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36 加賀藩主 前田斉恭

 屋敷を出て一里(四キロ)も行かないうちに、加賀藩上屋敷の表長屋が見えてきた。



 表長屋は、江戸詰藩士やその従者たちが暮らす、いわば官舎だ。


 こうした塀兼用の住居は、どこの藩邸にもあり、敷地をぐるっと囲むように建てられていることが多い。


 江戸勤番は、加賀藩クラスだと約三千人。

 加賀藩上屋敷では、南側と東側に上士用長屋をつくり、下士たちは敷地の北側にある大型団地に収容しているらしい。



 南御長屋横を通りすぎると、前方に藩邸表門・大御門が近づいてくる。


 これは例の赤門ではなく、公邸部分のエントランスで、堂々とした門構えの『黒門』だ。



 一方の赤門の正式名称は、御守殿門。


 御守殿とは、三位以上の大名に嫁した将軍息女の呼び名で、同時にその姫の住まいそのものも意味する。

 御守殿門は、お姫さま御殿用ゲートのこと。

 丹で塗装してあるので、通称『赤門』といわれている。



 容さん母方の伯父・前田斉恭まえだなりやすさんは、十一代将軍家斉の娘をめとっていて、加賀藩邸の赤門は、その婚礼のとき建てられたもの。



 前田さんの舅にあたる徳川家斉のニックネームは『オットセイ将軍』


 イメージ的にはかわいらしいが、じつはエロ系のあだ名らしい。


 このころ、オットセイから作った薬は強壮剤――いわば、江戸時代のバイ●グラで、家斉さんはオットセイのコレを服用し、生涯で五十五人の子供をもうけた。

(ただし、成人したのは二十五人)


 そして、どっさり生まれた子供たちを、男子だったら養子、女子だったら嫁としてあちこちの大名家にバラまいた。


 こうして、日本中の有力大名家に、家斉印のお子さま方が拡散したのだが、大名家にしてみたら、将軍のお子さまを迎えるとなると、屋敷の増改築、大奥からぞろぞろ引き連れていらっしゃる奥女中の人件費負担などで、シャレにならない巨額の出費を強いられる。

 迷惑以外のなにものでもないのだ。



 いまやビンボー藩の代名詞となった会津松平家にも、かつてオットセイさんの子どもを押しつけられたことがある。


 容パパの兄・先々代藩主容衆かたひろ――容さん父方の伯父さんは、正室として家斉印のプリンセスをあてがわれたものの、そのお姫さまは結婚後半年ほどでお亡くなりになったそうだ。


 とはいえ、このときの莫大な婚礼費用も藩のビンボー化に拍車をかけたのだろう。



 そして、同じくオットセイ製プリンセスを拝領した百万石の前田家は、御守殿さまのために赤門をはじめ豪華な新御殿を用意した。 

 加賀百万石とはいえ、財政的にはかなりキツイ負担だったにちがいない。




 その赤門は、藩主奥向き用出入り口だ。


 俺の今日の訪問は、いちおう藩主としての公式訪問なので、俺たちは加賀藩邸正門――大御門から入場することになる。


 

 

 広大な屋敷に到着し、案内されたのは、どこもかしこも金箔キンキラキンなお座敷。


 襖も屏風も壁紙にも、キンキラが埋まっている。



 うっぷ、キンキラがまぶしすぎて、息苦しい。



 そんなゴージャス空間で、容さんの伯父――加賀前田家当主・斉恭公と面会。



「先日は過分なるお心づかいをいただき、まことにかたじけなく存じます。また、貴重な洋書を貸していただけるとのこと。重ね重ね御礼申し上げます」


 深々と頭をさげながら、内心ハラハラ。



 国内最大の雄藩・前田家。

 なのに、ウンチク集には、あの赤門話くらいしか載ってなかった。


 前田斉恭が幕末にどんな役割をしたのか?

 佐幕派なのか倒幕派なのか?


 それすらもわからない。



「金之助殿」


 大藩の領主らしいゆったりとした口調で名を呼ばれる。


 するどい眼光と、への字に結ばれたままの口元。

 全身から放たれるすさまじい威厳と威圧感。


「大病を患ったと聞いたが、快癒したのか?」



 なに? この迫力!?


 こう言っちゃなんだが、家定さんより威厳あるじゃねーか、容さんのオジキ!



「はい、おかげをもちまして」


「そなたは幼きころより病がちなのだから、よくよく気をつけねばならぬぞ」



 お? ナイスタイミング!


 あっちから、健康ネタふってくれたわ。


 では、悪意のうわさの修正作業スタート!



