私を買ってください
今日も今日はで、うんざりするほど蒸し暑い。
五人も作業すればいっぱいの工場の中で、甲高く立ち上る電動ドリルの音。ドリル刃を垂直に押し込み、貫いたら逆回転に切り替えて引き抜く。図面をもとに先にけがいておくから、作業となると機械的に、飽きて意識が飛ばないことを願いつつ、ひとつ、またひとつと押し込んでゆく。
いつからかうんざりするほどの汗が額から流れ、いわゆるドカチンスタイルのはちまき状のタオルは、今にもほどけてしたたり落ちそうだ…。
言葉にしてみるとちょっと『お仕事』しているみたいに聞こえるが、いわゆる俺のしている労働ってヤツは、大きな企業さんたちがコストダウンの名のもとに「つくる」ことは極力外に出して(アウトソーシング)、金勘定の人間以外はリストラする、利潤追求のおかげでおこぼれをいただいているワケで。
ついでに言えば、図面引きの俺が、なんだかんだで離婚して、社訓である
「家庭の平和は社会の平和!家庭なくして平和なし!」
と、一月に一回唱和させられるスローガンにそぐわない人間として、そこはかとなく左遷をくらってるワケである。(もちろん社長の不倫癖も専務に二号さんがいようと)
淡々と作業していくと、集中は途切れ、思考は彼方遠くへと…。
心もとない意識をたぐりよせ、心にあるバネみたいなものをギュっと押さえ込む。これを押さえられなくなったとき、俺はどこかへ飛んでいくのだろうか…?
昼休み、社員たちはめいめいに食事をとり、御多分に漏れず味気ない仕出し弁当を口にはこんでゆく。一人の食事は思いのほか早く済み、ポケットのケータイに手を伸ばす。
「おい、まだピコピコすてんのか、ストレスたまってんの?じゃ飲み行っか?」
所長はなぜか、いつも俺のことを気にかけてくれる。
「ういっす、お願いします」
忙しそうに営業に向かう所長に一礼して、唯一のコミュニケーション、この電話コンピューターと対話する。
ニュースやメール、通販などを一通りチェックし、最近見つけたサイトにつなぐ。
『私を買ってください』
いつ見ても頭が鈍く痛むのは、煩悩なのか、俺が会うことも喋ることもままならない娘の父だからだろうか?
そのサイトはつまるところ、ブルセラやら売春やらが売春だのがネットの闇に身を潜めただけで、下着から一晩のお相手、特にケータイ的なのは自分の裸を不特定多数の人物に売って、おこずかいにしているところだろうか。たかがケータイ、しかし小さなよりパーソナルなコンピューターとして、世界を加速度的に変化させる恐ろしいツールでもある。
ひとつひとつページをめくっていくと、部屋の様子や容姿、衣服など、それぞれの家庭、それぞれの生活、それぞれの文脈がただただ胸を打つ。
よこしまな気持ちは勿論十分にあるのだが、その小骨のようなものに後ろ髪を引かれる自分がいる。
『私を買って下さい…子細応談』
画面のたくさんの情報に流されながら、ピントを合わせると、俺の高校の女子の制服であることに違和感。こんな俺だが、まじめにやれば赤門の学校に数人行けるところだ、ここに出てくるような境遇じゃないだろ?
