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「君との婚約を破棄する」──ええ、どうぞ。私は蜂蜜色の夕暮れに帰りますので、聖女の力ごとお返しいたしますわ

作者: uta
掲載日:2026/09/25

「君との婚約を破棄する」


夕暮れの大広間に、王太子ジェラルドの声が響いた。


黄金のシャンデリアが煌めき、居並ぶ貴族たちの視線が、一斉に私へと集まる。


「君は聖女セラフィナの祝福を妬み、彼女を害そうとした。公爵令嬢にあるまじき、卑劣な行いだ」


身に覚えのない冤罪。


でも、私は少しも驚かなかった。


(あら、ちょうどいいわ。これで堂々と蜂のところへ帰れる)


そう、心の底からそう思ったのだ。


私はアメリア・ハーニヴェル。公爵令嬢――という肩書きよりも、養蜂園の主人と呼ばれるほうが、よほどしっくりくる女。


前世は日本の、片田舎の養蜂農家の娘だった。その記憶を持ったまま、この花と光の王国リュシオールに転生した。


だからだろうか。私はずっと知っていた。


この息苦しい社交界が、私の居場所ではないことを。


「何か申し開きはあるか、アメリア」


ジェラルドの隣で、男爵令嬢セラフィナが目に涙を浮かべて震えている。


「あぁ、殿下……わたくし、こわくて……アメリア様が、そんなにわたくしを憎んでいたなんて……」


いかにも「傷つけられた可憐な聖女」といった風情で。


(お上手ね。でも、その涙、乾くのが早そう)


私はスカートの裾を摘み、静かに一礼した。


「――ええ、どうぞ」


「……なに?」


ジェラルドの整った顔が、間の抜けた表情に変わる。


弁明を、罵倒を、あるいは泣きすがるのを期待していたのだろう。


生憎だけれど、そのどれも差し上げるつもりはない。


「婚約破棄、謹んでお受けいたしますわ。公爵位の継承権も、王都の花畑も、すべてお返しいたします」


「ま、待て。それは……そういう意味では……」


「あら、破棄を宣言なさったのは殿下ですわ。それとも、泣いてすがるとでも思っておられました?」


「……っ」


私は顔を上げ、微笑んだ。


我慢の限界の、悲鳴のような笑みではない。


長い長い旅の果てに、ようやく帰り道を見つけた者の、解放の微笑みだった。


「では、私は養蜂園に帰りますわ。あの子たちが、日暮れに帰る主人を待っておりますので」


セラフィナが、勝ち誇ったように鼻を鳴らす。


「……養蜂園? ふふ、やはり無粋な方。殿下にはわたくしがおりますもの」


私は振り返り、彼女に向けて、ほんの少しだけ笑ってやった。


「ええ、どうぞお幸せに。……その祝福とやらが、いつまでもつのかは存じませんけれど」


窓の外では、空が蜂蜜色に染まり始めていた。


ああ、帰ろう。私の、本当の居場所へ。


背後で誰かが息を呑む気配がしたけれど、私はもう振り返らなかった。


◆


大広間を出た廊下で、栗色の髪をきっちり結い上げた侍女が待っていた。


ミレイユ。幼い頃から私に仕えてくれている、忠義一徹の人だ。


「お嬢様」


「ミレイユ。聞いていた?」


「一言も漏らさず。……あの愚かな王太子殿下のお言葉も」


彼女の声は氷のように冷たかった。私のために怒ってくれているのだ。


「ミレイユ、私は公爵家を出るわ。辺境の、廃れた養蜂園へ行くの」


「存じております」


「まだ何も言っていないのだけれど」


ミレイユは表情ひとつ変えず、旅支度らしき鞄をすでに手にしていた。


「お嬢様がいつかそうおっしゃると、ずっと前から思っておりました。荷造りはとうに済ませてございます」


「……あなたも来てくれるの?」


「お嬢様の帰る場所が、私の帰る場所でございます」


淡々と、しかし揺るぎない声で彼女は言った。


私はふっと肩の力が抜けて、笑ってしまう。


「ふふ、心強いわ。……忙しくなるわよ、ミレイユ」


「かしこまりました。存分にこき使ってくださいませ」


◆


馬車に揺られて三日。


王国の辺境、かつて『蜂蜜の里』と呼ばれたという廃村に、私たちは辿り着いた。


枯れかけた花畑、朽ちた巣箱、雑草に埋もれた小屋。


普通の令嬢なら悲鳴を上げるだろう光景。


でも私の目には、宝の山に見えた。


(土がいい。日当たりも、風の通りも申し分ない。ここなら、蜂たちも喜ぶわ)


