99 日露和親条約
[な、なにを言うかっ!]
腰をうかせ、盛大にツバを飛ばすプー。
[わが国は今秋、当地においてイギリス・フランス連合軍の上陸を撃破している! カムチャッカはわが国の領土である! われらがみずからの血を流して死守した土地だ!]
[ふむ、それはペトロパブロフスク包囲戦のことか?]
[そうだ!]
ペトロパブロフスク包囲戦はクリミア戦争がらみで、この八月から九月にかけておこなわれた戦闘のこと。
このとき、イギリス・フランス連合艦隊は、ロシアの極東における最大の軍事拠点・カムチャツカ半島のペトロパブロフスクに上陸を試みたが、ロシアは艦船数・兵力数ともに連合軍より劣勢だったものの、みごと防戦に成功し、英仏はロシア側の五倍の犠牲者を出して撤退した。
(とはいえ、あっちの歴史では、カムチャッカはロシア本国から遠くて補給もままならないから、せっかく守りとおした拠点なのに放棄せざるをえなくなって、春頃にはペトロパブロフスクはガラ空きになるんじゃなかったっけ?)
[だが、もし、この地が日本の領土であると他の列強諸国に訴え、わが同盟国オランダ・アメリカにくわえ、イギリス・フランスにも支援をもとめて戦ったならば、はたして先日と同じ結果になるであろうか?]
積怒で紅潮するプーにむかって、北極海級の冷水をザブリ。
(ま、ホントいうと、いまの日本の軍事力じゃそっちまで手が回んないし、タダでくれるっていわれても困るんだけどね)
[肥後守さま]
ハキハキした声が呼びかける。
見ると、岩瀬が眸をキラキラさせて、参戦の意志表示。
[わが国は海軍力こそ劣るものの、白兵戦にかけては精兵。外国艦隊の輸送協力さえあれば、勘察加奪還も夢ではございませぬ]
[も、もっともじゃ]
[この儀、英仏両国とて、欧州の戦いに有利に働くとなれば、無関心ではありますまい。わが国と決裂いたせば、ロシアは東西二正面の敵と対峙することとなり、『戦力の集中』という兵法の教えに反します]
ところどころあやしい部分はあるものの、ふつうに通じるレベルの英語。
(どうでもいいけど、なんでそんなに英語ベラベラなんだ? いつ、だれに習ったんだよ、あんた?)
と、そこへ、
[カムチャッカ失陥は、太平洋でのロシア艦隊運用にも支障をきたします。そのことにより、わが国が乞わずとも、周辺諸国の旗幟も自然と変わるやもしれません]
滔々と流れる完璧なクィーンズイングリッシュ。
(おいおい、なんでおまえまで出張ってくるんだよ?)
「いけ!」
「大野殿!」
なぜか手をグーににぎりながら声援をおくる小栗・栗本。
(君たち……いつオトモダチになったの?)
[たとえばアメリカですが、いまは中立の立場をとるかの国も、至近のカムチャッカが同盟国のものとなればなにかと都合がよい。すなわち、日本の勝利はアメリカ艦隊の太平洋における制海権獲得にもつながります。ならば、いまやイギリスに次ぐ海運国として急成長をとげるアメリカにとっても、決して悪い話ではないはず。この戦いが自国のためとなれば、いきおい米軍の士気も高まり、戦局はますます有利になりましょう]
その真っ暗な未来図に、身ぶるいする白クマさんたち。
それを見て、「「あっぱれ!」」とハイタッチでよろこぶW栗。
[さらに、カムチャッカに寄港地ができるとあらば、目下、極東航路は西回りのみのアメリカには、海運・軍事両面での利便性向上など、むしろ千載一遇の好機ととらえるは必定]
[ま、まさにそのとおり]
(どうした、大野? らしくねーぞ!)
「いいぞ!」
「よくやった!」
側近の見なれぬ熱血漢ぶりに首をかしげる俺に対し、それとはうらはらに大興奮でハグしあう栗・栗プラス中島・小野。
すると、
「「「岩瀬先生!」」」
「陪臣などに負けるでない!」
「昌平黌の意地を見せよ!」
(こいつら……なんなの、いったい???)
[また、ロシア側の主張には大きな誤りがござる]
応援団のエールを背に、岩瀬がふたたび口撃開始。
[間宮海峡の対岸は、本来は清国領のはず。囚人らの強制移住などにより、自国民の居住実積をタテに、実効支配の既成事実を積みあげるはロシアの常套手段。そして、樺太においても同様のテを使おうとたくらんでいるようですが……]
「織部正」
「なんだ、修理?」
箱館奉行の堀が岩瀬に向きなおる。
(あれ、あんたたち、親類かなんか? そういえば、ちょっと面ざしも似てる?)