書き込み自体にも具体的な内容や条件もなく、顔も伏せてあるし、ただもどかしさに発現したものかと憶測した。気がかり、かといって訴えたい事もなく、
「何か、買います。東高OBより」
我に返ると、あるようなないような事を書いて、メールを送信していた。
本日も単純ながらノルマに追われて、作業を黙々とこなす。昨日は迂闊だったと悔恨に胸が疼いたが、程なく忘却した。いつもどおり昼休みはケータイと会話、夜は所長の好意に甘えて飲んだ…。
所長は最近、どこの馬の骨の俺に後添えを紹介してやると張り切っている。
「この会社は良くも悪くも前時代的で、家族を大切にってことが体裁なわけだナ、それが信用と思い込んどる。君みたいな、真面目なだけの男が俺はいいとおもっとるヨ」
「君さえ良けれはナ、ウチの出戻りの与太娘をだナ…わすが長男だから、なんとかしてやらにゃーいかんワケ。ん?聞いとるのかね!…」
所長はひとしきり言いたい事だけ言って、突っ伏してイビキを掻き出した。
幸い俺はいつもの事と一滴も飲んでいない。所長の奥さんに送っていくと伝え、ケータイを見ると、メールの通知を伝えるアイコンが点滅していた…。
明らかにおっさんの俺が若者的ファッションビルの前で立っていることが、自分ながらいかがわしい…。メールにはただ、
『明日12時、駅前のラブレ入り口で、目印を返信お願いします。東高女子より』
美人局かなんかと軽く邪推してみるが、体裁ばかりで息苦しいこの地方都市には、そういう輩の居場所はなかなかない。返信した目印を持ってただ待つ。
ほどなく、見覚えのある制服姿の[女子]が小走りに駆け寄ってきて、にかっ!と笑うと敬礼のポーズ。
「学生番号2805番、水野さやかでぃす!」
「おれは学生番号300番くらい、土橋稲穂、」
近くの、家族とはよく行っていた店のテラスに座り、定番メニューの、きのこのつぼ焼きをパイ生地とソースをバランスよくほおばる、水野さやか。こちらの昨今の食生活は昼は仕出し、夜はコンビニの弁当攻めで、旨いものに口と胃がびっくりして思わず、えづく…。
ジャムのたっぷり入ったロシア紅茶の紅茶とジャムの層をからんからん、とかき混ぜて、口へとはこび、深呼吸。ようやく女子はひと心地ついたようだ。
「恥ずかしながら、単刀直入に言うと、ブランドものの財布、です。ガッコーは外見だけ厳しいから、カバンの中を贅沢にするのが女子のあいだで流行ってる。ほどほどにリッチな娘ばっかりで、ピンチーって感じ、イジメ防止のために、お願い!です」
上目遣いに笑顔で様子をうかがっている。
「ああ、全然オッケー。」
仕出し、コンビニ弁当くらいしか買わない自分には、いかに有意義な使い道だろうか!
とひとりごちて、
「それでなぜ俺でもいいわけ?」
少しためらった後、大真面目な顔でこちらをみつめ、
「オジサン…目が死んでるから、です…」
あれから一週間、このあいだのことは、いったい何だったのか…
ある日、家族とともに部屋に住んでいた[物]たちも一瞬で姿を消し、小さなラジオだけがぽつんと置かれた部屋で、いつもの休日の午後、いつもどおりビールの缶を積んでぼんやり。
「こんにちはー」
呼鈴も鳴らさず、女子、水野さやかは小走りに居間の中央に陣取り、大きな包みを立てかけた。
「おじさん、こんなに何もないリビングはよくない、です。梵天市場の特価品、リビングテーブル、6800円也を設置して、環境改善、です!」
「おじさんも私も、いまは凹んでるけど、いつかは立ち上がる日が来る、です。この前のお財布も、時給800円で返済することにしたです」
「いや…あれは」
「シャーラップです。ダメ母のおかげで掃除だけは得意、です!」
女子、水野さやかはせっせと掃除に来ては部屋を居心地のいい空間に変えていった。あるときは積んだままの俺の本棚を片付けながら、
「ふむふむ、おじさんもブンガクしている少年時代だった、です?偉い偉い!うん、やっぱ太宰、鴎外、漱石、です!学校で[走れメロス]とかやるから誤解されちゃうですけど、他の作品読むと、やられたっ!って思うです。ほんとは繊細で瑞々しい作品も多いから」またあるときは普通にお茶を飲んだり、自炊は苦手と宣言して、少しだけヘルシー風の弁当を食べたり…
