32 出石藩士 岩崎尚之介
藩邸帰着後まもなく、先に下城した堀田から、蘭学者と書籍がとどく。
堀田、仕事、早っっ!
さっそく、上屋敷大広間内に、『ハラキリ回避対策本部』兼『交渉用虎之巻作成所』を設置。
今回、堀田が派遣してきた蘭学者はふたり。
ひとりは四十代の蘭方医で、佐倉藩の御殿医をしている男。
もうひとりは、容さんとタメくらいのニイチャン。
堀田からの添状によると、
「話が急だったので、とりあえず二名だけ先に行かせます。ほかは目下手配中。逐次増員するんで、ご安心を」とのこと。
堀田、ホント頼りになるな~。
「岩崎尚之介と申します」
やけにさわやかな笑顔で名乗るニイチャン。
「父は但馬出石藩の藩医をしております」
なんでも、岩崎の親父は漢方医でありながら、「これからは蘭方だっ!」と、当時十三歳だった三男坊を順天堂にブチこんだのが六年前。
以後、ひたすら勉学にはげんだが、学問を深めるうち医学ではなく化学・物理・生物など自然科学にめざめてしまったんだとか。
「昨年から、木挽町の佐久間象山先生の私塾で洋学を学んでおります」
ここにきたイキサツは、順天堂時代の知己が多い佐倉藩築地中屋敷でウロウロしていると、物陰から堀田の家臣が、
「オニイサン、いいバイトあるんだけど?」と勧誘。
そのまま即連行――な流れらしい。
ところで、岩崎が師事している佐久間象山は、清水のウンチク集によると、幕末を代表する知識人のひとりで、洋学全般、とくに西洋兵学に通じ、大砲鋳造なども独自に手がける当代一の逸材なんだとか。
(ただし、性格はかなり破綻気味)
その評判は、江戸府内だけにとどまらず、日本全国から入塾希望者が殺到しているそうな。
そんな中、若干十八歳で弟子入りをゆるされたとなると、岩崎はけっこう優秀なのかもしれない。
しかも、理系!
ほしいー♡
会津藩は古式ゆかしい武士道精神を範とする正統派サムライ集団のせいか、もっぱら刀槍を尊び、鉄砲・大砲など、弓以外の飛道具を卑しむ傾向がある。
幕末の会津は、武士としてあまりに真っ当すぎたため軍制改革が遅れ、戊辰戦争ではつねに劣勢に立たされたとも言われている。
となると、こっちの世界では薩長に負けないよう早急に軍制・装備の近代化をはからなければならない。
そのためには理系は絶対必要っ!
だが、会津藩校日新館で秀才と称されるのは、四書五経など中国古典の成績優秀者ばかり。
日新館には天文台など科学系施設もあるのだが、理系人材を育成する課程そのものがすくなく、そうした才を活かすポストもない。
理系とは、いわば合理性を追求する学問。
「卑怯なマネして勝つくらいなら、負けた方がマシっ!」
「利や勝機がなくとも『義』に殉じることこそ、男子の本懐っ!」的武士道精神とはなじみにくい世界だ。
会津に理系男子が育ちにくいのは、その士風が災いしているのかもしれない。
それはそうと、こいつ、たしか三男って言ったよな?
つまり、実家は兄貴が継いでるんだな?
ってことは、フリー?
……ふっふっふ、じわじわからめ取って、ハンティングするか?
