「君との婚約を破棄する」──ええ、どうぞ。私は蜂蜜色の夕暮れに帰りますので、聖女の力ごとお返しいたしますわ
「君との婚約を破棄する」
夕暮れの大広間に、王太子ジェラルドの声が響いた。
黄金のシャンデリアが煌めき、居並ぶ貴族たちの視線が、一斉に私へと集まる。
「君は聖女セラフィナの祝福を妬み、彼女を害そうとした。公爵令嬢にあるまじき、卑劣な行いだ」
身に覚えのない冤罪。
でも、私は少しも驚かなかった。
(あら、ちょうどいいわ。これで堂々と蜂のところへ帰れる)
そう、心の底からそう思ったのだ。
私はアメリア・ハーニヴェル。公爵令嬢――という肩書きよりも、養蜂園の主人と呼ばれるほうが、よほどしっくりくる女。
前世は日本の、片田舎の養蜂農家の娘だった。その記憶を持ったまま、この花と光の王国リュシオールに転生した。
だからだろうか。私はずっと知っていた。
この息苦しい社交界が、私の居場所ではないことを。
「何か申し開きはあるか、アメリア」
ジェラルドの隣で、男爵令嬢セラフィナが目に涙を浮かべて震えている。
「あぁ、殿下……わたくし、こわくて……アメリア様が、そんなにわたくしを憎んでいたなんて……」
いかにも「傷つけられた可憐な聖女」といった風情で。
(お上手ね。でも、その涙、乾くのが早そう)
私はスカートの裾を摘み、静かに一礼した。
「――ええ、どうぞ」
「……なに?」
ジェラルドの整った顔が、間の抜けた表情に変わる。
弁明を、罵倒を、あるいは泣きすがるのを期待していたのだろう。
生憎だけれど、そのどれも差し上げるつもりはない。
「婚約破棄、謹んでお受けいたしますわ。公爵位の継承権も、王都の花畑も、すべてお返しいたします」
「ま、待て。それは……そういう意味では……」
「あら、破棄を宣言なさったのは殿下ですわ。それとも、泣いてすがるとでも思っておられました?」
「……っ」
私は顔を上げ、微笑んだ。
我慢の限界の、悲鳴のような笑みではない。
長い長い旅の果てに、ようやく帰り道を見つけた者の、解放の微笑みだった。
「では、私は養蜂園に帰りますわ。あの子たちが、日暮れに帰る主人を待っておりますので」
セラフィナが、勝ち誇ったように鼻を鳴らす。
「……養蜂園? ふふ、やはり無粋な方。殿下にはわたくしがおりますもの」
私は振り返り、彼女に向けて、ほんの少しだけ笑ってやった。
「ええ、どうぞお幸せに。……その祝福とやらが、いつまでもつのかは存じませんけれど」
窓の外では、空が蜂蜜色に染まり始めていた。
ああ、帰ろう。私の、本当の居場所へ。
背後で誰かが息を呑む気配がしたけれど、私はもう振り返らなかった。
◆
大広間を出た廊下で、栗色の髪をきっちり結い上げた侍女が待っていた。
ミレイユ。幼い頃から私に仕えてくれている、忠義一徹の人だ。
「お嬢様」
「ミレイユ。聞いていた?」
「一言も漏らさず。……あの愚かな王太子殿下のお言葉も」
彼女の声は氷のように冷たかった。私のために怒ってくれているのだ。
「ミレイユ、私は公爵家を出るわ。辺境の、廃れた養蜂園へ行くの」
「存じております」
「まだ何も言っていないのだけれど」
ミレイユは表情ひとつ変えず、旅支度らしき鞄をすでに手にしていた。
「お嬢様がいつかそうおっしゃると、ずっと前から思っておりました。荷造りはとうに済ませてございます」
「……あなたも来てくれるの?」
「お嬢様の帰る場所が、私の帰る場所でございます」
淡々と、しかし揺るぎない声で彼女は言った。
私はふっと肩の力が抜けて、笑ってしまう。
「ふふ、心強いわ。……忙しくなるわよ、ミレイユ」
