20 佐倉藩主 堀田正篤
溜間に歩み入った家定は、ひれ伏す諸侯をしずかに見わたした。
「連日の評定、みな大儀」
「「「はっ」」」
一同平伏したまま、この異常事態に混乱。
「ここではせまかろう。黒書院を使うがいい」
将軍はソフトな口調で、そう提案。
「ご臨席になられるのでございますか?」
わずかに顔をあげ、いぶかしげに確認する阿部。
黒書院はおもに将軍の日常行事に使われる広間。
この黒書院はほかの御殿とは異なり、桧ではなく総赤松造りで、障壁画はシブい色味の押絵。
部屋と部屋の境も豪華な彫物欄間ではなく、山水画が描かれた壁で、ジミだが武家の棟梁たる征夷大将軍にふさわしい閑雅な広間となっている。
全体の広さは、上段之間・下段之間・囲炉裏の間・西湖の間の四室と、『入側』とよばれる畳敷きの廊下等をあわせて、約百九十畳くらい。
将軍公式謁見用広間の白書院(約三百畳)、重要儀式用会場・大広間(約五百畳)にくらべれば小さいが、現代人の目から見れば十分デカい。
ところで、阿部が驚愕しつつ確認したのは、こうした会議に将軍が飛び入り参加する例がないためだ。
将軍のスケジュールでは執務は午後一時ころからとなっていて、家定がこの評定に列席する必要はない。
通常は、昼食まで儒学・歴史の講義受講、芸事お稽古などの自己研鑚タイム。
そもそも将軍が溜間に出現すること自体、前代未聞の珍事なのだ。
ところが、家定はその問いに、
「傍聴いたす」
ほのかに笑いつつ、きっぱり断言。
言葉にならないざわめきが場にみちると、
「評定のじゃまはせぬ」
一同の動揺をしずめるよう、そう言い添えた。
絶対君主のつよい意向をうけ、牧野・松平ズの三老中は全員の脇差をテキパキ回収。
つぎに、丸腰になった諸侯を阿部が黒書院下段之間に引率。
登城した大名は殿中では脇差のみは携行をゆるされるが、将軍拝謁時だけは一時取りあげられることになっており、これは将軍に対して不測の事態がおきないための措置だとか。
傍聴宣言のあとすぐ上段之間に着座した家定と、下段之間で平伏する俺らとの間に御簾が下ろされた。
視界に将軍の姿が入ると、自由な発言ができなくなると慮ったのかもしれない。
「ご一同おそろいにございますれば、評定を再開いたします」
会場設定が一段落すると、阿部はさっそくそう通告。
そして、ポジショニングは同じくタマリノマクラブ対御三家の構図。
「メリケン国との和親につき、なにかご意見はございませぬか?」
将軍臨席と休憩前後のぎすぎすした空気のせいか、なかなか発言する者もいない中、ようやく、
「いずれ攘夷となるにせよ……」
タマリノマクラブのひとり下総佐倉藩主・堀田備中守正篤がおもむろに意見陳述。
「当面は条約を結び、その間、異国の新しき技術を取りいれ、いざという時の軍備を整えるべきかと存ずる」
『攘夷』という尊王派の鉄板ワードをさりげなく散りばめ、ジジイにも気を使っているあたり……うーん、大人だねぇ。
堀田は四十代半ば。
ヨリタネさんと同年配くらい。
堀田は以前老中をつとめていたこともあり、幕政にあかるく、藩政改革でも実績をあげている、なかなかデキるオッサンらしい。
とはいえ、見た目はばりばりな感じじゃなく、ちょっとテディベア風の愛らしいオヤジ。
体つきも顔も鼻もまん丸でタレ目。
全体にぽっちゃりしてて、なんだかハグしたいくらいのかわいらしさ。
洗練された粋な雰囲気はないものの、眼光には尋常ならざる鋭さのある大名だ。
「備中守の言、もっともかと存ずる」
常溜・井伊も堀田を支持。
「肥後守はどうなのじゃ?」
ジジイがこっちにふった。
その目には底意地悪そうな光が。
「は?」
……なんだ? このビシビシくる敵意は?
「堀田さまのご意見に賛同いたしまする」
「備中守の意見のどこに、どう賛同するのじゃ、肥後守よ?」
(……あ……)
これは……俺がさっき使った論調。
パクリやがったな、ジジイっ!
