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31 拝命

 明るい庭を背にする伊賀守の正面は逆光気味。


 胸のあたりに、なにか抱えているようだ。



「お身体は本復されましたか?」


 極力、声のトーンを落としてボソボソ。

 まるで、まわりに聞こえちゃマズイみたいだ。



 そういえば、オッサンは単独行動。


 殿中での必須アイテム・表坊主の同伴もなしだ。


 これは老中としては異例の行動なのだが……。



「はい、ようやく」


 そう答えて頭をさげると、安心したようにニッコリ。


「こたびは難儀なお役目をつとめられることとなり、なんと申しあげてよいのやら……」


 言葉にふかい同情心がこもっている。



「つきましては、これを」


 対座した上田侯は、手にした風呂敷包みを俺のまえにすべらせた。


「このようなものがあれば、交渉の際の参考になるかと存じまして」


 思わせぶりな面もちで、いっそう声をひそめる。


「ただしこれは、本来門外不出の品。公方さまより貸出許可はいただいておりますが、お貸ししたことはくれぐれもご内密に」


「かたじけのう存じます」


 相手の尋常ではない厚意が伝わり、自然に頭がさがる。



「いまひとつ、伊勢守より預かったものも入っております。これはある洋学者による開国に関する意見書とか。よろしかったらご覧いただきたいとのこと」


 阿部が?


 思わず風呂敷包みを開こうと手を伸ばすと、オッサンはその動作をすばやく静止。


「これらは軽々に持ちだしてはならぬもの。屋敷に帰ってからご覧ください。ここで大っぴらに見られては、われらも困るのです」


「申しわけございません」


 てか、そんな極秘文書みたいなもの、借りちゃっていいの?



 とまどう俺の前で、老中はかすかに顔をほころばせた。


「先日の評定では、久しぶりに気が晴れました。会津侯はお若いに似ずかなりの論客。しかもその広い視野と高い識見。まことに感服つかまつりました」


 そう言って、意地悪そうにニヤリ。


 どうやら、ジジイが論破されて悔しがるシーンを脳内でリプレイしているもよう。



「われらも、侯を全力でお助けいたす所存。決して腹を召される事態などにならぬよう、陰ながらお支えいたします」


 すぅっと表情をあらため、早口にささやく。


「これは公方さまのご内意でもございます」


「公方さまの?」


 妙な光をおびた目で、深くうなずく。


「なれば、どうかご懸念なくおつとめください。このような困難なお役目も会津侯ならば、首尾よく成し遂げられるものと信じております」



 老中は機密文書入り風呂敷包みを残し、部屋を出ていった。




 伊賀守がいなくなると、それと入れかわりに松平和泉守乗全があらわれた。


 こっちの老中も、さっきのオッサン同様ひとりきり。



「肥後守、これへ」


 和泉守は目と微妙なしぐさだけで、俺を黒書院内に誘導。


 ようやく将軍と対面できるようだ。



 黒書院は将軍の日常行事用広間。


 それを構成するのは上段之間など四室だが、その周囲を入側いりがわとよばれる畳敷きの廊下がぐるっと取り囲んでいる。


 北東方向から溜間を出、黒書院入側に入る。


 そのまま下段之間に入るのかと思ったら、先導の老中は入側をスルーし御錠口に。



 御錠口から先は『中奥』。


 御三家御三卿といえども、気軽に入ることは許されない将軍公邸部分だ。



(……なんで?)



 歩みをとめない老中の後ろで、俺は大混乱。


 大名への任命式なら黒書院を使うはず。

 わざわざこんな奥にいく必要はないのだが?



 御錠口につづく御成廊下を北進すると、ほどなく広い庭園に面した棟が見えてきた。



 将軍御座之間。


 上段、下段、など六室からなり、広さは百畳以上。


 ここは基本、将軍が政務を執る場所なのだが、謁見の間としても使われる。


 謁見の間としては最高位で、おもに御三家当主との面会や参勤交代時挨拶、大身旗本の任命式などごく近しい人物との対面が行われる場所で、この御座之間で対面することを『御用召ごようめし』とよぶ。