そんな日々を経てぽつりぽつりと身の上話をして帰る。自分は母の連れ子で義父は粗暴で馴染めず居心地が悪い。あまつの果てには義父は自分に興味を持ち風呂を除いてくる始末で、身の危険さえ感じているという。
あっけらかんと笑顔でいるが、抱えきれぬその重しに、潰される日はそう遠くはないだろう。
「そりゃ半端ない事態だ。こー、親戚のウチとかに預かってもらうとか?」
「だめー。二人とも親類には縁切りされてる。チンピラ男に好色女、犬も喰わない…です」
「じゃあ、実の親父さんしかないな」
「仕事の虫の父は、お金目当ての母にさえ見限られて他の男と駆け落ち。製薬会社の社員だったとかなんとか…です」
県名と業種、苗字だけで父親さがし。オークションで買ったその土地のタウンページを上からなぞった。ブランド財布の時給はとうに払い終えたあと、ようやくあたりをつけることが出来た。
「もう時給はいいんだから、勉強でも風呂でも?」
「世間では当たり前の[サービス残業]ですから。あー、おじさん悪徳企業だね?あははは」
事態は切迫していたが、さすがに自分の部屋に住まわすわけにもいかず、家にも返し、だましだましやってきたが、[その日]は、やはりやってきた。
「おじさん、たすけて!」
Yシャツの肩口が引き裂かれ、裸足のまま玄関に立っている…
「はやく鍵かけて!なんでもいいから着替えて、行こう!」
「行く?」
「お父さんかも知れない人、さっき電話があった。住所と電話番号だけは聞いておいたから」
会話も終わらないうちに小刻みに、激しく、ドアを叩きつける音!
「さやか!お父さんが悪かった!お母さんが泣いてるぞ。さあ、帰ろう」
どうやら父親らしいが、もちろん空ける気など毛頭ない。
拳を打ち付ける音は、次第に不規則に、荒っぽくなっていく。
「お母さん、うらめしそうな顔して泣いてたでしょ!アンタみたいな下衆ジジイと一緒になんかいられるか!」親子がやりあう間に、二階のこの部屋からありったけの布団を階下に投げ、さやかに耳打ちする。
「布団に向かって飛び降りたら、車まで走れ!」
震えながらうなずくと、陸上選手よろしく美しい放物線を描いて飛び降り、駆け出す。俺も家族のセカンドカーだった軽に飛び乗り、急いで車道に向かう。
「みなさん!誘拐、誘拐です!け、警察、警察呼んでください!」
怒鳴り散らす義父の声がだんだん遠ざかる…
「あーあ。どうして親って選べないんだろう?あれで人の父、です?」
「凹むな凹むな、幸い、未遂で、父親のあてもついた。幸運に感謝するよ。おじさんは!」
カーナビ代わりにコンビニで地図を買って数時間。なんとか父親の家の前だ。
迷惑承知で電話をかけ、父親を待つ。
「おじさん、あのね、あのジジイに犯されちゃうくらいなら、誰だっていいやって、ケータイに投稿した、です。変なメールばっかだったけど、おじさんのこころぼそいメールに安心したんだ。なんか、おじさん風に言うと、世の中捨てたモンじゃないってホントに思った、です」
水野さやかは、突然俺にくちづけをして、車外に飛び出した。
「ヒゲは、チューするとき、ちくちく、するね。ひとつベンキョーした。あははは…」
線の細い、紳士風の男が心配そうな様子でその家から出てくる。
「はじめまして、えーと、お嬢さんの知り合いの土橋です。深夜にすみません」
「縁遠です。この度はお手数かけまして。さやかは責任持ってこちらで」
「お父さん、ご無沙汰してます。ってあんまりわからなくてごめんなさい。って、他人行儀もないよね!いま、おじさんに感謝のチューをしてしまった、です!」
おじさん二人は目を白黒させてうろたえる。
「今日から家族なんだから、なんでもぶつけてみなくちゃ。ね?お父さん」
娘は父の腕を組んで新しい我が家へうながす。
「おじさん、アリガト…」
小走りに父の手を引いて玄関へと向かう二人。
俺も運転席に腰掛け、やっと一区切りと、少し嬉しくもあり、かなり寂しくも思った。
(俺が女という生き物と張り合える日は、永遠に来ないな…)
ひとつだけの結論を得て、俺は帰途についた。
(完)