前世の記憶が、指先の感覚が、疼くように蘇る。


「お嬢様……失礼ながら、この光景を見て『宝の山』とおっしゃったのは、後にも先にもお嬢様だけかと」


「あら、宝の山じゃない。朽ちた巣箱も、枯れた花畑も、全部生き返らせてみせるわ」


巣箱を組み直し、蜜源となる花を輪作で植え、燻煙で蜂を鎮めながら採蜜する。


剣でも魔法でもない。前世で祖父母から受け継いだ、地味だけれど確かな知恵。


ひと月後。


枯れていた花畑は色を取り戻し、澄んだ羽音が絶えず響くようになった。


黄金色の蜜が、木漏れ日の下できらきらと光る。


それを口に含んだミレイユが、珍しく目を見開いた。


「……お嬢様、これは。この蜜、口に含んだ途端、指先の疲れが引いてゆきます」


「働きたくないわけじゃないの」


私は麦わら帽子の下で笑った。


「私は、私が愛せる仕事だけをして生きたいのです。ただ、それだけ」


夕暮れが、養蜂園を蜂蜜色に染めていく。


これこそが、前世でも今世でも、私がずっと探していた景色だった。


◆


その日、空から竜が降りてきた。


巨大な竜翼が夕陽を遮り、廃村に影を落とす。


村の老婆――老エルナが腰を抜かして震えた。


「竜人族……! それも、あの『冷酷無比の竜人将軍』様だよ……!」


銀灰色の髪。縦に裂けた金色の瞳。背には格納された竜翼。


見上げるほどの長身の男が、無表情のまま私の前に立った。


戦場で一騎当千と恐れられる、竜人辺境伯ロキス・ドラーグヴェント。


(うわぁ、迫力がすごい。……で、何のご用かしら)


私が身構えるより早く、彼は――片膝をついた。


「……その蜜を、分けてほしい」


「……は?」


震える声だった。


鋼のような将軍の目から、ぽろぽろと、大粒の涙がこぼれ落ちていく。


「一口、噂の蜜を口にした。あれ以来……忘れられない。あの味がないと、俺はもう……生きられない」


真顔だった。恐ろしいほど真剣な、絶望の真顔。


私は目を瞬いた。それからミレイユと顔を見合わせた。


「……お嬢様。これは」


「ええ。たぶん、思っているのと違う生き物だわ」


冷酷無比の竜人将軍は、どうやら――ただの、甘い物に目がないポンコツだった。


「あの、ロキス様。蜜は逃げませんので、まずは落ち着いて。ほら、どうぞ」


私が瓶を差し出すと、彼は震える手でそれを受け取り、恭しく――本当に恭しく蜜を舐めた。


次の瞬間、また号泣した。


「……うまい。あたたかい味がする」


「そ、そうですか」


「……昔、母竜が。俺に、こういう味の……」


言いかけて、彼は口を噤んだ。


「……ロキス様?」


「……なんでもない」


その横顔に、ほんの一瞬、強者ゆえの孤独が滲んだ気がした。


以来、竜人将軍ロキスは、多忙な辺境伯の身でありながら足繁く養蜂園に通うようになった。


蜜が切れると露骨に元気をなくし、私が採蜜していると尻尾のない大型犬のようにそわそわする。


「辺境伯様」


ミレイユが冷ややかに書類を突きつける。


「蜜は逃げませんので、まずはこちらの交易書類にご署名を」


「……む」


「早く」


「……わかった」


(甘いものに涙する、不器用で孤独な竜。……悪くない隣人だわ)