「かしこまりました。存分にこき使ってくださいませ」
◆
馬車に揺られて三日。
王国の辺境、かつて『蜂蜜の里』と呼ばれたという廃村に、私たちは辿り着いた。
枯れかけた花畑、朽ちた巣箱、雑草に埋もれた小屋。
普通の令嬢なら悲鳴を上げるだろう光景。
でも私の目には、宝の山に見えた。
(土がいい。日当たりも、風の通りも申し分ない。ここなら、蜂たちも喜ぶわ)
前世の記憶が、指先の感覚が、疼くように蘇る。
「お嬢様……失礼ながら、この光景を見て『宝の山』とおっしゃったのは、後にも先にもお嬢様だけかと」
「あら、宝の山じゃない。朽ちた巣箱も、枯れた花畑も、全部生き返らせてみせるわ」
巣箱を組み直し、蜜源となる花を輪作で植え、燻煙で蜂を鎮めながら採蜜する。
剣でも魔法でもない。前世で祖父母から受け継いだ、地味だけれど確かな知恵。
ひと月後。
枯れていた花畑は色を取り戻し、澄んだ羽音が絶えず響くようになった。
黄金色の蜜が、木漏れ日の下できらきらと光る。
それを口に含んだミレイユが、珍しく目を見開いた。
「……お嬢様、これは。この蜜、口に含んだ途端、指先の疲れが引いてゆきます」
「働きたくないわけじゃないの」
私は麦わら帽子の下で笑った。
「私は、私が愛せる仕事だけをして生きたいのです。ただ、それだけ」
夕暮れが、養蜂園を蜂蜜色に染めていく。
これこそが、前世でも今世でも、私がずっと探していた景色だった。
◆
その日、空から竜が降りてきた。
巨大な竜翼が夕陽を遮り、廃村に影を落とす。
村の老婆――老エルナが腰を抜かして震えた。
「竜人族……! それも、あの『冷酷無比の竜人将軍』様だよ……!」
銀灰色の髪。縦に裂けた金色の瞳。背には格納された竜翼。
見上げるほどの長身の男が、無表情のまま私の前に立った。
戦場で一騎当千と恐れられる、竜人辺境伯ロキス・ドラーグヴェント。
(うわぁ、迫力がすごい。……で、何のご用かしら)
私が身構えるより早く、彼は――片膝をついた。
「……その蜜を、分けてほしい」
「……は?」
震える声だった。
鋼のような将軍の目から、ぽろぽろと、大粒の涙がこぼれ落ちていく。
「一口、噂の蜜を口にした。あれ以来……忘れられない。あの味がないと、俺はもう……生きられない」
真顔だった。恐ろしいほど真剣な、絶望の真顔。
私は目を瞬いた。それからミレイユと顔を見合わせた。
「……お嬢様。これは」
「ええ。たぶん、思っているのと違う生き物だわ」
冷酷無比の竜人将軍は、どうやら――ただの、甘い物に目がないポンコツだった。
「あの、ロキス様。蜜は逃げませんので、まずは落ち着いて。ほら、どうぞ」
私が瓶を差し出すと、彼は震える手でそれを受け取り、恭しく――本当に恭しく蜜を舐めた。
次の瞬間、また号泣した。
「……うまい。あたたかい味がする」
「そ、そうですか」
「……昔、母竜が。俺に、こういう味の……」
言いかけて、彼は口を噤んだ。
「……ロキス様?」
「……なんでもない」
その横顔に、ほんの一瞬、強者ゆえの孤独が滲んだ気がした。
以来、竜人将軍ロキスは、多忙な辺境伯の身でありながら足繁く養蜂園に通うようになった。
蜜が切れると露骨に元気をなくし、私が採蜜していると尻尾のない大型犬のようにそわそわする。
「辺境伯様」
ミレイユが冷ややかに書類を突きつける。
「蜜は逃げませんので、まずはこちらの交易書類にご署名を」
「……む」
「早く」
「……わかった」
(甘いものに涙する、不器用で孤独な竜。……悪くない隣人だわ)
呆れながらも、私はいつしか彼に心を許していた。
◆
「あんたは……この土地が待っていた主人だよ」
