22 人選
「そろそろ午の刻にございますが、いかがいたしましょう?」
御三家側の完敗で評定が一段落すると、阿部は御簾にむかって問いかけた。
午の刻(昼九つ)は、現代の午後十二時ころ。
(不定時法――日の出から日没までを六等分する時間法――なので、季節によってずれる)
将軍はスケジュールがきっちり決まっていて、午の刻は中奥で昼餉をとる時間だ。
じつは、会議出席者も屋敷からいちおう弁当を持参しているので、家定のOKさえ出れば俺らも昼飯にありつける。
と、阿部の問いに呼応し、境の御簾がするすると上がった。
――!――
さっき、上段で人が動く気配がしてたが、てっきりバトルに嫌気がさした家定がこっそり退席したのかと思ったら……逆だったんかい!
最初、将軍の供は奥小姓八人だった。
しかし、いまはパッと見二十人はくだらない。
家定の左右には裃ヤローどもがビッシリ。
おい、めちゃめちゃふえてんじゃねぇかっ!
どういうことだ?
ひょっとして、水戸対会津戦が思ってた以上に盛りあがり、
「おーい、おもしろいからみんな見にこいよー!」的な?
それじゃ、まるで見世物じゃねーか。
スマホもタブレット端末もない時代。
娯楽のすくない城詰めの方々にとって、さっきのはけっこう楽しめるディベート版バトルロイヤルだったのか?
んだよ、こっちは必死こいて戦ってたのに!
そんな俺の心も知らず、ギャラリーの中心にいる男は、
「遠慮は無用。つづけよ」
おだやかに続行命令。
その姿はふたたび下ろされた御簾のむこうに消えた。
「「「はっ」」」
下段の全諸侯が平伏し、了解のサイン。
……えっ? 休憩なしなの?
おいおい、かんべんしてくれよー!
T●Lの●ッキーや●ニーの中に入ってる人だって、ちょこちょこ休憩取ってるのに!
なのに、俺は朝からポンコツ着ぐるみ着っぱなし。
マジで疲れんだぞ、この欠陥住宅はっ!
そのうえ今日は連続号泣ディ。
久しぶりにやってみたら、『泣く』という行為は疲労感ハンパなかった。
すでに全身ぼろぼろ、HPゼロ状態だ。
くそ!
今度こそ居眠りしてやるからな!
ジジイさえおとなしくなったら、俺の出番もないはず。
さっき相当凹ませておいたし、もう大丈夫だろ?
なら、調子に乗って敵を作るようなマネはつつしむって井伊やヨリタネさんと約束もしたことだし、解散までしずかにすわってるわ。
たとえジジイがギャーギャーさわぎはじめても、今度は絶対シカトする!
とにかくこれ以上疲れることはゴメンだ。
昼前ですでに限界をはるかにこえた過重労働。
これ以上このポンコツに負荷をかけるのはムリっす。
「では評定をつづけます」
阿部があらためて宣言。
「つづいて、交渉にあたる使節ですが……」
交渉団の人選は優秀な官僚のみなさんがすでに用意しており、あとはさくっと追認するだけ。
横やりをいれまくるどこかのおエライ方の出現などで、いろいろ紆余曲折はあったものの、和親条約交渉開始は既定路線。
表御殿西側で「攘夷!」「開国!」とさわぐ諸侯をしり目に、東側の役人たちは着々と準備をしていたらしい。
ということで、今回の交渉団団長は林大学頭復斎とすでに決定ずみ。
林家の初代は、かの有名な林羅山。
羅山は近世朱子学の祖といわれ、林家当主は三代目・鳳岡以降代々『大学頭』を襲名し、儒者として幕府に仕えてきた。
林家十一代当主復斎は、外交関係の仕事に精通した能吏で、この人選は適任。
ほかのメンバーは、まずは北町奉行の井戸対馬守覚弘。
「なんで北町奉行が?」と思ったが、井戸は以前長崎奉行をつとめ、外国との交渉経験も豊富で、去年のペリー来航時もこの人が応接したらしい。
つぎに、浦賀奉行の伊沢美作守政義。
この人も長崎奉行経験者。