「樺太の露人はどうなった?」
「昨年久春古丹に上陸した露人はすでに退去しており、現在、周辺に露国民が居住しているという事実はない」
[お聞きのとおりロシア人は、亜庭湾周辺より退去しているにもかかわらず、その事実を隠しているのです。樺太領有権は歴史的にも、実態からいっても当然わが国に帰するはあきらか。
なれど、ロシアは、樺太全土が自国のものと言ってはばかりません。
かような暴論のみを主張する輩と、これ以上話し合うのは無意味にございましょう]
【※ 亜庭湾は樺太南端、宗谷海峡に面した湾】
「さすが!」
「天下の昌平黌教授!」
「「「義経さま~ ♡」」」
逆サイドも大盛りあがり。
あのぉ……なんで張りあってんのかな~、君たちは~?
まるで箱根駅伝十区の、
『熾烈なシード権争い!』
『フィニッシュテープを切るまでわからない一秒をかけたデッドヒート!』
―― みたいになっちゃって。
それに、このチーム分けはどういう基準なの?
大野チーム ―― 小栗・栗本・中島・小野
岩瀬チーム ―― 堀・古賀・田辺・木村・池田・谷田堀
筒井・永井・水野・荒尾・川路……中立?
呆然とする俺の傍らで、両チームはますますエキサイト。
「大学頭一族の底力、見せてくりょう!」
堀が吠える。
「栗本、そなたは昌平黌出身ではないか!」
「裏切り者っ!」
大野サイドの栗本に、岩瀬組から非難の集中砲火が。
(あぁ……昌平黌VS.非昌平黌? てか、大野、おまえ昌平黌になんかコンプレックスでも持ってるのか?)
「それがしは、昌平黌以前に『見山楼』出身じゃ!」
栗本がムキになって言い返す。
「そうだ、そうだ、われらはともに安積艮斎先生門下だ!」
又一が栗本の肩をもつ。
「昌平黌、なにするものぞっ!」
(……ん? 『安積』ってだれよ?)と、思った瞬間、
ゲジゲジ眉の枯れたジジイの姿がクリアビジョン映像で脳内に出現。
その下には、『安積艮斎先生』のテロップが。
と同時に、突如、心臓バクバク・鳥肌ボツボツ・涙腺ウルウル状態におちいる容さん。
(く、苦しい……キモイ……コワイ……)
身体が、なんかヘンっ!
ぇ、なに、これ、どーゆーこと?
もしや、容さんに刻みつけられたトラウマかなんか?
記憶だけでこの怯えよう……。
でも、パッと見は、おだやかそうなジイサンだったけど。
ってことは、中身が相当ヤバいジジイなのか?
脳裏にうかんだジジイについて、深々と考えていたとき。
(あっ!)
ちょ、ちょ、ちょちょちょ、まてまてまてまてーっ!
いまはそれどころじゃなかった!
重大なことを忘れてた!
このまま大野と岩瀬がイイ感じで際立っちゃったら、俺のプランが台なしだーっ!
この練りに練った対露交渉計画 ―― すなわち作戦名『ミラクル・ヤン作戦』が!
『ミラクル・ヤン作戦』とは、第三国の領事官ヤン・H・ドンケル=クルチウスを日本側協力者として交渉現場に立ち会わせ、交渉が難航したら公平に仲裁するフリして、日本に有利な条約をプーに承諾させるという、あっちの世界では考えられないミラクル作戦。
この作戦、なにが最大のネックだったかというと、シブるヤンおじさんをここに引っぱり出してくるまでの折衝。
交渉当日の今日より、実際は、事前のジミ~な根回しのほうがしんどかったんだ!
日露会談は、オランダをこの場に同席させた時点で八割、いや九割方決まったも同然。
この裏工作が、交渉のキモなのに!
俺が一番の功労者なんだ!
しかも、今回のシナリオだって、すべて俺が考えて、準備もほとんどひとりでやったんだぞ?
それが、大野と岩瀬が妙な対抗意識燃やして、勝手にしゃしゃるもんだから、俺は全然目だてない!
むしろ、こいつらにだけ煌々とスポットライト当たってるし。
ここは、準備段階でひそかにがんばったこのボクが、やっと表舞台に踊り出て、称賛のまなざしを浴びながらプーたちをバリバリに論破して、かっこよく決めるとこだろ!?
そして、日本にとって百点満点の条件ゲットして、最後に「俺TUEEEEーーーっっっ!!!」をやるつもりだったんだ!
連載開始一年にして、ようやくこのあこがれのセリフが言えると……それだけを励みに……なのに……なのに……ひどいぃ~!
なんで大野と岩瀬が一番オイシイとこをもっていくんだよ。
それに、あんたらの論拠なんて、みんな俺が教えてやったネタばっかじゃねぇか。
ここは俺の見せ場なんだよ!
空気読めよ、KY野郎どもが!
本当は、松平容保がMVPなのに……大奥解体につづき、またやられたのか!?
なんで、なんでいつもこうなんだ?
あ゛あ゛あ゛ーーーっ、もうイヤーーーっ!!!
【後世、この『日露和親条約』の評価は、俺がおそれていたとおりの結果になった。
つまり、この交渉の日本側敏腕外交官として名が残ったのは、『海防掛目付・岩瀬忠震』と『英語通詞・大野冬馬』のふたりだけ。
容さんの名は『幕府全権・松平容保』として、ごくまれに出てくる程度で、ガン無視と言っていいほど軽くあつかわれ……】




