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18 第十三代将軍 徳川家定

 …………ってことは…………?



 ここは『中奥』?


 入っちゃいけないところに入っちゃってる……的な?



 っっっ……マジかよーーーっ!


関係者以外立入禁止キープアウト』って、はっきり書いとけよーっ!



『中奥』は公邸部分。

 将軍が一日の大半を過ごすプライベート空間だ。



『表』と『中奥』は黒書院横の御錠口で仕切られている。


 でも、あともう一か所、表御殿東側の官庁エリアから入るルートもあるが、当然そこにも警備員がいるはずなのだが……。


 なんでこんなに簡単に入れちゃったんだ?


 警備体制に問題があるんだ!


 俺のせいじゃないぃーっ!!



 そうはいっても、一大名が許可なく聖域に侵入した事実にかわりはない。



『降格』『減封』『移封』…………『改易』



 脳裡に乱舞する不吉な単語。

 恐怖のあまり視野狭窄発症。



 歴史が……かわる。

 確実にかわるっ!



これじゃ、会津藩は京都守護職でうんぬんかんぬん戊辰戦争でどうしたこうしたどころか、そのはるか手前 ―― 1854年時点で、日本史上から途中棄権ドロップアウトだ!


箱根駅伝的には、一区の六郷橋で、神奈川県に入る前に失格みたいなもの!




「溜間か?」


 錯乱する会津侯()にむかっておだやかに確認する将軍家定。

 なぜか一向にとがめるようすはない。


 想定外の雰囲気ムードに若干平静を取りもどす。



 そこで、あらためてニイチャンを観察してみると、


 やせた青白い顔に、点々と散る痘痕あばた


 首や手が唐突に動く不自然な動作。



 これは……もしや……?



「はっ、溜間にございます」


 将軍の問いにまだ答えていないのを思いだし、あわてて返答。


「そうか。ならば、案内させよう」


 あたたかく諭すようにつむがれる言葉。


「だから、もう泣くな」



 そう言われ、自分がまだしゃくりあげていることに気づく。



 

 第十三代将軍・徳川家定。


 日本史上、徳川歴代将軍の中ではちょっと印象がうすい人。


 その数少ない解説も、


「知的な遅れがあった」


「なんらかの障害で政務がとれず、井伊大老の傀儡だった」


「暗愚でお菓子作りにしか興味のないバカ将軍だった」


 とか、とにかく散々なものばかり。



 だが、こうして実際に会ってみると、時おり眼・口・首・手などにケイレンが見られ、すこし障がいがあるのは本当みたい。


 でも、知的にはとくに問題はなさそうだ。



 清水ウンチク集『十一代~十五代将軍編』にも、


「当時の記録から脳性まひ――脳に原因がある運動機能障害。基本的に知的遅れはない――の障害があったと思われる」と、書いてあった。



 たしかに、会った当初は首や手に顕著な不随意運動(自分の意志でコントロールできない動作)がでていたが、いまはその動きもかなり収まってきている。


 不随意運動は脳性まひの特徴で、動作をはじめようとするときや、緊張したときに強くあらわれる症状。


 リラックスすると不随意運動もすくなくなるらしく、就寝中は発現しないそうだ。




 そういえば、おやじの海外勤務でニューヨークに住んでいたとき、うちのデバガメ母ちゃんが突如、地元のボランティア団体に加入した。


「高邁な精神から」というよりは、知らない土地で知りあいを作りたかっただけらしい。


 しかし、自分だけならまだしも、なぜか俺も勝手にメンバー登録しやがった。


 じつは、昔、電車内で席を譲ったジジイに、


「わしは年寄じゃないっっ!」


 と、どなられて以来、俺は『善行』とか『ボランティア』という言葉に、屈折した思いをもっている。


 だから、こういう世界は一番苦手。


 なのに、活動日には毎回、強制連行。


 慣れるまでは、本当にどんより、げんなり、うんざり。



 そんなボランティア活動のなか、家定と同じ障がいをもつ人にも会った。


 そして、多くの人たちと接するうち、もっていた先入観や偏見もなくなり、障がい特性や補助するコツなど、けっこういろんなことを知ることができ、いまにして思えば、いい経験だったが。



 ということで、生まれながらのハンディキャップをもつ家定さん。


 先代家慶の四男として誕生し、十八歳のとき、めでたく将軍世嗣になった。


 家慶には二十七人の子供がいたが、二十歳を超すまで生きていたのは家定だけ。


 ほかに直系がいなかったとはいえ、障がいをもつ身ながら廃嫡にもならず、昨年、第十三代将軍位に就任。



 障がいとはいうものの、別にスポーツ選手ってわけじゃないし、為政者としての判断力と、まあまあ大過なく生活できる身体機能さえあれば十分じゃね?


 実際会ってみて、とくに問題はなさそうだし。



 なんでも、後世、家定イコール『バカ将軍』的イメージが定着したのは、越前藩主・松平春嶽の悪意にみちた証言がもとになっているんだとか。


 中でも、


「凡人の中でもサイテーレベルの凡人」


「庭でガチョウを追いかけまわし興じていた」


 のエピソードは、春嶽のねつ造らしい。


(鳥類が好きだったのは本当らしい)


 どうやら春嶽は、十四代将軍候補をめぐる対立――いわゆる『将軍継嗣問題』――で、自分たち一橋派が負けたことを根にもっての意趣返しで、家定の悪口を言いまくったらしい。



(ちっちゃいヤツ)



 その証拠に、十二代家慶~十四代家茂まで三代にわたって御小姓をつとめた旗本Tさんによると、家定はそれほど劣った人物でもなかったという。


(明治期の聞き取り調査で、そういう証言がバッチリ残ってるそうな)



 Tさんによると、三百諸侯の中にはもっと残念な大名もぞろぞろいたらしいが、家定は、障がい以外は当時の貴人としては問題ないレベルだったそうだ。


 むしろ、国難に懸命に取り組んだ、まじめな将軍だったという。



 松平慶永(春嶽)――会津の敵といっていい男。


 イヤがる会津藩主松平容保をしつこく脅して、京都守護職という幕末一のババを引かせ、会津藩を地獄の底にたたき落とした張本人。


 おかげで会津は、荒れ狂う皇都で精神的にも経済的にも苦しみ、はては朝敵の汚名まで着せられ、薩長政権から血祭りにあげられた。


 かたや越前藩は、かなり早い段階から薩長に近づき、上手に世渡り。


 明治期にも大貴族としての栄耀栄華を謳歌する。


 家定と会津藩は『春嶽による被害者』という点では同士かもしれない。




 その同志ともいえる公方さま、やさしいまなざしで容さん()を見おろしている。


 育ちの良さと温厚そうな人柄がにじむ一方、顔色は悪く、やせぎすで、あまり丈夫じゃなさそう。



 黒船来航という、日本史上最も政治判断がむずかしい時期に、病弱の身で一国の統治者として大権の重責にある不運な宿命。


 この人は、どんな気持ちで毎日を生きてるんだろう?


 人生が思い通りにいかなくて、俺みたいに絶望することはないのか?



「かたじけのう存じ奉りまする」


 錯綜するさまざまな想いとともに、俺はふたたび平伏した。


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