浦賀奉行にはもうひとり戸田伊豆守氏栄という人がいる。
浦賀奉行は二人制で、伊沢は江戸在府、戸田は浦賀勤務。
なので、戸田はずっとアメリカ艦隊にはりついており、現地からバンバン報告書を送ってくる。
あとは、目付の鵜殿民部少輔長鋭、松坂萬太郎など数人。
「通詞はメリケン帰りの中浜万次郎に申しつけることといたします」
中浜万次郎――というより、ジョン万次郎の名のほうが知られている。
もとは土佐の漁師で、仲間と漁にでているときに遭難。
無人島に漂着後、しばらくして仲間とともにアメリカの捕鯨船に救助される。
仲間はハワイにおろされるが、万次郎だけはなぜか船長に気にいられ、いっしょにアメリカ本土にわたり、航海学校で英語・数学・測量・航海術・造船技術などを学び、主席で卒業したんだとか。
すげぇよな。
日本では読み書きもできない漁師の子だったのに。
この時代の日本人って、武士も庶民もみんなホント勉強熱心なんだよな。
日本は同時代の諸外国に比べ、国民の識字率がずば抜けて高かったらしい。
一説によると、このころ江戸での識字率は八十パーセント。
まぁ、江戸は人口の半分が知識階級の武士なので、この数字はうなずけないこともないが、八十ということは町人の六割ていどは読み書きができたことになる。
一方、同時代のイギリスの大都市部における識字率は二十パーセント前後、パリなどは十パーセントにも満たなかったという。
それにくらべ日本では、地方の農村でも約二割が文字を読むことができた。
これは、幕府や各藩からの御触れはすべて文書で回ってくるので、書くことはともかく、文字を読めないと命令違反を犯す恐れがあるので、必然的に学ばざるをえなかったらしい。
だから、維新以降、外国の新しい制度や文化を驚異のスピードで吸収できたのも、そもそも国民全体のスペックが高く、とくに数学の分野では世界でもトップレベルの域に達していたという。
このころの日本の公的教育機関としては、幕府がもうけた昌平坂学問所(昌平黌)がある。
ここは基本的に幕臣のための学校だが、各藩の藩士・浪人なども受けいれている。
入所するには現代のような入試制度もあり、日本全国の秀才たちが集まってくるこの時代の最高学府で、後年その一部が東京大学の前身になった。
つまり、いまも昔も、トップエリート養成機関として君臨している学校なのだ。
今回の団長・林大学頭は城勤めのかたわら、同時に昌平黌の塾頭も務めている超秀才。
頭脳をマネるのはムリだけど、せめて学問に取り組む姿勢くらい見習わなきゃいけない。
昌平黌以外の武士の教育の場としては『藩校』がある。
会津藩における日新館もそのひとつだが、そんな武士のための学校が各藩にあり、初等科から大学相当レベルまで履修できる。
有名なものでは、仙台藩の養賢堂、秋田藩の明徳館、米沢藩の興譲館、庄内藩の致道館、水戸の弘道館、長州藩の明倫館、熊本藩の時習館、武州岩槻藩遷喬館(……ぉぃ、さりげなく入れたな?)などなど。
私塾では大阪の適塾・長崎の鳴滝塾といった蘭学系や、萩の松下村塾、ほかにも庶民の子弟のための寺子屋、数学専門塾なんかもあるらしい。
江戸時代の人たちはいろいろな選択肢の中から自分にあった勉強の場を見つけ、学問を娯楽がわりにしていたそうだ。
それにひきかえ、俺ときたら、帰国子女なのに、英語系資格はゼロ。
漢検・数検・江戸検などもゼロ。
とくに足が速いわけでもないただの陸上バカで、なにひとつ取りえなし。
せめて英検準一級かTOEFL上位クラスでも持ってたら、AO入試もイケたのに。
こうしてみると、ぼんやり容さんとある意味超酷似。
そして、いまのこの受難。
この超常体験はあっちで怠けた罰なのか?