呆れながらも、私はいつしか彼に心を許していた。


◆


「あんたは……この土地が待っていた主人だよ」


老エルナが、蘇った花畑を眺めて涙をこぼした。


腰の曲がった老婆は、この地が『蜂蜜の里』と呼ばれ栄えていた頃を知る、最後の生き証人だという。


「昔はねえ、ここいら一面が蜂蜜色に輝いておったのさ。だが土地が枯れ、蜂が去り、人も去った。誰も戻ってこなんだ。あんたが来るまではね」


私はエルナの隣に腰を下ろした。


「エルナさん。竜人族と、この里の間に、何かあったの?」


エルナは遠い目をした。


「昔々、竜人の母竜がこの里の蜜を愛してねえ。里の者と竜人は、蜜を通じて友であったのさ。だが里が枯れて、その縁も途絶えた。……あの将軍様が蜜に涙するのはね、たぶん、母竜の記憶なんだよ」


私は胸の奥が、しんと温かくなるのを感じた。


ロキスがあの日、言いかけた言葉。


『昔、母竜が。俺に、こういう味の……』


「……そういうことだったのね。あの人が言いかけた言葉の意味が、やっとわかったわ」


「エルナさん。私、この里をもう一度、蜂蜜色に染めるわ。人も、蜂も、竜も、みんなが帰ってこられる場所に」


「……ふぉっふぉ。頼もしいこと」


◆


その頃、王都では――


異変が起きていた。


王国を守る結界が、じわじわと弱まり始めていたのだ。


聖なる光を放っていた結界樹の葉が、一枚、また一枚と枯れ落ちていく。


王太子ジェラルドの魔力もまた、原因不明の枯渇に見舞われていた。


「なぜだ……なぜ私の魔力が……!」


玉座の間で膝をつくジェラルド。


その傍らで、自称・光の聖女セラフィナが必死に祈りを捧げる。


だが――何も起きなかった。


光は、灯らなかった。


「セラフィナ! 君の祝福はどうした! 結界を、結界を張り直せ!」


「そ、そんな……わたくしの祈りが、届かないなんて……」


「祈れ! 光を灯せ! 君は聖女なのだろう!?」


「む、無理ですわ……! だって、わたくし、本当は……」


「……本当は、なんだ?」


「……なんでもございません!」


蒼白になるセラフィナ。


誰も気づいていなかった。


この王国の結界を、王太子の魔力を、本当に支えていたものが何だったのか。


それが――たった今、辺境の養蜂園で、蜂蜜色に微笑んでいることを。


◆


王都から使者が来たのは、それから間もなくのことだった。


結界は崩れ、魔物が押し寄せ、王都は大混乱に陥っているという。


「アメリア様! どうか、どうか王都へお戻りを!」


泥にまみれた使者が、養蜂園の門前で額を地にこすりつけた。


「あなた様の『聖なる蜜』でなければ、結界は保てぬのです! 王太子殿下も、あなた様との復縁を切に望んでおられます!」


私はちょうど採蜜の最中だった。麦わら帽子を少し上げて、使者を見下ろす。


(あら。復縁ですって)


「おかしなことをおっしゃるのね」


私は静かに首を傾げた。


「聖女セラフィナ様の祝福があれば、結界は保てるのでしょう?」


「そ、それは……」


「私はただの養蜂家ですわ。国の要など、そんな大それたもの、私に務まるはずがございません」


「し、しかし……!」


私は微笑んだ。刃のように、静かに。


「『公爵令嬢にあるまじき無粋な女』――だって、そうあなた方がおっしゃったのではなくて?」


あの夕暮れの大広間で、私に浴びせられた言葉。


そのすべてを、私は静かに突き返した。


「……っ、それは、その……」


使者は言葉を失い、口をぱくぱくとさせた。


そこへ、ミレイユがすっと進み出る。


「使者殿。念のため申し上げますが、この養蜂園の蜜は、すでに竜人辺境伯領との正式な交易品でございます」


「な……」


「国家間の宝を、一介の王国が『返せ』と? アメリア様は今や、竜人辺境伯領の『蜜の女主人』であらせられます。王太子妃などより、遥かに高い地位と自由をお持ちです。お引き取りを」