「そのことでございますが、巷にながれるうわさが一部事実と異なっており、たいへん困惑しております」


「異なる?」


 そこですかさず、『アワヒエ玄米は領民を想ってのこと』『健康にもいいし!』と、いかにもオヤジ受けする切り口で熱弁。



 俺的にはあちこちからプレゼントもらえて、クリスマス気分だったけど、『あまりビンボー話が定着しちゃうと、今後よそさまとおつきあいしづらい!』と、じいに泣きつかれ、撤回せざるをえなくなったのだ。



「そうであったか。民をのう」


 前田さま、なぜかしみじみ。


「しばらく会わぬ間に、金之助殿もずいぶんと頼もしゅうなられたものよ」



 ん???


 オジキの目に光るものが。



 あぁ、なるほど。


 江戸城での甥の残念エピソードを聞くたび、オジキは親族として、ひそかに心を痛めてたのかも?

 たぶん、登城イコール、ネタ更新だったろうし。



 わかります。わかります。

 赤の他人の俺でさえ、井伊やヨリタネさんから、()()武勇伝聞いたときは、三分くらい呼吸するの忘れましたもん。


 まして近しい親族なら……ご同情申しあげます、オジキ。



「だが、水戸老公との一件、聞いておるぞ。血気にはやって、あまり無茶をするでない!」


 おやさしそうな態度が一変、突如、恐ろしい顔に。


 もともと威圧感バリバリだったから、まるで鬼瓦もどきのすさまじい形相。


「いざとなったら、わしも取りなしてつかわすが、そなたももそっと自重せいっ!!」


 特大の一喝!



 ひぇ~~~!



 ……でも、前田さん、すげーいい人じゃん。


 威圧感ハンパないけど、容さんのことホントに心配してるみたいだし。



 なんか、ちょっとわかってきた。俺が憑依するまでの容さんの環境が。



 当代一残念な殿さまといわれた容さん。


 だけど、まわりにいい人がいっぱいいたから、どうにかやってこれたんだろう。



 部下には大野のようなキレ者が。


 公の場では、井伊・ヨリタネさん・堀田の、頼れるオッサンチームと、陰ながら守ってくれた家定公が。


 そして、公私ともにフォローしてきたオジキが。



 こっちの世界の『松平容保』はすごく恵まれてたんだな。

 あっちの、不幸な運命にどんどん飲みこまれていった『松平容保』とはちがって。




 ひとり夢想にふけっていると、


「そうじゃ、病といえば」


 言葉を切り、迫力あるスマイルをうかべるオジキ。


「そなたもう種は植えたか?」



 は? タネ? なんの?



 遠い目になっている甥を見、オジキはやけに愉快そう。


 え? 疱瘡の種痘?


「そなたも、妹御も植えておくとよい」



 たしかに、容さんも利ちゃんも人一倍抵抗力弱そうだから、早くやってもらった方がいいかもしれないな。



「犬千代は、もうとうに植えておるぞ」


(犬千代って?)と思った刹那、《前田筑前守慶泰よしやす 幼名・犬千代 従兄弟》と、うかぶ。


 ようするに、容さんの母方従兄弟のことか?


 聞くところによると、オジキの子供たちは全員種痘を接種済みらしい。



 疱瘡(天然痘)とは、致死率40%の感染病で、発症すると、まず四十度近い高熱が三~四日つづき、解熱したあと頭や顔面から全身にかけて発疹が出る。


 その後、発疹が化膿するときに再度高熱が出、それと同時に体内にも損傷があらわれはじめる。


 この病気では、とくに呼吸器系統がやられて、呼吸不全で死亡する人が多いらしい。


 三~四週間もちこたえれば、膿疱は残るものの快方にむかう。


 だが、ようやく回復しても失明したり、重い障害がのこったりすることもすくなくない。

 戦国時代の仙台藩主・伊達正宗も子供のころ、疱瘡によって片目を失明している。



 種痘は、天然痘の予防接種。

 十八世紀末に牛痘が考案されてから世界中にひろがった。


 日本では、十九世紀半ばころより普及しはじめ、この時期はおもに西国でおこなわれ、江戸においては、1858年、蘭方医たちが『お玉が池種痘所』を開設し、やっと盛んになる。


 いまはその『種痘所』設立の四年前。


 接種をためらう人もまだ多い中、前田さんはリスク面もちゃんと検討したうえで、予防効果が高いと判断したらしい。



 前田斉恭――ノーマークだったけど、この人もなかなかの人じゃね?


 清水のレジメに書いてなかったのは、幕末動乱期、加賀藩や前田の殿さまが、中央政局にほとんど関与してなかったから?


 そうなると、知られていない名君がほかにまだまだいるかもしれない。



 その隠れた名君(?)は、言いっぱなしではなく、予防接種をする医者の手配まで約束してくれた。


 面倒見いいな、オジキ。

 この人、すんごく頼りになりそう。



 オジキと知りあったことで、俺はとてつもない安堵感につつまれた。


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