序章
暗く……限りない闇が広がっている。
その中で幾億もの星々が産まれ、そして死んで行く。
それは宇宙的な見方をすれば、ほんの一瞬の煌きに過ぎない。
しかし、それでも一際強く、青く輝く星があった。
遥か昔、その星の海は赤かったと云う……。
「32番ジェネレーターが過負荷になっています」
『5番から10番の余剰分を回して、22ブロックを迂回させろ』
「修理の為、作業効率が14%ダウンします」
『許容範囲内だ。 次の工程で誤差を修正する』
「了解です」
真っ白なフロアの中心で全身にコードを繋がれた 『彼』 は、機械の台座の上で座ったまま、矢継ぎ早に出される報告を的確に処理して行く。
時にはスタッフが見落としている物までを、指摘もせずに淡々と処理してしまう。
だが……。
『……10分間のインターバルに入る……後を頼む』
プシュっと音がして、 『彼』 に繋がれていたコードが全て外れた。
長時間の緊張が精神を痛めつけているのだろう、ヨロヨロとした足取りで台座を降りると、 『彼』 は透明なガラスで仕切られた部屋を出て行った。
「くそ面白くもねえ……いちいち頭に来るぜ!」
『彼』 の姿が完全に見えなくなるのを確認して、白衣姿の痩せた若い男が言った。
その険のある表情は、決して 『彼』 に好意的では無い事を物語っている。
「仕方が無いだろう? 俺達より 『彼』 の方が優れているんだ」
そう言った男は、先に文句を言った男とは対照的に、人の良さそうなズングリした中年の男だ。
鼻に乗せた眼鏡がズリ落ちるのを、チョコチョコと太い指で直している。
頭の方もかなり薄くなっていて、けれど、その愛嬌のある顔立ちとマッチしていて柔和な印象を与える。
「優れているだと? ハッ! 笑わせるな! まだ生まれて2年しか経ってない奴の、何処が俺達より優れてるってんだ、ああ?」
「俺に当たるなよ。 じゃあ訊くが、お前は400℃の熱に耐えられるか? −50℃の世界で冷静に作業を進められるか?」
「そんな物、スーツを着れば誰だって……!」
「全長32kmのステーションを、自分の脳とコンピューターをリンクして管理できるか? しかも24時間、殆ど休みらしい休みも無くだ」
「……」
「それに、膨大なデータベースの記録の殆どが、あの脳には収まってるって話だ。 まあ、記憶容量については互角だろうが、それを活用する……」
「もういいっ!」
苛立ちを隠そうともせず、痩せた男は椅子を蹴飛ばす様にして席を立った。
そのまま大股でコーヒーの置いてあるテーブルまで行くと、自分のカップに注ぎ、一口飲んで顔を顰めた。
「不味いコーヒーだな! 誰かまともなコーヒーを淹れられる奴はいないのかっ!」
ズングリした男はその光景を見て、やれやれと言った風に肩を窄めた。
『彼』 は分厚い扉に護られた部屋の中にいた。
ここは中央管理局のコンピューターにアクセス出来る、このベースで唯一の場所である。
当然、そこには何十ものセキュリティシステムがあるのだが、自由な出入りを認められている 『彼』 にとって、それは何も無いのと同じだ。
【データベースにアクセスします。 パスコードを入力して下さい】
「α2899-1145-ΣZZORQ88-01。 『F』 だ」
キュウゥゥ……と微かな機械音がして細いアームが伸び、 『彼』 の口中から細胞の欠片を採取する。
それと同時に各種センサーとカメラが、 『彼』 を360度方向から確認し始めた。
声紋、網膜パターン、対象物の身体的特徴など、ありとあらゆるデータをコンピューターが取り込んで解析しているのだ。
「いい加減、僕を覚えてくれないかな?」
【記録されているデータとの照合は必須事項です。 シークエンスの省略は許可されておりません】
「やれやれ……自由に出入りさせておいて、結局これじゃあ意味が無いじゃないか。 時間の無駄だと思うけどね」
【対象を 『F』 と確認、アクセスを許可します。 シークエンス2に移行します。 セキュリティは第45条に準拠しています】
「モニターへ転送……制限をかけて」
【了解しました。 『F』 の視界前方にのみ、転送を開始します】
『F』 とは、 『彼』 の識別コードだ。
『彼』 には名前が無い……だから 『F』 と呼ばれる。
それにどんな意味があるのか 『彼』 は知らない。
ややあって、 『彼』 の目の前に青い海が広がった。
正確には 『彼』 が目に着けているモニターに、だ。
景色は次々に変わり、高い山や深い森、静かな湖などが映し出される。
どれもこれも、今では目にする事の無い景色ばかりだ。
「僕には、このステーションの中が世界の全て……けれど、外にはこんな世界がある……いや、あったんだな」
【現在、ごく限られた地域にのみ存在が確認されています。 しかしながら、そこに入る為には政府の許可が必要であり、また、その資格を得る為には】
「解っているさ、そんな事くらい……説明は不要だ。 でも、ただデータを閲覧するだけの事なのに、こんなに厳重にする必要があるのかな?」
【選ばれた者のみがその権利を有しています。 無用な興味は身の破滅を意味します】
「選ばれた者……か」
彼が少し寂しそうな声で言うのと同時に、 『ピピ』 と10分が経過した事を知らせる無機質な音がした。
