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27 奸計

 一月二十八日



 じいこと山川兵衛重栄が、『脳の病宣告』で絶望の淵につき落とされた同日同時刻。


 もうひとりの江戸家老・西郷頼母近志は、江戸城内において愕然とする話を聞かされていた。


 

 この日は、在府諸侯が一斉登城し、将軍にあいさつをする『月次御礼つきなみおんれい』の総登城日。


 老中あてに、主君の欠席届を出しにきた西郷は、取次ぎの役人から、とんでもない話題をふられた。



「それにしても、メリケンとの交渉が首尾よく整わぬときは、会津侯が切腹して公方さまにお詫びなされるとは」


 四十代の旗本は、会津藩主の欠席届を受理したあと、しみじみと感嘆。


「……は……?」


「会津侯といえば、女人と見まごうほどの美丈夫。あのようにやさしげな風情ながら、やはり剛毅果断な会津武士の血が流れておいでなのですなぁ」


「そ、それはいったい……?」


「ご家老はお聞きおよびではないのか?」


 とまどう西郷を見、ハッとする旗本。


「なるほど……侯はすべて己一身の中に秘し、決死のお覚悟で国難にあたろうとなさっておられるのか! まさに、おとこのなかの漢……」


 そう言って、役人はそっと目頭をおさえた。


(え? え? なにそれ?)状態におちいる西郷。


 感涙にむせぶオッサンから、どうにかこうにか事情を聞きだしところ……。



 ――対米交渉団団長は林大学頭――


(うん、それは知ってる)


 ――くわえて、その上に『交渉使節団後見役』を置く――


(……はい……?)


 ――後見役の役目・権限は未定。ただし、交渉が失敗したら、全責任を引っかぶってハラキリ――


(お、おい……まさか……)


 ――『交渉使節団後見役』に松平肥後守を任ずる――


(!!!!!)


 と、決定したらしい。




 仰天した西郷は、こけつまろびつ下城。


 藩主のもとに急行し、さっそく事の真偽を確認した。



(いえ、初耳です)


 茫然と横たわる藩主のまわりで、一同狂乱。


 帰り支度をしていた松本良順はふたたびすわりなおし、会津侯()の脈を取りはじめる。


「かなり速いですな」



 あったりめぇだろーがっ!!!


 切腹だよ? 

 切腹っっっ!!


 なに冷静に診察してんだよ!


 ドクターは次に、単衣の袖口から手を差しいれ、胸と腹を触診。


「心拍数と熱もあがってきたようです。あまり興奮なさらずに」


 先生、ちょっとは空気、読めよ……。


「急変……ご容体……心配……いましばらくここに……」


 松本はなにやらブツブツ言いながら、荷をほどき、すわりなおした。



「殿っ! いかなる仕儀にございましょうやっっ!!」


 まだ息をゼイゼイさせながら、主君()につめよってくる西郷。



 西郷家は、家禄千七百石。

 代々家老職をつとめる藩内きっての名門で、その先祖をたどると保科正之の養父・保科正光の叔父につながる、ある意味『保科』本流にちかい血筋。


 その名家のご家老さまが、びんをほつれさせた姿で、俺をにらんでいる。


 ふと、なぜか、この男が、容さんを好いていないような気がした。


『俺』ではなく、『松平容保』そのひとを。



 容さんのご先祖・保科正之は、二代将軍徳川秀忠の庶子。


 正之を養嗣子にむかえたのは信濃高遠藩主・保科正光だが、じつは正光にはそのころすでに世継ぎがいた。

(正光には実子がいなかったので、実弟を養子にむかえていた)


 ところが正光は、旧主武田信玄の娘の依頼を受けると、世継ぎを廃嫡してまで、正之を自分の後継者にすえた。


 廃嫡された実弟は、のちに旗本、最終的に大名となったらしい。



 もしや、西郷はなにか鬱屈した想いでもいだいているのか?


 保科家ゆかりの家柄なのに、数百年間、養子の子孫に家督を乗っ取られ、家臣として仕えざるをえなかった一族のめぐりあわせを。


 んなこと言われたって、俺にはどーしよーもないんだが。


 入室以来、ずっとジミな敵意をむけてくるオッサン。

 その底知れぬ暗部に、言い知れぬ気持ち悪さを感じた。



 それはそうと、ここはひとまず、みんなを落ちつかせなきゃ。


「倒れる前、そのような話は一切出ておらなんだ。わたしが退出したあと、どなたかが言いだされたのであろう」


「「「どなたがこんなヒドイことを!?」」」


 狂騒のるつぼと化した藩主御寝之間は、さらにヒートアップ。


「それはわからぬ」


 いや、十中八九どころか、1000%の確率であのクソジジイだろ。


 ジジイは、自分が気に入らない幕閣や官僚にも「腹を切れ!」「切腹じゃ!」と、しょっちゅう脅しているようだし、絶対まちがいない。


 聞くところによると、老中のひとりの松平伊賀守忠優なんかは、顔を合わせるたび、あいさつがわりに毎回そう叫ばれているらしい。


 ったく、パワハラの見本みたいなオヤジだな。



「お世継ぎどころか、まだ祝言もすんでいないというに、切腹とは」


 じい、朝から何度目かの号泣に突入。


 俺の意図は完全に空振ったようだ。


「この会津二十三万石ももう終わりだ。殿には、いまだ仮養子すらおられぬゆえ」


 真っ暗な表情で、なんとなくあてつけがましくつぶやく西郷。


「お家は無嗣断絶。台徳院(秀忠)さまよりつづくお血筋も廃絶……」


 なぜかどことなくうれしそうなようす。



 ところで、仮養子とは?