のんびり茶をすする青年を観察しながら、俺はいくつかの捕獲作戦を考えた。
夕方には、井伊家からも洋書満載の荷車が到着。
アンチョコ作成準備は徐々に整いつつあった。
あとはこの作業を指揮統括するリーダーの選定のみ。
そこで活躍したのが、仕事のデキる小姓頭・大野冬馬さん。
下城後、大野は江戸勤番の中から、使えそうな藩士をピックアップ。
高畑誠三郎という男が、昌平黌留学中だと聞きつけ、即招喚。
高畑は会津藩下士出身。
歳は二十三歳。
会津藩では、下士は藩校への入学がゆるされていないので、高畑は城下の私塾で学んだあと、師匠の推薦で昌平黌に入学したらしい。
聞くところによると、国学・漢学方面ではかなりスゴイ人なんだとか。
アンチョコづくりでは、洋書の翻訳作業は蘭学者たちにまかせるとしても、膨大な文章を編集するためには、卓越した国語力が必要だ。
高畑はこの作業の総責任者として、まさにおあつらえむきの人物といえる。
「無理をいってすまぬが、そなたにこの作業の指揮をとってもらいたい」
伺候してきた高畑にいきなり下命。
「はっ」
下士の高畑は、いままで声をかけてもらうどころか、遠くから顔しか見たことのない(正確には、目鼻だちもわからないくらいはるか下座らしいので、顔すら見たことがない)藩主の御前でガッチガチ。
「とくに、ここ五十年の日本史・外交史・法律、列強の勢力分布図と各国の近代史、万国公法、日本周辺の被植民地支配の実態を、大至急まとめよ」
目の焦点も定まらぬ男に、たたみこむように指示。
「はっ」
高畑は感激のあまり、すでに失神寸前。
(……ぉぃ、大丈夫なのか、こいつ?)
若干、不安は残るが、ほかに選択の余地はない。
リーダー任命をかたづけ、ようやく老中の伊賀守がこっそり渡してくれた包みをあらためることに。
高級そうな風呂敷の中から出てきたものは、最新の『オランダ風説書』と『別段風説書』っ!
あーーー!
まさにこんなのが欲しかったんっすよーっ!
ありがとー、伊賀守さんっ!
オランダ風説書は、オランダ本国で毎年編纂される最新国際情勢リポート。
十七世紀半ばより鎖国をはじめた徳川政権は、一方で、今後の国際情勢に疎くなるのを危惧した。
「世界のどっかに、突然ドデカイ悪の帝国なんかできて、急に攻めてきたらマジヤバくね?」とでも思ったのか?
そこで、数すくない交易国・オランダに依頼し、世界の最新ニュースを毎年報告してもらうことになったのがオランダ風説書。
別段風説書は、一昨年、ペリー来日などのアメリカ艦隊情報を事前にキャッチしたオランダ政府が、特別なご好意で送ってきた号外。
徳川幕府は、唯一の貿易港・長崎を直轄地にして、貿易を独占したうえ、門外不出のオランダ風説書で、海外情報までもひとりじめしているのだ。
幕府しか知りえない国外情報は、徳川家の優位性を保つ根拠のひとつにもなっている。
その貴重なトップシークレット文書の貸し出しは、家定公のなみなみならぬ厚情をしめすものだろう。
ということで、これはマル秘あつかいとし、藩主御座之間で管理し、閲覧できるのはリーダーの高畑くんだけに限定した。
それなら秘密も漏れないだろう。
そして、阿部が貸してくれたのは、ある藩の元家老・Tさんが書いた開国に関する意見書だった。
まるで「これからの歴史知ってんの?」くらい、現在の状況と今後の展開を正確に見通したスグレモノ。
こんなやつがいるんなら、さくっと外交アドバイザーにでもすりゃいいのに。
直参、陪臣、ややこしい身分制があるからダメなの?
いまは、国家的危機なんだし、んなこと言ってらんねーだろーが?
ま、あっちのことはほっといて、自分のところで人材収集でもすっか!
「ほかに優秀な者がおれば、推挙してほしい。身分は問わぬ」
「では、数人、推挙いたしたき者がおります」
ためらいがちに申し出る高畑。
「許す。人員の補充はそなたの判断でいたせ。武士でなくともよい。報酬は十分に用意するゆえ、万事そなたのやりやすきよういたすがよい」
家定は、「肥後の要望はすべてかなえてやれ」と言ってくれた。
だったら、バイト何人雇っても必要経費として出してくれんだろ?
なら、高額報酬提示して、頭いいやつバンバン集めたらいいんじゃね?
