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39 往路

 嘉永七年二月十日


 グレゴリオ暦1854年三月上旬


 寅の刻 今暁七つ(午前四時頃)



 春分前のほの暗い彼誰時かわたれどき、一路湘南の海をめざし、会津藩三田下屋敷を出発。



 今日は重要任務での朝立ち。

 会談に遅れないよう本当は前のりしたかったが、なんだかんだで結局当日スタートになってしまった。


 だから、すこしでも近い方がいいと思い、和田倉上屋敷より湘南寄りの下屋敷に移動しておいたのだ。



 下屋敷前の綱坂を下り、左折。


 町家や寺の建ちならぶ路地を抜ける。



 すぐに『元札の辻』で東海道に合流。


 街道横に広がる江戸湾は闇に沈んだまま。

 ときおり、小さい波頭が白い筋を描いては消える。



 今日は十日。

 満月前の頼りない月明かりでは足もともおぼつかない。


 夜明けまではゆっくり進むことにする。


 海岸沿いに馬を歩ませていくと、道の両側に高い石垣が見えてきた。

 高輪大木戸だ。



 大木戸とはいいながら、嘉永七年現在(いま)すでに木戸はなく、石垣だけが往時をしのばせるよすがとなっている。

 この先は、江戸御府外だ。



 高輪大木戸――泉岳寺――八ツ山――鈴ヶ森――六郷



 うひゃー! 箱根駅伝でおなじみの地名ばっか!


 まさに『箱根駅伝ルート・今昔物語』!



 箱根駅伝往路一区。

 大手町読売新聞社前からスタートしたランナーたちは、五キロ付近で日比谷通りから第一京浜に入る。


 第一京浜の日本橋~神奈川は、ほぼ旧東海道と重なる。

 つまり、いまいるのは一区のコース上っ!


 しだいに濃度をます潮の香に、テンションも急上昇。



 大手町から十八キロ地点、一区の山場・六郷橋にさしかかる。



 江戸時代末期、ここに橋はなく、多摩川の両岸には何艘もの渡し舟が係留されていて、六郷の渡し舟は人用の『歩行舟』と、牛馬を運ぶ『馬舟』がある。


 今日は、藩主も家臣も全員騎馬だ。


 同行する会津藩士は三十人。藩主SPも兼務している。


 今回の出張は公用のため、営業時間外輸送依頼もすでに通達済みで、人・馬それぞれの渡し舟に分乗し、多摩川をわたる。



 渡った先は川崎宿。


 アメリカ使節との応接所は、神奈川宿対岸の横浜村に設営されている。

 神奈川宿は、東海道五十三次三番目の宿場町。順調にいけば、ここからあと小半時ほどで着くはずだ。



 潮風をあびながら、東海道沿いに南下。


 箱根駅伝的にはそろそろ一区の終盤。二区のランナーに襷が渡るころだ。



 鶴見中継所……じゃなくて鶴見川に到着。


 鶴見川は多摩丘陵に源を発する河川で、そこにかかる鶴見橋には、ピカピカの簡易関所ができている。



 ペリー再来航に際し、幕府は、二月三日、『異国船見物禁止令』を発令したが、黒船見物に押しかけるやじ馬はあとを絶たず、それで混乱防止のため、急きょこの関所を設置したらしい。