 ほとんどの大名に義務づけられている参勤交代などで、大名が国許に下向する際、もし跡取りのいない当主が旅先で急死すると、無嗣断絶(家督相続する者がいなくて、家が取りつぶされること)になってしまう。


 そこで、参勤交代の間だけ、仮に誰かを養子指名しておき、万一のときはその養子を次代藩主に立てる『仮養子』という制度がある。


 一年後、殿さまが無事に帰府したら、その書類は返却され、養子の件は白紙にもどる。


 逆に、江戸にもどれない事態になったら、その申請書に記載された者が家督を継ぐ――一種のリスク回避ヘッジ制度なのだ。



 会津二十三万石の当主・容さんの場合、容さんは生まれも育ちも江戸の会津藩上屋敷で、国入りしたのは、世子時代の三年前ただ一度きり。


 これは、藩政見習いのため領国内を視察してこいとパパに命じられての下向だったが、このときの容さんは当主ではなかったため、当然、仮養子などは立てられていない。


 その下向中『父危篤。すぐ帰れ』の急使が来、容さんは会津鶴ヶ城から急ぎ出発し、大急ぎで駆けつけたものの、父・容敬はすでに他界後だったとか。


 その半月後、容さんは幕府から正式に継承が認められ、第九代会津藩主になったが、前藩主の死去や新藩主就封などでごたごたしている間は、大名の参勤交代は免除されるので、じつは容さんは藩主になってから、まだ一度も国許に下向していない。


 なので、いままで仮養子申請は不要だったし、藩主就任早々で未婚の容さんに、養子縁組話がでたこともなかった。


 そこへ、いきなりふってわいた会津侯切腹騒動。


 このままだと、家老ふたりが危惧するとおり、会津松平家はまちがいなく無嗣断絶。


 いわば、二十三万石の超大型倒産劇&大量の失業者!

 藩士全員が発狂してもおかしくない大ピンチ!



「殿、どうしたらよいのでしょうか?」


 って、言われてもねぇ。


 昏倒したあと、どういうイキサツでそんな話になったのか、さっぱりわかんねーし、情報量がすくなすぎて、対策のたてようもない。


 それに、あの家定公が、そんな無慈悲なお役目新設を許すとも思えない。



「みな、落ちつけ。誰か、いま一度御城にあがり、ご老中に事の次第をくわしく聞いてまいれ」


 主君の冷静なひとことが、場を一気に鎮静化。


 あたふたと対応に走りだす家老たち。


 部下たちにテキパキ指示し、自分は褥の横で手をナデナデしながら涙ぐむ小姓頭。


 望外の留学話に夢見心地で、職場放棄気味な御殿医。


 それをぼーっとながめる医者と患者()


 

「侯は、開国には賛成なのですか?」


 ヒマをもてあましたドクターが、世間話風にかるく聞いてきた。


「国際情勢にかんがみ、それが時代の流れというもの」


 小姓たちは、びっくりして二度見。


 らしくない発言に、作業の手がとまる。


「松本殿は海外にわたり、医学を学びたいとは思わぬのか?」


 今度は俺から逆質問。


「異国……でございますか?」


 意表をつかれたのか、良順先生は絶句。


「わが国の洋学は体系的に学問を学ぶわけではなく、その多くは書物から独学に近い形で習得すると聞いた」


 って、清水のウンチクに書いてあったよ。



 たとえば、この時代の『蘭方医』の場合、まず最初にオランダ語の読み書きを習得し、ひとりで蘭書を読めるようにがんばる。


 もうこの時点で『蘭学者』の称号ゲット。



 つぎのステージは、あらゆるツテを使い、あちこちで医学書を借りるか閲覧させてもらう。


(松本のように、パパの書斎にマイ蘭医学書がどっさりあるやつはいいが、ほかの大多数の蘭学者やつらは、いくばくかの金を包んで見せてもらう。洋書は高いので、必要な書籍をすべて買うのはキツイ)


 そして、借りた本から自分の専門分野の項目だけをちょこちょこ拾って書き写せば、はい『蘭方医』のできあがり♡


 この時代は、国家試験も医師免許もないから、名乗っちゃったもん勝ちだ。


 インターンシップや実習、臨床研修なしでも全然OK。


 現代のように、耳鼻科医になりたい医学生でも、全科一通りの授業を受けたうえ、3K御三家『小児科』『産婦人科』『救急救命』など、「ぼくには絶対ムリっす!」な科でのインターン実習も必修というのとはちがう、むちゃくちゃ乱暴な実態だ。


 もちろん、まじめに蘭医学全般を修めようと取りくんだ人もいたろうが、オランダ語がちょこっとできるだけで、なーんちゃって蘭方医になってるやつもすくなくなかった。


 これは、医学だけでなく、ほかの分野でも似たりよったり。


 そもそも、外国人との交流は、長崎という限られた場所で、許可を得たやつにしかできなかった。

 オランダ語を学びたくても、ネイティブの先生につくのはまず無理なのだ。


 ということで、この時代、異国の学問を修得するなら、希少な書物を通しての独学に近い勉強方法が主流。基礎から応用へ、といった系統的な学習は難しかった。



「わたしの考えは、まずオランダ・メリケンと対等な条約をむすび、それを基に他国とも条約をむすぶ。

 さらに、人が自由に行ききできるよう邦の掟をかえ、優秀な人材を諸外国に留学させ、一気に先進技術を体系ごと吸収するべきであろう」


「海外……留学?」


 江戸・大阪・長崎への国内留学さえもまだまだ大変な時代。


「は? なに言っちゃってんの、この人は?」と、思われてもしかたのないほどの暴論なのだろう。


「それはまた、気宇壮大な」



 松本良順はふたたび眠そうな表情にもどり、自分の感情をポーカーフェイスのうしろに消し去った。



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