老エルナが、蘇った花畑を眺めて涙をこぼした。
腰の曲がった老婆は、この地が『蜂蜜の里』と呼ばれ栄えていた頃を知る、最後の生き証人だという。
「昔はねえ、ここいら一面が蜂蜜色に輝いておったのさ。だが土地が枯れ、蜂が去り、人も去った。誰も戻ってこなんだ。あんたが来るまではね」
私はエルナの隣に腰を下ろした。
「エルナさん。竜人族と、この里の間に、何かあったの?」
エルナは遠い目をした。
「昔々、竜人の母竜がこの里の蜜を愛してねえ。里の者と竜人は、蜜を通じて友であったのさ。だが里が枯れて、その縁も途絶えた。……あの将軍様が蜜に涙するのはね、たぶん、母竜の記憶なんだよ」
私は胸の奥が、しんと温かくなるのを感じた。
ロキスがあの日、言いかけた言葉。
『昔、母竜が。俺に、こういう味の……』
「……そういうことだったのね。あの人が言いかけた言葉の意味が、やっとわかったわ」
「エルナさん。私、この里をもう一度、蜂蜜色に染めるわ。人も、蜂も、竜も、みんなが帰ってこられる場所に」
「……ふぉっふぉ。頼もしいこと」
◆
その頃、王都では――
異変が起きていた。
王国を守る結界が、じわじわと弱まり始めていたのだ。
聖なる光を放っていた結界樹の葉が、一枚、また一枚と枯れ落ちていく。
王太子ジェラルドの魔力もまた、原因不明の枯渇に見舞われていた。
「なぜだ……なぜ私の魔力が……!」
玉座の間で膝をつくジェラルド。
その傍らで、自称・光の聖女セラフィナが必死に祈りを捧げる。
だが――何も起きなかった。
光は、灯らなかった。
「セラフィナ! 君の祝福はどうした! 結界を、結界を張り直せ!」
「そ、そんな……わたくしの祈りが、届かないなんて……」
「祈れ! 光を灯せ! 君は聖女なのだろう!?」
「む、無理ですわ……! だって、わたくし、本当は……」
「……本当は、なんだ?」
「……なんでもございません!」
蒼白になるセラフィナ。
誰も気づいていなかった。
この王国の結界を、王太子の魔力を、本当に支えていたものが何だったのか。
それが――たった今、辺境の養蜂園で、蜂蜜色に微笑んでいることを。
◆
王都から使者が来たのは、それから間もなくのことだった。
結界は崩れ、魔物が押し寄せ、王都は大混乱に陥っているという。
「アメリア様! どうか、どうか王都へお戻りを!」
泥にまみれた使者が、養蜂園の門前で額を地にこすりつけた。
「あなた様の『聖なる蜜』でなければ、結界は保てぬのです! 王太子殿下も、あなた様との復縁を切に望んでおられます!」
私はちょうど採蜜の最中だった。麦わら帽子を少し上げて、使者を見下ろす。
(あら。復縁ですって)
「おかしなことをおっしゃるのね」
私は静かに首を傾げた。
「聖女セラフィナ様の祝福があれば、結界は保てるのでしょう?」
「そ、それは……」
「私はただの養蜂家ですわ。国の要など、そんな大それたもの、私に務まるはずがございません」
「し、しかし……!」
私は微笑んだ。刃のように、静かに。
「『公爵令嬢にあるまじき無粋な女』――だって、そうあなた方がおっしゃったのではなくて?」
あの夕暮れの大広間で、私に浴びせられた言葉。
そのすべてを、私は静かに突き返した。
「……っ、それは、その……」
使者は言葉を失い、口をぱくぱくとさせた。
そこへ、ミレイユがすっと進み出る。
「使者殿。念のため申し上げますが、この養蜂園の蜜は、すでに竜人辺境伯領との正式な交易品でございます」
「な……」
「国家間の宝を、一介の王国が『返せ』と? アメリア様は今や、竜人辺境伯領の『蜜の女主人』であらせられます。王太子妃などより、遥かに高い地位と自由をお持ちです。お引き取りを」
