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26 不治の病

「お脈を拝見いたします」



 助っ人医師は、容さん()の細い手首をむんずとつかんだ。


 ニイチャンは医者にしておくにはもったいないくらいのいいガタイ。手も大きくたくましい。


 歳は二十代半ば。

 眠そうなポーカーフェイスが特徴の蘭方医兼漢方医。



 奥御医師は身分的には旗本相当で、世継ぎも旗本あつかい。

 なので、陪臣の磐田はちょっと遠慮気味に後方にすわり、若い蘭方医の診察を熱心に見つめる。



「失礼ですが、佐藤泰然先生の塾といえば……」


 磐田は十歳ほど年下のニイチャンにおずおずと話かけた。


「かの有名な順天堂でございますか?」


「さようです」


 ニイチャンは、脈を取りながらあっさり。


 じ、順天堂……?


 って、あの順天堂かーっ!?


 箱根駅伝最難所・山登りの五区に降臨した『元祖・山の神』Iさまがいらっしゃった、茄子紺なすこんのユニフォームの、あの順天堂大学ぅーーーっ!?



 ぅっひゃぁーー!!!



 その驚愕は全身に作用し、脈拍数はいちじるしく上昇。


 前回の井伊家漢方医のときと同じように、ニイチャンもうろたえた。


「お静まりください。脈が乱れておられる」



 そういえば順天堂って、基本ベースは医大だったよね?


 その前身は、良順パパがお作りになった医学塾なのかっ!


 もうこんな時代からあったとはー!


 幕末と現代がすごく近く思えて、妙に感動。


 さっきあんなに凹んでたのに、テンションも急浮揚。



(へへ~、順天堂かぁ~~~♡)



 あらためてドクターをまじまじ。


 超至近距離から送られる美青年の熱視線に、うっすら頬をそめる松本。



「殿っっ!」


 大野があわてたように一喝。


「さように人を凝視してはなりませぬ! 殿に見つめられると老若男女にかかわらず、理性がフッ飛びますゆえ!」



 理性が……飛ぶ?


 見つめるだけで?


 どんな攻撃力だよ!?



(……!……)


 ああ、それで、登城したとき、数寄屋坊主が赤面してたのは、このチートのせいだったのか?



 でも、徳川慶恕は?


 あいつ、俺の視線に気づいたあと、コワイ顔して倍返ししてきやがったぞ。



「尾張侯はすさまじい形相で、にらみ返してきたが?」


「よほど、殿がお嫌いなのでしょうね」



 ――ぐさっ――


 なにもそこまではっきり言わなくたって。



 と、そのとき、


「うらやましゅうございます」


 突如ため息とともに吐きだす磐田。


「幼きころより蘭方医の父君から薫陶を受け、いまは漢方の養家に入られ、両医学を極めることがおできになるとは」


 慟哭にも似た嘆声。


「……磐田……?」



 この時代、蘭方医はまだそう多くない。


 じつは、去年のペリー来航まで、英語どころか蘭学でさえマイナーかつ白眼視される学問だったためだ。


 幕府は十五年ほどまえ、蘭学者に対する言論弾圧――『蛮社の獄』をおこなった。


 この事件の影響では、吉宗の洋書解禁以降、徐々に江戸で高まりはじめた西洋文化への好奇心や開明的気運は一気に後退し、蘭学をこころざす者は減ってしまった。


 昨今、ペリー来航の余波で、洋学の需要はふえる一方なのだが、肝心の洋学指導者は不足ぎみ。


 だから、江戸・大坂・長崎以外の地で医者になろうと思ったら、磐田のように漢方医にならざるをえない。


 そのうえ、輸入医学書籍は希少で高価だ。

 となれば、蘭医学は一般人がかんたんに学べる学問ではない。



 御殿医の磐田は貧困の中、生活を切り詰めて必死に勉強してきた。


 生まれながらに豊富な蘭学書に囲まれ、実父も養父も医者という良順の恵まれた環境は、磐田にとっては手の届かない夢そのものなのだろう。



「ならば、いまから学べばよいではないか?」


 ふかい考えもなく、ついついポロリ。


「よろしいのでございますか?」


 妙にギラつく眼で見かえす御殿医。


「入塾を希望されるのでしたら、わたしが父に紹介状を書いてもよろしゅうございます」


 ドクターは、患者(容さん)の下まぶたをひっくり返しつつ提案。


「頼む」


 あかんべー状態でこんなことを依頼するのも、どうかと思うが。


「では、殿、おそれながら御殿医を辞させていただきまする」


 悲壮感たっぷりの退職宣言。


「かまわぬ。御殿医の籍はそのままに藩費留学せよ。必要な書籍は公費で買うがよい。そなたが身につけた学問を、いずれ藩の者たちにも教えてやってくれ」



 個人的に入塾すると藩医の仕事を辞職し、無職・塾代自己負担で数年暮らすことになる。


 藩お抱え医師となり、やっと定収を得られるようになったのに、またビンボー生活に逆もどり。

 それじゃ、いままで逆境にたえ、一生懸命努力してきた磐田がかわいそう。


 殿様なら能力と意欲のあるやつをバックアップしてやったっていいだろ?