 幕閣は黒船対策で右往左往してるのに、一般庶民は意外にも黒船来航を楽しんでいるようで、なんか笑える。



 鶴見橋を渡れば、鶴見村。


 ここは川崎宿と神奈川宿の間の立場たてば(休憩地)で、道の両側には旅人目当ての茶屋が数軒ほど連なっている。


 とはいえ、さすがに未明の集落内はまだひっそりしている。



 ほどなく、生麦村を通過。


 幕末史で有名なあの『生麦事件』の現場だ。



『生麦事件』とは、文久二年(1862年)、島津斉彬の弟・久光の行列を横切ったイギリス人たちが、警護の薩摩藩士に殺傷された事件だ。


 この事件で幕府は、イギリスから多額の賠償金を請求され、多額の賠償金を支払った。

 一方、同様に賠償金と犯人引き渡しを要求された薩摩藩はこれを拒否したため、薩英戦争に発展し、鹿児島城下はイギリス軍の艦砲射撃を受けた。



 数年後にそんな大事件がおこる(?)生麦村は、鶴見川河口にひろがるのどかな漁村で、日中は鶴見同様ここも川崎~神奈川の間宿あいのしゅく(休憩地)になるらしい。


 聞くところによると、ここの『しがらき』という茶店の梅干しと梅漬けショウガが生麦土産として人気だそうだが、残念ながらまだ営業時間外で入手できない。



 と、簡素な家並みのむこうに朝日が昇った。



 きらきら光る湘南の海。


 耳もとで鳴る浜風。


 鼻腔に満ちる磯の香。


 頬の両側を流れ去る景色。


 箱根駅伝一の見せ場――エース区間花の二区。


 そこをいま、俺は走ってる(馬で)!


 第一回箱根駅伝が何十年後に開催されるかは知らないが、とりあえず感無量っっ!!




 生麦から半里、入江川を渡る。


 あと十分ほどで、神奈川宿東木戸に到着するはずだ。


 応接所のある横浜村へは神奈川湊から船で行くのだが、俺たちは応接所には直行せず、リザーブしている神奈川宿本陣にひとまずチェックインする。


 神奈川宿にはもうひとつ本陣があるのだが、そちらは先に現地入りした林大学頭ら幕臣団が占拠しているらしい。



 そうこうしているうちに本陣に到着。


 これから約一ヶ月間、ここが俺たちの宿舎になる。

 着替えほか、長期滞在に必要な荷物は前日までに搬入済みだ。


 あらかじめ到着時間にあわせて依頼してあったので風呂の用意が整っていた。


 汚れた旅装を解き、さっと入浴。未舗装の道を二時間近く駆けてきたホコリまみれの体を洗う。

 

 洗髪もし、髷を結いなおしてもらう。


 国の威信をかけた外交交渉の場に、将軍代理として出席する大名が、見苦しい格好で臨むわけにはいかないからだ。


 衣装も質素な野羽織から、勝負服にチェンジする。


 黒の羽織と長着は上質の絹織物で、羽織には両胸と背の三ヶ所に家紋つき。

 袴は金地に亀甲模様が浮きあがる緞子の最高級素材。



 俺の身支度を介添えするのは、同行した小姓たち。

 今回の随員で真っ先に決まったのは、小姓頭大野冬馬以下小姓組の七人の侍。


 その中でも大野は、武芸の方もかなりの腕前で、ボディガード兼お世話係としては、非の打ちどころがない男だ。

 

 アレさえなけりゃ、文句のつけようもないスーパー小姓――そう、アレさえ……。


 即死するくらいのあの衝撃体験(アレ)さえなかったら、全幅の信頼をおけるんだが。



 ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞



 それは、松本の診察を受けた日の夜。



 俺が覚醒して以来、ずっと近侍している大野。


 聞けば、一月十五日~二十八日の間、こいつは一度も休まずスタンバイ状態とか。


 まさに、いつ過労死してもおかしくない危険な長時間労働!


 雇用主として監督責任を問われる労災認定確実!


 これを放置していたら、会津藩は真っ黒ブラック企業っ!


 さすがに、もうそろそろ休暇でも取らせなきゃまずい事態だった。



 そこで、


「そなたはもう十日以上近侍しているのであろう? 下がって休むがいい」


 しとねの中から命令した。


「それがしのことなど、お気になさいますな」


 一畳ほどはなれた場所にひかえる大野はかすかに笑んだ。


 傍らに侍るその姿は剣の使い手らしく、いつみてもびしっと決まっている。


「そうもいかぬ。そなただけ交代もせず、ずっと近侍しているではないか。身体を壊されては困る。下がれ」


「いえ、ご懸念にはおよびませぬ」


 上体をかたむけ、かるく会釈。



 完全拒否かよ?


 ったく、頑固なやつっ!


 人の好意は素直に受け取りゃいいのに!



 同じような押し問答を数回繰り返すうちに、身体ハードの疲労はピークに。


 前日ブッ倒れたばかりの俺は、心身ともにヘロヘロで、ついヘンなことを口ばしっていた。



「いっそのこと、ここで添い寝でもいたすか?」


 もちろん冗談のつもりだった。冗談の……。


「御意」


 ……ぇ?