 ただし、容さんは御用召の対象ではないはずだ。



 松平乗全は、庭に面した南の入側から下段之間に俺を誘導。

 そこには、阿部伊勢守・牧野備前守の二老中がすでに着座していた。


 案内役の和泉守も牧野のとなりにすわる。



 一段高くなった上段之間には将軍家定が、今日は着流しではなく、上下色違いの裃姿を着てすわっている。



 俺は、指定されたポジションまでいざり、とりあえず平伏。



「面をあげよ」


 将軍の言葉をうけ、手をついたまま四十五度の角度まで上体をおこす。


「こたび、その方を『交渉使節団後見役』に任ずることと相なった。心してつとめよ」


 老中首座阿部正弘が、重々しく告げる。



(ったく、欠席裁判じゃねーかよ!)と思ったものの、決定された人事を拒否れるわけもない。



「臣、非才の身なれど、このお役目、一心につとめさせていただきまする」


 受諾して平伏するしかない。



「溜詰諸侯には公方さまの名代としてのおつとめもござる。こたび異国の使節と相まみえるに、常溜の肥後守ならば適任と申せよう」


 牧野備前守忠雅、よっぽどうしろめたいのか、必死に持ちあげようとしているのがミエミエ。


(なにが『適任』だーっ! お世辞なんていらねぇから、かわってくれーっ!)


 にしても、溜詰って、将軍の代理になれるくらいのステータスなの?


 容さん、やっぱ、幕府内ランキング、高いんだな。



「肥後」


 上段之間からお言葉がかかる。


「はっ」


 条件反射で、容さん平伏。


「病はもうよいのか?」


「はっ」


「全癒しておらぬなら、辞退してもかまわぬぞ」



 ――っ!――



 胸が熱くなる。


 正直、パスさせてもらえるなら、ぜひそうしたいところ。



 でも……家定さんのために、がんばってみようかな?


 らしくないけど。



 あっちの世界の幕末動乱は、この日米和親条約がきっかけではじまった。



 これと後の修好通商条約、ふたつの条約締結をめぐり、抗議する水戸のジジイ・一橋派諸侯と、和親を主張する溜詰ら保守系大名との対立が激化。


 ここからドロドロの条約・将軍継嗣問題に発展していく。


 幕府内を二分するはげしい抗争に、もともと虚弱だった将軍家定は心労からか、いっそう病がちになり、たしか、三十代半ばで薨去したはず。



 ってことは、あと数年後?



 苦いものがこみあげてくる。



 こんないい人が、もうすぐ死んじゃう。



 もし、俺がこれを不平等じゃない条約にできたら、幕末史は変わるだろうか?


 俺がこの交渉でがんばったら、家定(この人)の苦悩は減るんだろうか?



 そうしたら、もっと長く生きられるんじゃないだろうか?



 もし……その可能性があるのだとしたら……。




「ありがたきお言葉なれど、こたびは公方さまの御恩に、いささかなりと報いとう存じます」


 三老中、「おおー!」と驚歎。



「……そうか」


 反対に、ため息まじりにうなずく家定。


 いままでのふたりのかかわり方を考えれば、まぁ当然だろう。



 容さん専任迷子係だった(?)家定さん。


 あのぼんやり君に、こんな大役がつとまるのかと、心底不安になるのは無理からぬこと…………、



 ――!――



 あぁ、そうか。



 家定は俺がお役目を辞退しやすいよう、この任命式にかかわる人数を極力減らしたのか。


 この場で俺が就任を拒んだことが、外部にヘンな形で漏れないように。



 だから、取次の役人や奥のスタッフを使わず、老中たちだけに仕切らせて。


 それもこれも、容さん()の立場や風聞を思いやっての配慮。



 家定さん!



「望みがあれば、なんなりと申すがよい」


 憐憫をふくんだしずかなまなざしが、俺の上に注がれる。


「ありがたきしあわせ」



 そう言ってくれるなら、目いっぱい甘えさせてもらおう。


 そして、必ずいい結果を出してやる。

 家定さんのために。



「伊勢」


 傍らの阿部にアイコンタクト。


 目礼で答える老中。


「すべて肥後の望むよう、はかってやれ。肥後、困急した折は必ず伊勢らにはかり、その力を借りよ。決して無理をせぬよう」



 そう告げる将軍の言葉には、終始、憂色がただよっていた。

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