185 鯰絵
今回の話は、震災被害を受けられた方にとって不快に思われる部分があるかもしれません。
作者としては、そのような意図は全くないのですが、そう取られる可能性もあることに気づきました。
安政江戸地震のとき、鯰絵がたくさん売れたのは史実なのですが……被災者にそうした物品を売る行為が容認できないと考える方もいらっしゃると思います。
その場合、この回はスルーしていただいて、次話から読んでいただいても内容的にはだいたいつながると思いますので、よろしくお願いいたします。
「左衛門尉、その方の忠義、しかと」
「もったいなき御言葉!」
御錠口の向こうから聞こえるねぎらいと、歓喜の声。
「大儀」
それを最後に、家定は黒書院を出て、こっちに戻ってきた。
―― そう、俺は一番乗りの手柄を酒井にゆずったのだ。
なぜなら、もし俺が一番乗り認定されてしまったら、あのストーカー野郎に逆恨みされて、ずーーーっとつきまとわれるのは火を見るよりも明らか。
そのうえ、さっき家定が「ずいぶんと早かったな」と言った直後、
「一番乗りの褒美を取らせねばな」
ボソッとつぶやいたのを俺は聞き逃さなかった。
家定の褒美……これまでの経験上、ロクでもないシロモノなのはまちがいない。
だったら、カタバミに功をゆずったほうがメリットは大きい ―― たとえ、大野にしばらくネチネチ言われたとしても。
「くわっはっはっは! はじめて会津に勝ったわ!」
閉まりかけた御錠口の奥では、俺の深慮遠謀を知らない酒井が、勝利の雄たけびを上げている。
ふん、好きに言ってろ。
そもそも、もうすぐ大地震がくるって教えてやったのは俺じゃねぇか。
だから、あんなに早く火事装束で登城できたんだろ?
それを鬼の首でも取ったみたいに、調子コキやがって!
とはいえ、俺が、
「入城したのは酒井のほうが先だった。たぶん、黒書院溜間に控えているから、避難する前にちょこっと声をかけてやってくれ」と、サダっちにお願いしたら、まわりにいた近習たちは、
「先に公方さまの御前に伺候したのは会津侯なのに?」
「大功をゆずられるとは」
「なんという度量の大きさ!」
「「「さすがっす!」」」
てなぐあいに、俺の株が爆上がりしたので結果オーライ、『損して得取れ』だ。
一時避難所は、中奥北側の小馬場に設営されることになった。
小馬場とは、大奥跡地に作られたサダっちの自転車練習用トラックのことで、そこに御殿から運び出した畳や屏風で簡易テントもどきを作って臨時御座所とした。
最終的には、吹上の茶屋に移動して数日過ごし、その間に甲羅家(幕府お抱えの大工集団)に城内の点検修理をしてもらえば安心だ。
だが、吹上に行くには、大手門か天守台横の西桔橋を通るルートになる。
いまはまだ余震がつづいているから落下物もあるし、可動式の跳ね橋はしっかり点検しないと危険なので、吹上への移動は、経路の安全確認がすんでからにするべきだろう。
気の利く奥小姓が手あぶり(小型火鉢)を何個か調達してきて、なぜか俺にまでひとつ支給してくれた。
……よけいな気づかいはいらないから、早く解放してくれ。
酒井には下城許可がすぐ出たのに、俺は家定の真ん前に座らされて、「これからどうすればいい?」とご下問攻め。
