33 吹上御庭
嘉永七年二月三日
対米交渉開始まで、あと七日
必携手引書作成は、高畑に丸投げしたものの、ほかにもやらなきゃいけないことはどっさりある。
まず第一に、乗馬練習。
アメリカとの会談開催地は横浜村で、江戸から約四十キロ。
といっても、全行程陸路ではなく、途中の神奈川宿から船に乗った方が早いそうで、どうも二十一世紀とは地形がちがうらしい。
その神奈川宿までは、約三十キロ。
問題なのは交通手段で、駕籠だと相当かかりそうだ。
駕籠は藩邸から大手門までの近距離を二往復乗っただけだが、
せまい!
寒い!
遅い!
ヒマ!
とにかく、もうこりごりだ!
(しかも、二往復のうちの一回は不明意識で記憶なし)
ということで、神奈川宿までは馬で行くことにしたため、乗馬練習をしなければならなくなったのだ。
江戸は武士の街だけあって、御府内(江戸城を中心とした御朱引き内エリアのこと)には、高田の馬場・初音の馬場・桜の馬場・采女ヶ原馬場など、いくつもの馬場があるが、いずれも和田倉屋敷からだとちょっと距離がある。
そこで、江戸城内にある複数の馬場のうち、どこか練習場に使わせてもらえるところはないかと、任命式のあと阿部に打診したら、将軍決済で即OK。
吹上御庭が広くて使いやすいと勧められたので、練習場もさくっと決定した。
早朝 卯の下刻(午前七時ころ)
乗馬服に身をつつみ、やる気マンマンで式台に立つ。
門前には、すでに馬装をほどこされた動物が待……機……?
これ…………馬じゃねーだろ?
ポニー……だよな?
つぶらな瞳で俺を見つめる、キュートな生き物。
それはどう見ても、子供のころ行ったファミリー牧場で広場一周五百円、二周八百円だったポニーちゃん。
ねぇ、バカにしてんの?
容さんがいくら残念な殿様だって、このイヤガラセはひどくないか?
「これは、なんだ?」
頬をぴくつかせながら、傍らの大野に問う。
「殿の愛馬『風神丸』ではありませんか」
風神丸って……この愛くるしい子の名前が?
ここ、笑うとこ?
だが、オソロシイことに全員、真剣そのもの。
どうやら、ウケ狙いではないらしい。
逆に、「乗り方、忘れちゃったんじゃないの?」と、心配してくださる空気さえ。
そうか。俺が知ってる『馬』は外来種なのか!?
日本の純国産種は、このサイズなんだな?
(たしかに、このころの日本人はみんな、ちっこいし)
江戸末期の日本人成人男性の平均身長は、約百五十七センチ。
百七十センチ超えの容さんは相当デカいほうだ。
だから、馬もこれくらいでイケるのかもしれない。
よくよく見ると、馬体はポニーよりは若干大きめ。
ずんぐりボディで、たてがみふさふさ。
めっちゃかわい~♡
しかし、風ちゃんがメスだと聞いて、さらにショック。
ネーミングセンス最悪だな。
てなことで、気を取り直し、口取りに轡を押さえてもらって、またがる。
おぉ!?
いちおう乗れるじゃんっ!
「体育関係はどーせ全滅でしょ?」と、あきらめてたのに、見直したよ、容さんっ!
ぁあ、よかったー! 仕事がひとつ減ったー!
初級コースからがんばる覚悟をしていただけに、よろこびもひとしおだ。
いくら青白いインドアオタク(趣味:和歌)とはいえ、乗馬は上級武士のタシナミ。
奥州の雄藩会津松平家の嫡男として、小さいころから乗馬だけはきっちり仕込まれてたようだ。
ほっとしたところで、馬場めざして出発。
和田倉屋敷の正門を出、屋敷沿いに南進し、となりの忍藩邸角で西に曲がる。
ほどなく、西の丸大手門に到着。
西の丸大手門は内曲輪門のひとつで、とくに警備が厳重だ。
だが、話しはついているので、なんなく入城。
門を入ってすぐ、こんどは吹上御門をくぐる。
いつものように高麗門と渡櫓門をクリアすれば、そこはもう吹上曲輪内。
曲輪内にひろがる吹上御庭は、約十三万坪もある広大な庭園で、かつてここには尾張・紀州・水戸、御三家の屋敷があった。
江戸市街地の大半を焼きつくした明暦の大火では、江戸城の本丸御殿・二の丸・三の丸・天守が焼け落ちたが、西ノ丸とこの三屋敷は残った。
だが、この大火被害の甚大さにビビった幕府は、吹上から御三家を追いだし、ここを日除け地(防火用の空地)とした。
建物が密集していると類焼のおそれがあると判断したからだ。
それ以来、吹上は将軍用の日本庭園、薬草園、菜園、馬場などとして利用されている。
アップダウンのつづく小道を常足でゆっくり進むと、曲輪の中心部・広芝に到着。
広場の中央は騎射馬場。
騎射とは、要するに流鏑馬のようなもの。
馬場の長さは約四百五十メートル。
陸上用トラック一周(四百メートル)とほぼ同じくらいだ。
南北にのびる直線コースは乗馬練習に最適で、常足より少し速い速足で何度も往復し、思う存分乗馬を堪能。
日本の古馬術は、四本の足が右左互い違いになる一般的な『斜対歩』ではなく、『側対歩』といって前後同じ側の脚がセットで動く走法を採用している。
こっちは斜対歩に比べ、揺れがすくなく、騎射に適しているんだとか。
そして、会津藩の馬術は大坪流という流派。
でも俺的には、乗れりゃ何流でもかまいませーん。
乗馬は、腸腰筋や大腰筋・骨盤底筋といったインナーマッスルを鍛えるのに、すごくいいらしい。
『股関節も柔軟になり、馬の動きにあわせてバランスをとる動きは、腹筋や背筋の筋力アップにもつながる』と、J●BAのパンフにも書いてあったし。
ラジオ体操だけじゃ鍛えられないインナーマッスル増強のため、これから毎日やるか?
にしても、風を感じながら走るのは久しぶり!
やっぱ、気持ちいーいっ!
一日中練習したいが、そうもいかない。
出発まで予定がぎっしりつまっているので、残念ながら三時間で終了ですぅ。