会津藩のふところは、全然痛まないわけだし。
「御意」
こののち高畑は、昌平黌仲間や岩崎ら蘭学者とともに、交渉用アンチョコ作成作業に忙殺されることとなった。
任命式翌日。
めずらしく近侍をはずれた大野は、夕方近くになってようやく出仕。
「……殿」
なにやら思案顔で呼びかける小姓頭。
「どうも、妙な風向きになっているようでございます」
「妙な?」
大野は数え年十五歳のとき、当時五歳だった嫡男・金之助君の小姓になった。
以後十四年間、若君づき小姓として近侍。
容さんが十一歳で初御目見すると、大野は御刀番を兼務し、幼い主君とともに登城すること八年あまり。
大野は、供侍として登城するうち、他藩士たちとも自然と顔見知りになり、交友関係がひろがった。
武芸に秀で、武士らしいすがすがしいその人柄は、多くの侍に好感をもたれ、いまや正規の江戸留守居役以上の広い人脈を築くまでになっている。
今日一日、大野は知人のいる藩邸をいくつも訪ね歩き、情報収集活動をしてきたらしい。
そのとき、複数の知り合いから、意外な話を聞いたという。
「水戸老公に大逆風が吹いている、だと?」
………なんで?
徳川斉昭の『クチコミ包囲網作戦』は大当たりし、大勝利をおさめたはずのジジイだったが、江戸城内では状況が一変しているらしい。
なんでも、老公に対する大ネガティブキャンペーンがはられているんだとか。
わけわかんねぇ……。
大野いわく、
『御三家一グレートな存在といわれた斉昭公が、一日に三度も論戦に敗れた!』
『その相手が、なんとあの会津少将!』
『【残念なイケメン】として有名なあの松平肥後守にっ!』
(『あの』に二回も傍点がつく容さんも、ちょっとどうかとは思うが)
諸侯間に流れたこのうわさにより、
『あの会津侯(これで三回目)に論破されるんじゃ、水戸老公もじつは大した御方じゃなかったんじゃねー?』
という巨大なマイナスイメージが一気に伝播し、その名声は地に落ちるどころか、地中にめりこみ、かつての虚像もグラグラガタガタゆらぎ、御老公を見る諸侯の目も、急に冷ややかになっているそうな。
じつは、このネガティブキャンペーンは、城内の坊主たちが陰で暗躍した結果らしい。
坊主衆あこがれのキラキラ美青年に対する同情と義憤から、アイドルをいじめる悪役=斉昭にダメージを与える行動につながったのだ。
坊主軍団のクチコミは地上最強なので、江戸城内でのマイナス評価の流布はかなりヤバイ。
だから、各藩とも坊主たちに高額の付届けを絶やさず、機嫌を損ねないよう細心の注意をはらっているのだ。
いい例が、ヤリ手老中・田沼意次の場合。
田沼も意図的に流されたウワサで失脚した。
汚職政治家のイメージが強い田沼だが、実際は当時としてはむしろクリーンな人だった。
しかし、田沼が行った商業奨励策によって田沼の部下にワイロが集まるようになり、その悪いイメージが全部田沼ひとりに集約され、最大の庇護者であった将軍・家治が亡くなったとたん、政敵にそれを利用され、領地のほとんどを取り上げられたうえ、城まで破却されてしまったのだ。
ヘタなウワサが流れると、政治生命にかかわるほどの大きな致命傷になってしまう。
そういう意味では、徳川斉昭は厄介な男を敵にまわしたことになる。
反対に、心づよい味方を得た容さん。
初登城以来、残念エピソードには事欠かなかった会津侯。
つねになまあたたかい微苦笑とともに語られてきた数々の伝説。
しかし、今年――嘉永七年は、そこに真の武勇伝が加わったメモリアルイヤーとなった。
水戸老公の流したビンボー話と、かがやかしい論客デビュー速報。
いまや、容さんは完全に時の人。
このハイブリッドゴシップは、誰もが予想しなかった展開をもたらした。
会津藩邸には、同情の差し入れとファンレターの山がつぎつぎ来集。
差し入れの方は、じいがおそれた「他の家中に知れたら末代までの恥・雑穀玄米大名」の肩書により、会津赤貧認定が差し入れ殺到という現象に直結したのだ。
このころの大名は、藩財政がいくら真っ赤かな大赤字でも、外に対してはめちゃくちゃミエをはり、ギンギンにカッコつけるのがデフォなのに、アワヒエ奇談は、「会津はよほど困窮しておいでなのだろう(プッ)」と、諸侯の優越意識をくすぐったらしい。
「御家の面目が……外聞が……体裁も……」
俺の前で、これ見よがしにシクシク泣くじい。
なにがいけないんだよ?
くれるっていうなら、もらっとけばいいじゃん!
お得感いっぱいでほくほくする俺には、じいの嘆きがさっぱり理解できなかった。