「そ、そんな……お待ちを……!」


完璧な、正論の一撃。


私は最後に、静かに告げた。


「蜂はね、一度離れた主人のもとへは戻らないの。養蜂家なら誰でも知っている、当たり前の理ですわ」


使者はよろめきながら去っていった。


その背を見送りながら、私は空を仰いだ。


「お嬢様。よろしかったのですか」


「ええ。もう、とっくに決めていたことだもの」


私は蜜の滴る巣枠を掲げ、夕陽に透かした。


黄金色の光が、きらきらと降り注ぐ。


「私の居場所は、ここよ。ずっと探していた、蜂蜜色の夕暮れの中に」


◆


王都の顛末は、風の噂となって辺境まで届いた。


結界を失った王都は、魔物の襲撃で甚大な被害を受けた。


慌てふためくばかりで何一つ成せなかった『光の聖女』セラフィナ。


民が祝福を求めて祈りを乞うても、彼女の手からは、ついぞ一筋の光も生まれなかった。


「偽物だ……!」


「聖女様は、偽物だったのか……!」


化けの皮は、いともあっさりと剥がれ落ちた。


「ち、違うの……! わたくしは、ただ、みんなに愛されたかっただけで……!」


人前では清楚可憐を演じ、裏で冤罪を仕立て上げた男爵令嬢。


その虚飾は、本物の危機の前では何の役にも立たなかった。


セラフィナは民の糾弾を浴び、社交界を追われた。


王太子ジェラルドもまた、無事では済まなかった。


魔力の枯渇は止まらず、国を危機に晒した責を問われ、王位継承権は剥奪された。


「なぜだ……なぜこうなった……」


玉座の間で、彼はようやく思い知ったという。


「あの日焼けした肌も、作業着も、指先の蜜の香りも……すべて、王国を支える本物の宝だったというのか……」


日焼けした肌も、作業着も、指先に染みついた蜜の香りも。


自分が『無粋』と切り捨てたそのすべてが――王国を支える、本物の宝だったのだと。


「『君との婚約を破棄する』……あの一言で、私は自ら、国の要を手放したのか……」


だが、気づいたときには、もう遅い。


蜂は、一度離れた主人のもとへは戻らない。


◆


辺境の養蜂園。


夕暮れが、いつものように空を蜂蜜色に染めていた。


私は縁側に腰かけ、暮れゆく空を眺めていた。


隣には、大きな体を窮屈そうに丸めたロキスがいる。


「……アメリア」


「なあに?」


彼は、しばらく口ごもった。


不器用な竜が、必死に言葉を探している。


「……蜜を、ずっと」


「うん」


「……いや」


金色の瞳が、まっすぐに私を見た。


「……君を、ずっと。傍に、いてほしい」


世界一不器用な、求婚だった。


私は思わず、噴き出してしまう。


「ふふっ、下手くそ」


「……悪かった」


「ううん」


私は彼の手に、そっと自分の手を重ねた。花粉と蜜の香りのする、働き者の手を。


「喜んで。――私も、ここにいたいの」


そのとき、ミレイユが一通の書状を持ってやってきた。


「お嬢様。王国より、正式な書状が届きました。『竜人領との蜜交易条約』の締結を望む、と」


私は書状を受け取り、ふっと笑った。


「あら。かつて私を追い出した国が、今度は頭を下げて、私の楽園と繋がりたいと言うのね」


「いかがなさいますか」


「私の蜂蜜色の楽園、これからもっと広がっていきそうね。土地も、蜂も、竜も、人も。みんなが帰ってこられる場所に」


蜂蜜色の夕暮れの中で、ロキスの手が、少し強く私の手を握った。


「……アメリア。日が、暮れる」


「ええ。さあ、帰りましょう。あの子たちが、主人の帰りを待っているわ」


前世でも、今世でも。


私がずっと探していた『帰る場所』は――


ちゃんと、ここにあった。


羽音が、優しく響いている。


さあ、日が暮れる。


あの子たちが、主人の帰りを待っている。

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