「そ、そんな……お待ちを……!」
完璧な、正論の一撃。
私は最後に、静かに告げた。
「蜂はね、一度離れた主人のもとへは戻らないの。養蜂家なら誰でも知っている、当たり前の理ですわ」
使者はよろめきながら去っていった。
その背を見送りながら、私は空を仰いだ。
「お嬢様。よろしかったのですか」
「ええ。もう、とっくに決めていたことだもの」
私は蜜の滴る巣枠を掲げ、夕陽に透かした。
黄金色の光が、きらきらと降り注ぐ。
「私の居場所は、ここよ。ずっと探していた、蜂蜜色の夕暮れの中に」
◆
王都の顛末は、風の噂となって辺境まで届いた。
結界を失った王都は、魔物の襲撃で甚大な被害を受けた。
慌てふためくばかりで何一つ成せなかった『光の聖女』セラフィナ。
民が祝福を求めて祈りを乞うても、彼女の手からは、ついぞ一筋の光も生まれなかった。
「偽物だ……!」
「聖女様は、偽物だったのか……!」
化けの皮は、いともあっさりと剥がれ落ちた。
「ち、違うの……! わたくしは、ただ、みんなに愛されたかっただけで……!」
人前では清楚可憐を演じ、裏で冤罪を仕立て上げた男爵令嬢。
その虚飾は、本物の危機の前では何の役にも立たなかった。
セラフィナは民の糾弾を浴び、社交界を追われた。
王太子ジェラルドもまた、無事では済まなかった。
魔力の枯渇は止まらず、国を危機に晒した責を問われ、王位継承権は剥奪された。
「なぜだ……なぜこうなった……」
玉座の間で、彼はようやく思い知ったという。
「あの日焼けした肌も、作業着も、指先の蜜の香りも……すべて、王国を支える本物の宝だったというのか……」
日焼けした肌も、作業着も、指先に染みついた蜜の香りも。
自分が『無粋』と切り捨てたそのすべてが――王国を支える、本物の宝だったのだと。
「『君との婚約を破棄する』……あの一言で、私は自ら、国の要を手放したのか……」
だが、気づいたときには、もう遅い。
蜂は、一度離れた主人のもとへは戻らない。
◆
辺境の養蜂園。
夕暮れが、いつものように空を蜂蜜色に染めていた。
私は縁側に腰かけ、暮れゆく空を眺めていた。
隣には、大きな体を窮屈そうに丸めたロキスがいる。
「……アメリア」
「なあに?」
彼は、しばらく口ごもった。
不器用な竜が、必死に言葉を探している。
「……蜜を、ずっと」
「うん」
「……いや」
金色の瞳が、まっすぐに私を見た。
「……君を、ずっと。傍に、いてほしい」
世界一不器用な、求婚だった。
私は思わず、噴き出してしまう。
「ふふっ、下手くそ」
「……悪かった」
「ううん」
私は彼の手に、そっと自分の手を重ねた。花粉と蜜の香りのする、働き者の手を。
「喜んで。――私も、ここにいたいの」
そのとき、ミレイユが一通の書状を持ってやってきた。
「お嬢様。王国より、正式な書状が届きました。『竜人領との蜜交易条約』の締結を望む、と」
私は書状を受け取り、ふっと笑った。
「あら。かつて私を追い出した国が、今度は頭を下げて、私の楽園と繋がりたいと言うのね」
「いかがなさいますか」
「私の蜂蜜色の楽園、これからもっと広がっていきそうね。土地も、蜂も、竜も、人も。みんなが帰ってこられる場所に」
蜂蜜色の夕暮れの中で、ロキスの手が、少し強く私の手を握った。
「……アメリア。日が、暮れる」
「ええ。さあ、帰りましょう。あの子たちが、主人の帰りを待っているわ」
前世でも、今世でも。
私がずっと探していた『帰る場所』は――
ちゃんと、ここにあった。
羽音が、優しく響いている。
さあ、日が暮れる。
あの子たちが、主人の帰りを待っている。