「そうね、被災者への炊き出しや、お救小屋(救護施設)設置、混乱に乗じた犯罪抑止のための巡回強化なんかは南北両奉行所がもうやってくれてると思うよ」
「政府としては、玉川上水等壊れたインフラの補修計画や、便乗値上げを禁止する条例、義援金の財源確保、支給に関する事務関連、あとは被災者の今後の生活支援の方針とかを決めたらどうかなぁ?」
311のときに聞きかじったワードを駆使してテキトーに答えたが、家定は、
「なるほど」
ニコニコうなずくだけで、いっこうに「下がれ」とは言わない。
寒いし腹も減ってくるしで、イラついた俺は、ついつい、
「来年は、秋ごろに風水害が起きるから、そのための予算は残しておいたほうがいいよ!」
なんて、いらん未来知識まで披露してしまい、
「「「第二の予言!!!」」」
一同騒然となって、ますます粘着される始末。
それから四半時(約30分)ほど経ったころ、老中の内藤紀伊守忠親が登城してきた。
「やった~! これで帰れる~!」と、喜んだのもつかの間、内藤は地震見舞いにやってくる諸大名の応対係に指名されて、どこかに行ってしまった。
結局、老中・若年寄連中がそろったのは、地震発生から二刻(約4時間)後。
夜八つ(午前二時)、家定はそいつらを伴って吹上御庭に移動し、俺はようやく帰宅をゆるされた。
和田倉にもどると、案の定、屋敷はグチャグチャでとても住める状態じゃない。
「三田に行く」
女子チームが避難している三田屋敷はすでにキャパオーバーだけど、中屋敷もここと同じ軟弱地盤だから避難するのはムリだろう。
しばらくは、箕田園に仮設住宅を建てて、雨露をしのぐしかない。
上・中ふたつの屋敷の再建……痛いなぁ。
しかたない。前々から仕こんでいたアレで、なんとか建設費を稼ごう ―― というわけではじめました、鯰絵販売事業!
鯰絵というのは、ナマズをネタにした錦絵のことで、あっちの世界では安政江戸地震が起きた直後に出回った。
ところで、なんでナマズかというと、地震のメカニズムがよくわかっていなかったこのころ、地震はナマズが地下で暴れるからだと広く信じられていたのだ。
本来、錦絵(浮世絵)を出版するときは、検閲・許可が必要なのだが、鯰絵は震災のドサクサにまぎれて無許可で短期に大量に作られ、爆発的に売れたらしい。
突然の地震で家族や財産・仕事を失った江戸っ子たちは、これを護身符がわりに買い求め、また、ナマズがやっつけられるコミカルな絵は、弱ったメンタルを癒す効果もあったようだ。
というわけで、「ちかぢか大地震がくる!」と言いつづけていた俺の実績(?)を盾に、事前に出版許可を取ったうえで、プリクラ・会津暦製作で世話になった版元に何パターンかの鯰絵を作ってもらっていたのだ。
絵柄は、鹿島神宮の祭神・タケミカズチノカミと香取神宮のイワイヌシノカミ、プラス容さんの三人が要石(ナマズの頭とを抑えているといわれる石。鹿島神宮と香取神宮にある)をブン投げてボコボコにしているもの、容さん率いる会津葵の旗を持った武士団が大ナマズの背に乗ってメッタ刺しにしているもの、倒したナマズをぶった切って揚げているもの等々を用意した。
ちなみに、一段落したら、うちのアンテナショップでナマズの天ぷらを売り出す予定だったりする。
そして ――
鯰絵は大当たり!
刷っても刷っても追いつかないほどの大ヒット!