「異国の新しき技術とは何か?」
今度は尾張侯。
「いざというときの軍備とは、どのようなものをいうのだ?」
斉昭の息子・水戸中納言も参戦。
御三家サイドから大量に放出される瘴気が容さんめがけて殺到。
(こ、こいつら……)
わかったぞ。
どうやら御三家チームは休み時間中に作戦会議をし、おそれ多くも水戸のご老公と尾張大納言さまに対し無礼極まりない態度をとったあのクソ生意気な小僧をこらしめるための作戦を立てたらしい。
なのに、二番煎じ・パクリという、かなしいくらいの低レベル作戦を。
「…………」
「それがしがお答えつかまつる」
あまりのアホらしさに絶句していると、となりの井伊が盾になった。
しかし、
「そなたには聞いておらぬ。わしは肥後守に問うておるのじゃ!」
それを許さず、頭ごなしに叱りとばすジジイ。
「出すぎるでない、掃部頭!」
青ざめた井伊を、さらに非難する慶恕。
ふと、
(俺の世界の慶恕と『容保』だったら、こんな展開にはならなかったよな)
場違いな感慨がわく。
あっちのふたりはともに高須松平家出身の異母兄弟。
あっちの慶恕なら、もし弟と水戸老公が対立したら、なんとか仲を取り持とうとしたはずだ。
だが、異世界の容保と慶恕は二百五十年前に先祖がいっしょだっただけ。
だから、尾張侯は、血縁とはいいがたい会津侯を遠慮なくたたけるわけだ。
ひとり異世界仕様を実感していると、
「それがしの言葉が足りず、誤解をまねくこととなり申した」
堀田がおだやかに割って入った。
いままでもたびたび衝突してきたジジイと井伊。
堀田は対峙する両者の間に入り、第三者として仲裁役を買ってでたようだ。
「それがしは異国と交流し、その進んだ技術を……」
「だまれ、備中守! わしは肥後守の申し分を聞きたいのだ!」
斉昭の一喝は、温和な堀田の顔色までをもかえさせた。
「もうそれくらいになされよ」
讃岐守頼胤が斉昭をいさめた。
「若い者をいたぶるなど、あまりよいご趣味とは申せぬ」
ジジイより十歳ほど歳下のヨリタネさんだが、人間的成熟度でははるかに上。
一方、精神年齢だけはやけにぴちぴちの水戸老公は、
「言うな、奸物!」
「な、なんですとっ!」
デキた大人のヨリタネさん、ブチ切れ。
「そなた、わしが隠居に追いこまれたのを幸い、本藩を乗っ取ろうと画策しておったではないか!」
「バカな。それがしはご公儀からの依頼を受け、慶篤君の後見をしておったまで。感謝されこそすれ、身に覚えのないことで面罵されるいわれはないっ!」
目を血走らせ、ぐいぐいにらみあうふたり。
今から十年前、水戸藩主斉昭は幕府から隠居命令をくらった。
そのとき嫡男の慶篤はまだローティーン。
そこで幕府は、水戸家の分家筋――高松・守山・常陸府中の三連枝――に新当主の後見を命じた。
ところが、水戸藩内では、なぜか高松藩が本藩の乗っ取りをたくらんでいると邪推し、斉昭派家臣団を中心にいまだにヨリタネさんに対し、敵愾心をもやしているという。
でも、かばおうとしてくれたお気持ちはと~てっもありがたいんですけど……完全に論点ずれてますって。
御三家による集中波状攻撃。
さっきまでのどん底メンタルだったら、俺もかなりヤバかったけど、いまは家定さんのおかげで、V字回復済み。
売られたケンカは、完璧に買える態勢になってますからっ!
で、察するところ、御三家のみなさま方、どうあっても容さんに恥をかかせたいようだ。
ちぇっ。これからは半分居眠りしながら、おとなしくしてよう、って決めてたのに。
『これからはヘンに熱くなったりしないぞ~』って、そうかわゆく誓ったような気もするし。
面倒くさいことに巻きこまれると、容パパの呪いもコワイ。
……でもさぁ、イジメはよくないよな?
体幹に刻印された不快感。
胃に走る鈍痛。
古い記憶が涙腺を刺激し、視界がかすむ。
小学校の五年間と、帰国後の中二の夏から卒業までの十八ヶ月間。
小学校のときはちょっとかわった名前と見た目から。
中学はそれプラス帰国子女だったせいで。
長期にわたる黒歴史。
がっつりなじんだあの絶望感。
なにか言うたびにおきる嘲笑。
ミスったり、もたついたときの聞えよがしの舌打ち。
中途半端な時期に入ってきたよそ者に対する部活での露骨な仲間はずれ。
五歳のころからつづけてきたサッカーをあきらめるきっかけになった地味な嫌がらせ――パスが一度もまわってこない、誰も俺と組みたがらない、シューズやスパイクの紛失、練習・試合の予定・集合時間の伝達ミス――etc.
あんなに楽しかったサッカーが……ボールさえ見たくなくなるほどキライになった。
結局、中三になる直前で退部し、ひとりでもできる陸上に転向するはめに。
もちろん部活には入らず、独学・自主練の日々。
専用の設備が必要な短距離はムリだから、必然的に長距離に。
さらに、バカどもと同じ高校に行きたくないから、以後は勉強もがんばった。
そして、県内ではそこそこといわれる高校に合格♡
そのあとはどっと気がゆるみ、三年間サボったせいで、いまに至ってるけど。
だから、俺、集団や強い立場のヤツらが、少数の弱いヤツをネチネチいたぶる精神構造って、好きじゃねぇんだよなっ!
リミッターがはじけとぶ。
もうガチでいくよ?
そうハラを決めた瞬間、容さんにスィッチが入った。