滝涙。
全身にみちるこの真っ黒な思いは、容さんの感情?
俺が憑依する前、なんかイヤなことでもあったんかい?
ま、あっちでも会津はひどい目にあってるし、なくはないかもな。
そして、哀咽はおさまるどころか、ますます盛りあがっていく。
「ご加増は、辞退いたしますっ!」
えぐえぐ言いながら、かろうじて絞りだす抗弁。
「いえ、こたびはまげてお願いいたしまする。
メリケン、オランダのつぎは、ロシアとの交渉がひかえております。
かの国とは長年国境線をめぐって意見が対立し、交渉決裂の折は一戦まじえる事態も予想され、蝦夷防衛は喫緊の要事。
近々奥羽諸藩にも派兵を仰せいだされることとなりましょうが、会津は御家門として他家に先んじて派兵し、範を示していただきたい」
おい、辞退もできないって、どういうこと?
「わが藩は、米国艦隊哨戒のための派兵にくわえ、品川沖第二台場の守備も仰せつかっております。それでもまだ足りぬと申されますかっ!」
いいぞ、いいぞ、言ったれ、容さん!
「会津が将軍家およびご公儀にどれだけ尽くしてきたか、ここにいるみながよく存じております。しかしながら、辞退することはかないませぬ」
阿部がそうほざいた瞬間、
「……相わかった」
容さんは、底冷えのする声でつぶやいた。
「ならば、当家は本日をもって版籍を奉還いたす」
はぁぁーーー???
溜間に満ちる唖然とした空気。
「ひ、肥後守?」
さすがの阿部も愕然。
版籍奉還とは、1869年(明治二年)、幕府が倒れ、抵抗勢力もすべて制圧した新政府は、各藩に領土と領民の奉還をさせ、国の中央集権化をはかった政策 ―― ってか、あきらかに俺の知識パクってんだろ!?
「二十三万石、そっくりご公儀にお返しいたす。以後は、天領なり他家への移封なり、好きにするがいい。しからば、御免っ!」
そう言い捨てて、容さん退出。
よく言った、容さんっ!
見直したぞ!!
先祖代々、都合のいいパシリ藩なんてありえねぇよ!
せっかくなんとかがんばって財政立て直そうとした矢先にコレだもん。
イヤガラセじゃないかって思うわ。
会津にならどんなムチャブリでも許されると思ってんだろ。
そこまで見くびられるくらいなら、領地なんかたたき返せ!
にしても、土津だか保科だか知らないが、迷惑な家訓作りやがってよぉ。
『大君の義、一心大切に忠勤を存ずべし』?
また、それをいいことに、調子こいて無理難題押しつけつづける幕府も幕府だ!
『もし二心を抱かば、すなわち我が子孫にあらず。面々決して従うべからず』
徳川将軍家に忠誠心を持てない藩主には、家臣たちも従うなだと?
上等じゃねぇか!
家定公個人は好きだけど、こんなイジメみたいなことする幕府なんて組織、もうどうなっても知らんわ!
そうだ。
なら、いっそ家来に見かぎられる前に藩主自ら脱藩しようぜ、容さん!
あー、そういえば維新のときひとりいたらしいな、薩長と戦うために藩主自ら脱藩した根性のある殿さまが。
いま俺らが脱藩したら、その殿さまより十数年早い記録になるわけだ。
そんなことを考えながら、竹の廊下をすすみ、つづいて松の廊下を高速で通過。
行き会う坊主たちが目を丸くしてガン見してくるが、そんなの知ったこっちゃない。
長袴をあざやかにさばきつつ、大きなストライドで玄関にむかう容さんの背後に迫る複数の気配。
おそらく、老中だろう。
オッサンどもは半袴なので、こっちより機動力は上なのだ。
またたく間に追いついてくる。
「お待ちあれ!」
「しばらくっ!」
―― ガッ!! ――
だれかが袴の裾を踏みやがった。
―― バンッ! ――
顔面から畳廊下にダイブ。
脳髄にはしる激痛。
バカヤロー! なにしやがるんだっ!
うつくしい鼻がつぶれて、容さんの数すくない長所 = 美貌が損なわれたらどうするんだ!?
倒れこんだ青年を、オッサン四人ががっちり囲む。
「むろん、戯言でございましょう?」
伊賀守が容さんをやさしく抱きおこす。
「本気だ!」
その手をふり払い、オッサンどもをキッとねめまわす。
四老中が深くため息をつく。
江戸幕府開闢以来二世紀半。
江戸城内で自ら改易を願い出た初の大名となった御家門会津藩主松平容保。
(城内でなければ、過去に数人いたらしいが)
にしても、なんか歴史がすげーかわってきてるけどいいのか?
「これ以上強要するなら、たった今ここで腹を切る! 世継ぎなきまま藩主死亡の場合、お家お取りつぶしが幕府の御定。それで領地返上という目的もかなう!」
言うが早いか、脇差に手をかける容さん。
えええーーー! 切腹ぅー!? うそだろーっ?
さすがにそれはないわっ!
あんただけじゃなく、俺も死んじゃうんだけどー?
「なりませぬ!」
「殿中で刀を抜いたら大事に!」
「落ちつきなされ!」
「肥後守!!」
そもそも改易ねらいだから、大事にしたいんじゃないの?
「武士の情けじゃ! 離せっ! 会津の意地を最後に!」
はがいじめにされながら、必死にもがき抵抗する容さん。
ぐっすん。
もうこんな面倒くさい身体、やだ。出たい。
ドュスっっ!
っ!!!
……ぐ……ぇ……。
突如、みぞおち付近に鈍痛。
な、なに?
しだいに暗くなる視界。
「伊勢守、なにを」
「ただの当て身だ」
「かわいそうではないか」
「あぁ、完全に急所に入ってしもうて」
「かようなやり口には賛成いたしかねます!」
「わしもじゃ」
「いや、これにはいささか思うところがあって」
「なれど、会津が改易などになっては」
「おや、鼻血まで」
「会津侯の美貌に傷をつけては、家臣どもが激昂いたしますぞ」
「謀反のおそれも」
「会津は強兵ゆえ厄介じゃ」
「とにかく、それがしにお任せくだされ」
「しかし、これではあまりに」
「ご一同、ここで、さような話は」
「「「たしかに」」」
「なれば、つづきは御用部屋にて」
ボソボソ密談する声が、急にとぎれた。
……!……
思い出した!
老中・阿部正弘は一橋派だったんじゃないか?
一橋派……南紀派の溜詰メンバーとは真っ向から対立する、つまり、常溜の松平容保とは敵対する側の人間……。