37 薩摩藩上屋敷
他日、教科書にも載ってる有名人を訪問。
言うまでもなく、幕末きっての賢侯・島津斉彬公だ。
薩摩藩上屋敷は、箱根駅伝的にいうとスタートから約五キロ地点。芝増上寺のすこし先あたり。
そして、随行するのは前回同様五十人の騎馬武者。
「会津侯のバックにゃ、薩摩七十七万石が……(くどい!)」
早い話、『キツネ作戦・二』
今回、大野は騎馬行列をやるつもりはなかった。
親族でもなく、以前から懇意にしているわけでもない薩摩藩。
五十匹の馬つき訪問は相手に迷惑だろう、と慮ったのだが……。
「どうぞどうぞ、ご遠慮なく~」
なぜか執拗にうながしてくる薩摩側。
で、結局、ものものしい騎馬パレードの再現。
「薩摩藩、親切じゃね?」
上機嫌の主君とはうらはらに、供侍たちのテンションは低い。
「よもや、馬……食べ……」
「御公儀……借り……一大事」
「なれど薩摩……有名……」
「たしかにやりかねぬ」
ヒソヒソ交わされる声と、ひどく緊迫した空気。
馬、食べる?
薩摩、有名?
やりかねない?
「冬馬」
傍らの侍臣を見やり、
「なんのことだ?」
「それは……」
めずらしく逡巡する才子。
「申せ。気になるではないか」
「じつは……」
マ、マジで?
拉致って食べちゃう?
犬をーーーっ!?
ショックのあまり、茫然自失。
「あくまでもウワサでございます!」
放心する主君に、大野はいまさらなフォロー。
いまを去ること二百年以上前の江戸時代初期。
江戸一帯は、いまからは想像もできないほど荒廃した土地だった。
食料事情は悪く、犬肉も貴重なタンパク源――つまり、このころ犬を食べるのは一般的だったのだ。
しかし、江戸は徳川幕府の首都としてしだいに整備され、開墾事業によるコメの増産・物流の発達とも相まって、豊富な食品が簡単に手に入るようになっていった。
それにくわえ、五代将軍綱吉の『生類憐みの令』発布もあって、犬を食う風習はすたれ、幕末ころには上は大奥から下は庶民階級まで、犬はペットとしてすっかり定着した。
ところが、薩摩人だけは、いまだに犬イコール「かわいい」ではなく、「うまそう」に見えるらしい。
ホントかウソかは「?」だが、少なくとも江戸市中ではひろくそう信じられており、飼い犬が行方不明になると、
「芝(薩摩藩邸周辺)に探しに行かなきゃ」
「もう食べられてんじゃね?」
的ブラック会話が交わされるのがデフォだとか。
ってことは……ま、まさか、薩摩側が「馬でこい」って、やけに熱心に言ってくれたのは……馬を食べる気ーーーっ!?
白い千切り大根と緑の大葉の横にならぶ、スライスされたルビーレッドの馬刺しの幻影。
犬がイケちゃうくらいなら、馬なんて全然楽勝だよな?
家臣たちもそれが気になって、ソワソワしてたのかーっ!
風神丸、大ピーンチっっっ!!!
いや、風ちゃんだけじゃねぇ。
幕府から借りた馬に『もしものこと』があったら、誰かが責任とって、切腹つきのお詫びだろ?
ぞぞぞ~~~っ。
完全にメンタルぶっ飛んだ俺の目前に、疑惑の館が近づいていた。
薩摩藩上屋敷の正門は、門扉の両サイドに庇屋根の番所つき大藩仕様。
門前で下馬するやいなや、駆け寄ってくる厩番。
(お願い! 食べないでっ!!)
涙ぐむ俺の手から、うやうやしく手綱を受け取る男。
「こたびは世話になります」
かろやかに降り立った大野は、責任者をめざとく見つけ、声をかける。
「かようなことを申すは失礼と存ずるが、これらの馬はご公儀から借り受けたもの。万が一にも遺漏なきようお願いいたしたい」
にこやかな表情をくずさず、目だけは相手をキリキリ威嚇。
「逃げた折にそなえ、こちらでも各馬の特徴など、すべて書き留めておりますゆえ」
そう言って、懐から長い巻紙を出し、わざと見せつける。
お、大野、きっちり、全頭リスト作ってたんかい!?
そ知らぬ顔でパクっても、絶対に言い逃れできないように?
ここまでやっとけば、やつらの盗る気も失せるにちがいねー!
備えあれば、憂いなしっ!
なんてデキた家臣なんだ、おまえはっ!
比類なき賢臣っ!
大野冬馬、最高っっ!!
アレさえなけりゃ、文句なしだよっっっ!
門前で下馬した俺たちは、案内係のオッサンにしたがって敷地内へ。
薩摩側家臣が一列になってひざまずく沿道をすすむ会津侯一行。
案内されたエントランスは、七十七万石の雄藩にふさわしい豪華な造りだ。
玄関内の土間に入り、大名陣笠をぬぐ。
刹那、周囲の二酸化炭素濃度が一気に上昇。
同時に、突き刺さるような無数の視線が。
敵意!?
……ではないような?
にしても、尋常じゃないくらい熱い目、目、目。
もしや、この世界の会津と薩摩って、もうすでに一悶着あったのか?
俺の世界で二藩が敵対するのは、薩長同盟以降――あと十数年後からだけど、こことあっち、似てるようでちょっとちがうし、なんかあったとしてもおかしくはない。
だったら、いまは関係修復しとかないと。
ってことで、薩摩側に極上のスマイル提供。
突如、わき起こるすさまじい衝撃波。
「ばっ、なにを、なさるのです!?」
血相をかえる小姓頭。
「殿をお守りせよ!」
大野の命令に、会津家臣団はすばやく反応。
主君の周囲に高密度の人垣を形成する。
「無防備すぎますっ!」
小姓頭は歯ぎしりしながら、低く叱責。
「薩摩は昔から衆道のさかんなお国柄なのですぞ!」
衆……道?
「殿のような超絶美形がほほえんだら、いかなる不測の事態におちいるか、おわかりになりませぬか!?」
ぁ……衆道って、男同士のアレのこと?
「ったく、お小さいころから警戒心が……」
くどくどくどくど。
「…………」
おい、こら! おまえが行けっていうから、きてやったんだぞ?
俺はとくにきたかったわけじゃないんだ!
もやもやもやもや。
……とはいえ、俺はまちがえたかもしれない。
ダテの手紙、深読みしすぎて、もっときちゃいけない方にきちゃったんじゃないだろうか?
だって、男色って……風ちゃんだけじゃなく、容さん自身も捕食される危機!?
威を借る前に、虎にガチで食われそうな、この状況!
薩摩藩、おそるべしっ!
「腹が痛い」
涙目で訴えるが、大野は冷たく一瞥するだけ。
「帰り……たい」
「なにを童のようなことをおおせに」
「いやじゃー!」
「わがままをおっしゃいますな!」
いやいやいや、マジでヤバイって!
だって、この流れでいったら、斉彬さんだってアヤシイ要求してくるかもしれないだろ?
そうしたら、どーすりゃいいんだよ?
いくら藩のためとはいえ、そっちのリクエストにはお応えできませんっ!
「ぐっすん……頼む……後生じゃ……」
「なりませぬ」
必死で哀願するも、まったく取りつくシマもなし。
「あ、薩摩守さまがそこに。さあ、かわゆくごあいさつを!」
イジワル小姓が示す先では、四十代半ばのオッサンがこっちをガン見していた。