「と、殿っ!」


 三十過ぎたオッサンが大号泣。身をふるわせながら枕元で平伏。


 かたや、じいと小姓たちは一様にはげしく動揺。


「あのぼんやりの殿が……?」


「そのようなご配慮がおできになるとは!」


「……殿らしゅうない……」



 と、奥医師のポーカーフェイスがくずれた。


「……なるほど……」


 気がかりそうに眉をひそめ、小姓たちにむきなおる松本。


「ほかに以前とかわられたところはありませぬか?」


「あきらかに話の筋が通るようになられました」


(おいっ!)


「なぜか突然、『効率』『合理性』『経済的』『能力主義』などと言いだされ、ついぞ聞いたことのないお言葉に、みな困惑しておりまする」


(まちがってねーだろうが!?)


「小姓すら遠ざけられ、日に数回、怪しげな踊りをこっそりおどっておいでです。はじめて目にしたときは背筋が凍りました」


(『怪しげな踊り』……ラジオ体操のこと? って、人払いしてんのに見てんじゃねーよっ!)


「日々の食事に『栄養学』を取り入れよなどと仰せになり……意味がようわかりませぬ」


「……うーん……」


 良順先生の苦渋にみちた表情に、一同パニック。


「「「重い病なのでしょうか!?」」」


「脳に……障りがあるのではないかと……」


「「「脳ッ!!!」」」


 居あわせた全員、顔面蒼白。



 まぁ、そう言えなくもないか?


 憑依霊という別人の意識に脳を乗っ取られてるんだもん。



「蘭学といえども、人体のすべてを解明したわけではありませぬ。とくに脳の仕組みはまだまだわからぬことだらけで……。

 ゆえに、たしかなことは申せませぬが、お聞きしたところ、その疑いが濃厚では、と」


「「「脳病!!!」」」


 まるで余命宣告されたかのごとく、一斉に泣きだす家臣たち。


「がらりと性格がかわる症状は脳になにか異常がある兆候といわれ、それが深刻なものか軽微なものか、いまの医学では判断がつかぬのです」


 良順先生はあわれみのこもった目で一同を見まわす。


「じつは、堀田さまは昨日の会津侯のあまりのかわりように懸念をもたれ、こたび、わたしをお遣わしになられたのです」



 ああ、そういうことか。


 たしかに、あの評定のときの松平容保は、いままでのボンヤリくんとはあきらかにちがっただろうし、堀田が疑問を持ったのもムリはない。


 なにしろ、いつもの容さんなら水戸老公に逆らうことも、論争に勝つこともありえないわけで。


 容敬公信者の井伊やヨリタネさんは容さんにパパの姿を投影しすぎてそれに気づかなかったか、やっと容パパ譲りの潜在能力が開花したと思ったのか?


 だが、冷静な堀田正篤テディちゃんの目には、容さんの激変ぶりはなにか危ういものに映ったらしい。


 とくに、


 一)直前に大病をしていたこと


 二)評定中に意識不明になったこと


 この二点から、堀田は会津侯がなにかヤバい病におかされているのでは、と疑ったようだ。


 そこで、蘭方漢方両道に通じた松本良順を派遣し、病気の原因を探らせようとしたんだろう。



 でも、病因って言われてもねぇ。


「ボクが憑依したからですっ!」


 なんて、告白できっこないし。


 みんなには原因不明の脳の奇病ってことで納得してもらうしかないだろう。



 にしても、


「病弱な金之助さまが、やっとここまで成長なされたというのに……原因不明の不治の病とは!」


 じいは畳に突っ伏し、身も世もあらず大泣き。



 あぁぁ、あんなに泣いちゃって……。


 なんか……今日明日にでも死ななきゃいけない雰囲気になってるし。



 ……ん……?


 ちょっと待て……これ、使えるじゃねーかっ!


 俺と容さんの人格交代の、絶好の言いわけになる!



 だって、この時代では究明不可の脳の病気なら、別人のようなふるまいをしてもつじつまが合うってことだろ?


 これからはムリして容さんのフリしなくてすむわけだ。



 うわっ、ラッキー!


 まぁ、話し言葉・立ち居ふるまいのほうは、容さん(あいつ)が勝手に変換してくれるし。


 今後はノビノビやらせてもらいます。



「いずれにしましても、いまは体調の変化にご留意なされ、なにかありましたらいつでもお声をおかけください」


 同情心にみちた松本の声がひびく。



(……しめしめ……)



 磐田留学中のホームドクターの件も心配する必要がなくなりそうだ。

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