たしかに、うち以外にも鯰絵を出したところはあったが、あっちは無許可。
二ヶ月くらいで、パクられるのを恐れて出版をやめる業者が続出したのに対し、こっちは合法。
ライバルたちが撤退したあとも出版しつづけて、ウハウハの一人勝ち状態。
ついでに、再建中の中屋敷門前で、屋台販売ではじめたナマズの天ぷらもバカ売れで(鯰絵効果)、会津のお百姓さんたちに重税を課さずに建設費用の何割かを蓄えることができた。
でも、ひとの不幸につけこんで金儲けをするのは、いかがなものか。
というわけで、収益金の一部を江戸の各町会所に復興支援金名目で寄付し、天ぷら販売の傍らでは、隣の仙台藩と協力して困窮者へのコメの配布なんかもやってみた。
(仙台藩は屋台で笹かまぼことずんだ餅の実演販売をおこない、かなり儲けていらっしゃるごようす)
しかし、震災関連で予想外の展開も。
この地震では、小石川の水戸藩邸も甚大な被害を受けた。
建物の被害もさることながら、徳川斉昭の懐刀だった側用人・藤田東湖と、家老の戸田忠太夫のふたりが家屋の倒壊に巻きこまれて圧死し、貴重な人財が失われたのだ。
それだけでなく俺の排斥運動に加担した多くの幕臣の屋敷が潰れて、逆に小栗など会津支持派の屋敷は被害が少なかったらしい。
そんなことから、妙なウワサが流れはじめた。
「たしか、肥後守はタケミカズチノカミよりのお告げを受けて、『今冬江戸で大地震が起きる』と言っていたはず」
「さよう。ご託宣を授かったゆえ、『防災訓練をせねば!』とおおせられて」
「ときに、水戸さまは以前より会津侯をキラっておられたな」
「いわれてみれば、大政参与から引きずり降ろしたのは……」
「「「水戸さま!!!」」」
「「「あな恐ろしや」」」
「「「くわばらくわばら」」」と。
また、四月以降数回開催された合同防災訓練では、市民参加型の訓練もおこなわれ、その際、参加賞として栞が配られた。
栞の表には神さまルックの容さんが、裏側には『グラッときたら火の始末』の標語が書かれており、それが功を奏したのか、あっちの世界では市内三十数ヶ所で発生した火災も、こっちでは十ヶ所未満で収まった。
すると、どういうわけだか「あの栞は防火護符だったんだ!」と、まことしやかにささやかれるようになり、いまではプレミアムがついて高値で取引されているそうな。
さらに、あっちでは火災で吉原の遊女千人が焼死したが、その原因は遊郭内で火事が起き、緊急避難路だった可動橋が下りなかったからだという。
吉原のオネーサンといえば、会津のキャラクターグッズの上得意さま。
これは、ひと肌脱がなきゃアカン!
そこで俺は、南町奉行経験者の大目付・筒井政憲を通じて行政指導をしてもらい、すべての橋をチェックさせたところ、やはり橋は錆びついていて、修理・補強したうえで、男衆たちに実際に上げ下ろしの練習もさせて、いざというときちゃんと避難できるよう備えておいた。
おかげで、こっちでも遊郭で火事が起きたが、ほとんど死者を出さず郭外に逃がすことができた。
ところが、筒井のじいちゃんが吉原のオネーサンがたに「肥後守が橋の点検をしろってうるさくてさぁ。まいったよ~」などと、あちこちの妓楼(仮宅)でベラベラしゃべりまくりやがったので(筒井いわく「肥後守ネタを出すと、オネーサンがいっぱいサービスしてくれるんだもん」だそうで)、屋敷に感謝状という名のラブレターが大量に届くようになり、女性陣から冷ややかな目で見られるという理不尽なオマケまでついた。
そんなこんなで、江戸っ子たちの会津人気は急上昇し、反対に水戸一派の評判はガタ落ちとなった。
かくして、安政二年も残すところあと十数日となった師走のある日。
将軍から召喚状が届き、いやいや登城すると……
「こたびの震災における肥後の働き、じつにみごとであった。
上は諸侯から下は民草にいたるまで、事前に地震への備えを説き、結果、被害を最小に抑えることがかなった。
震災直後に示した的確な提言、さらに、私財をなげうち町の復興を助け、また、窮迫するものにはコメを与え、刷り物を介してみなを励まし、その功たるや計り知れず。
かくのごとき逸材は余人をもって代えがたし!
よって、再度大政参与に任ずるものである!」
地震の一週間後、阿部正弘の推挙で、老中首座に就いた堀田備中守正篤が、サダっちの辞令を朗々と代読する。
「「「肥後守さま、おめでとうございます!」」」
「「「公方さまの覚えもめでたく」」」
「「「なによりの褒賞にございまするな!」」」
盛りあがるオッサンたちと、平伏したまま呆然とする俺。
どこが褒美だよ!?
地震見舞い一番乗りがカタバミさんだったのは、史実です。
(酒井さん、ごめんなさい)