「その者、素性いやしき下人であろう?」
しみじみひとり反省会を開く俺の耳に、不愉快な音が飛びこんできた。
徳川斉昭公、再臨。
さっきあれだけつぶしておいたのに、まったくこりないジジイだ。
「漂流しおる所を、メリケンの船に助けられたというではないか。
いざとなればわれらを裏切り、夷狄の側に組するつもりではないのか?」
どうやら、通詞の人選にクレームをつけているようす。
ジョン万次郎を登用することがお気に召さないらしい。
でも、万次郎はいまや幕臣。下人ではない。
この時代におけるその特殊技能――英語力を買われて幕府に招へいされ、去年旗本になっている。
(くそジジイめ……)
そんなに信用できないなら、自分でやりゃあいいだろっ!?
日本は二百年以上鎖国政策をつづけてきた。
しかし、例外が二国――中国とオランダ。
このころは、洋学イコール蘭学だった。
そのため蘭学者は大勢いるが、そのほとんどは書籍による学習方法で、読み書きならOKだが、会話ができる者はあまり多くない。
唯一許された洋学(蘭学)がこのザマだから、英語のできる人材なんているわけがない。
アメリカ艦隊公用語はもちろん英語。
日本の通詞にはあいさつ程度の英会話ならできるヤツも一、二人いるらしいが、複雑な折衝や読み書きとなったら完全にお手あげ。
そんな中、数年前にアメリカから帰国したジョン万次郎は、神様が遣わしてくれた『日本の救世主』かもしれない。
むずかしい外交交渉に「ジョン万次郎を使うな!」とはね。
最初から選択肢せばめてどうすんの?
内心ムカつながら、大量にツバをとばす水戸御老公を冷やかに黙視。
じゃあ、通訳はどうすんのよ?
いくら林さんが優秀でも、この短期間に英語超高速マスターはムリでしょ?
……へ?
日本語 →(漢文)→ オランダ語 → 英語 → オランダ語 →(漢文)→ 日本語?
ぷぷっ。
なに、それ? 新しいギャグ?
万次郎を使えば、
日本語 → 英語 → 日本語なのに?
笑かすなよ、ジジイ。
バッカじゃねーの?
「愚かな」
――!!!――
か、容さん、なに言ってんのーっっ!!
俺が思ったこと、全部出しちゃダメでしょーっ!!!
あせりまくったが、すでに手遅れ。
「肥後守ぃっっっ!!!」
案の定、ジジイがたけり狂った。
「いま、わしを『愚か』と申したなっ!?」
『お聞きまちがいでは?』
と、俺は言ったはずだったが…………、
「はい、申しあげました」
ひぇぇぇーーーっ!!!
な、なんでぇぇぇー???
ハードが完全にバグってるしーーっ!
疲労がピーク越しちゃって、誤作動おこしてるのか?
マジかよ~~っ!?
一日のうちに何回もバトルできるほど、俺だってメンタル強くないし~。
それに、口論って体力的にも意外と疲れるんだぞ!
心身ともにもう限界だって!
全エネルギーチャージ、ゼロだ!
だいたいバトルを維持できない虚弱体質になってんのは誰のせいだよ?
不摂生・運動不足・自堕落な毎日を過ごしてきたのは、あんただろーっ!
てめぇのツケは、てめぇで払え!
ケンカしたいなら勝手にやれ!
俺はもう知らねぇぞ!!
壊れたハードウェアに毒づいても、なんの解決にもなりゃしない。
容さんの中の俺はまさに嵐に翻弄される小舟状態。
出口の見えない状況に、ひとりパニックにおちいるかわいそうな俺。