 ぇえ??


 ぇぇえ???



 小姓頭は隣室に消え、なにやら衣ずれの音が。


 まもなく羽織袴小袖を脱いだ襦袢姿で再登場。


 襦袢姿、すなわち下着同然!



「磐田殿、そなたは隣室で休まれよ」


 褥下座にひかえる御殿医に声をかけるニイチャン。


「では、なにかありましたらお声をおかけください」


 茶筅髷の儒医はさくさく退出。



 隣室にはほかの小姓も宿直とのい中だが……ここ、ふたりきりじゃねーかっ!


 おい、磐田! あっさり行くなよ!


 こいつをとめるなり、諌めるなりしねーのか!?



 小姓頭は両手をつきほれぼれするようなうつくしい一礼ののち、「御免」とひとこと告げ、唖然とする俺の褥にさっと侵入。



 こ、これって……ど、どーゆーこと?


 どう解釈したら……いいの?


 だれか教え……て……。



 ところが、容さん、突如作動!


 こんな危険な状況下でハグ。相手の鎖骨に頭を乗せ、ぴったり密着。



 どひゃーーーっ! やめてぇぇーっ! お願いぃーっっ!



 対する大野は、ごく自然な動作で主君のウェストに腕をまわし、かかえこむような形に。


「久しゅうございますな」


 うれしそうにささやく二十九歳独身男。


「近頃は金之助さまもすっかり大人になられ、このようなお召しも絶えておりましたものを」



 ひ、ひさ、久しゅうぅぅ!?


 ってことは……前はちょくちょくあったのかよーっ!?


 なにやってんだよ、おまえらーっっ!!



「冗談はそれくらいにして、出て行ってもらえません?」


 と、俺は言った……はずだった。


 ところが、


「わたしが眠った後もずっとここに、な?」


 口が勝手にほざいてた。


「むろん。朝までお傍に」


 耳朶をくすぐる甘い低音。


 しかも、中枢神経をマヒさせる適温ヒーター内蔵。


 全身とろけるような恍惚感につつまれ、つぎの瞬間、最高級の深い眠りに落ちていた。



 ヤ、ヤバイ……クセになりそう。



 翌朝、雀ちゃんたちのチュンチュン声で目をさます。


 とっくに起きていたらしい男は、超至近距離からやさしくほほえむ。



 お、こいつ、なかなか男前イケメンだな。


 って、感心してる場合じゃねぇよっっっ!!!



「よくお休みになられたようですね」



 た、たしかに、相当熟睡した気分ではある。



「よろしゅうございました」


 そっと布団から抜け、仕事にむかう容さんの恋人(?)。


 そのうしろ姿を横たわったまま放心状態で見送る俺。



 ――なんでこんなことになったんだっけ?


 衝撃がデカすぎて、きっかけもよく思いだせない。


 ぁあ、こいつに休憩取らそうとしたんだっけ?


 で、結局こいつはちゃんと寝たのか?


 俺の方が先に寝ちゃったから、肝心なところはまるっきり不明で……。


 まぁ、どうやらおそれてた、あんなことやこんなことはなかったようだが。


 逆に、なんなんだこの爽快感は!?


「酸素カプセルにでも入ったのかー?」くらい劇的な疲労回復度!


 レース翌日のユ●ケルなんか全然足もとにもおよばないリカバリー力!


 とんでもない効能じゃねぇかっ!


 これはハードさんと大野の濃い主従関係からくる癒し効果なのか?



 でも……なんか俺……今後やってく自信なくなった……。


 もう限界かも。



 ……ん……待てよ。



 なるほど、そうか。割り切ればいいのか?



 大きな声じゃ言えないが、俺だってここ十数年、親友テディちゃんに添い寝してもらってる。


 こいつは容さんの『テディちゃん』なんだ!


 見た目がちょっと生生なまなましいだけで、ちっともアヤシクなんかないんだっ!


 そーか、そーか、そーだったのか!


 んなら、まったく問題ない……、


 わけねーだろーがーっ!!!


 最初に会ったとき、こいつだけ名前に()()つきだったのはこういうことだったのか。


 いまさら謎がとけてもうれしくないが。

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