「もう戻らないとな。 加速剤と安定剤を……」
彼の声に反応し、首の部分に剥き出しになっているソケットに壁から伸びたチューブが接続され、液体が注入される。
脳とコンピューターをリンクさせたとしても通常の反応速度では扱い切れない為、こうして強制的に反応速度を引き上げるのだ。
だが、それも 『彼』 にだから出来るのであって、常人には不可能な事である。
「5時間後にまた来る」
【お待ちしております】
「その時までには僕を覚えておいてくれよ?」
【あなたのデータは既に全て記録されています】
「じゃあ、面倒な手続きは省いてくれ」
【シークエンスの省略は許可されておりません】
「石頭め……」
ブン……と微かな音がしてモニターが消えた。
そしてそれと同時に、けたたましいアラームの音がステーション内に響き渡った。
それは緊急事態を告げる音…… 『彼』 が生まれて初めて聞いた音だった。
「何だ……何が起こっている?」
微細な振動が足の裏から伝わって来る。
「……爆発!?」
『彼』 は全速力で元いた部屋へと駆け戻った。
そこでは数人の作業員が事態の収拾を図るべく必死の作業を続けていたが、既にその手に負えない物になっている事は誰の目にも明らかであった。
「まだ退避していないのか! 既に爆発が始まっているんだぞ! 至急シェルターへ避難するんだ!」
「うるせえっ! 俺達に指図するんじゃねえっ!」
痩せた若い男は 『彼』 に指示されると、その不機嫌さを隠そうともせずに怒鳴った。
「よさないかっ! 非常事態なんだぞ!」
「だからどうした!」
人の良さそうなズングリした中年の男は先程と同様に痩せた男を窘めるのだが、痩せた男は聞く耳を持たない。
「俺はな、こんな奴にいちいち指示されるのは、もうウンザリなんだよっ!」
「そんな事を言っている場合か! 早くしないと逃げ切れなくなるぞ!」
熱核反応炉の暴走……それは、ほんの些細なミスだった。
作業員の一人が手順を一つ間違えた……たったそれだけの事で、事態は深刻な方向へだけ確実に動いた。
いくら完全管理されているとは言っても、それはあくまでも 『彼』 がいればという前提でである。
「く……さっさと何とかしやがれ! お前は俺達より優れてるんだろうがっ!」
「事態がここまでになってしまっては、もう僕にはどうする事も出来ない。 今は君達と逃げる事しか……」
「一緒に逃げるだあ……? 馬鹿を言え、お前はここに残るんだよ!」
痩せた男は唇の端を歪めて笑った。
その右手は白衣のポケットへと動いている。
「何を言ってるんだ! いくら何でもそれは……!?」
「シェルターに入る数は少ない程いい……そうだろ!」
痩せた男は 『彼』 …… 『F』 に狙いを定めて銃を構えた。
「よせ! 『F』 が死んだらラボの連中に何と説明するんだ! ただじゃ済まんぞ!」
「代わりなら幾らでも造れるだろ、たかが犬の一匹! 大体、俺は最初から気に食わなかったんだ……頭に来てたんだよ! 何で苦労して大学を出たってのに、犬の下で働かなきゃならないのかってなあっ! 実験体だ、希少種だったって、たかが犬だろうがっ!」
「気持ちは解る! だが 『F』 はまだ子供だぞっ! 止めるんだ!」
「死ね……死んじまえ、化け物があっ!」
引き金が引かれ、辺りに銃声が響いた。
そして15分後、半径120kmに渡るクレーターが出来た……。
「『F』 の遺体は……確認出来る筈も無いか」
ステーションが跡形も無く吹き飛んだ後、調査隊が派遣され、付近の調査が始まった。
だが、その調査隊の中には明らかに違う一団が混じっている。
放射能を完全に遮断するスーツ。
ごく当たり前に手に入る物だが、それを着る人間は限られている。
人類全体の個体数が減っている現状においても、やはり 『優先される種類の人間』 というのが存在するのだ。
「原子の単位で分解、消滅……というところでしょうか?」
「どうかな……その気になれば 『F』 だけで逃げ延びる事も可能だろうが……。 とりあえず調査は続けろ、大統領のお小言を聞きたくなければな」
「解りました」
忌々しそうにクレーターを見ながら、指示を出した男は歩き出した。
「見つからなければそれまで……か。 次の物も視野に入れておかなければならんか」
激減した人口は、既に人類の存続が危ぶまれる程になり、遺伝子操作やクローニングが日常化していたものの、劣悪な環境下での作業に耐え得る程には人類は強くなれなかった。
そこで人類は、ありうべからざる禁忌を犯した。
人類と他生物の遺伝子レベルでの融合によって、人類全体の耐性の強化を図ったのだ。
しかし出来上がった 『モノ』 は、どれも奇形か異常が見つかり、次々と廃棄されて行った……。
最終的に実用化に耐え得る成功を収めたのは、犬に対して行った物のみであった。
強化は身体能力に留まらず、知力に対しても行われた。
高等数学から量子力学に至るまで、ありとあらゆる数学的知識はもとより、各国の言語、世界の細部までをも網羅した地形図、そして今現在に至るまでの歴史を、ある一部分を除いて植え付けた。
そして……いつしか人類の友としての犬はいなくなった。
唯一 『F』 と呼ばれる存在を遺して……。




