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自然の克服

作者: ゴミ
掲載日:2026/06/14

人類は自然※1を克服するべきだと思う

自然と共生するのではなく克服するべきだと思う

地球の生態系を全面的に作り直すべきだと思う


それは現在の人類の技術レベルでは不可能だし

人類が向後生き延びられるかもわからない

だから人類は何とかして生き延びて、技術を発展させて

地球の生態系を全面的に作り変えるべきだと思う


僕は「自然であるべき」という規範を持たない

今日ぼくたちは人類の歴史からすればつい最近に始まった農耕や

牧畜の産物を食べて暮らし、暑いときには冷房機をつけて温度を下げ

寒いときには温度を上げる、湿度の高いときには除湿器を動かし

低いときには加湿器を動かす

このように僕たちは自然の摂理に逆らって生きている


僕は「自然であるべき」という規範を持たない

そのかわり僕は「幸福」という規範を持っている

僕はこの規範に基づいて自然を評価する

すなわち自然がみんなを幸福にしているのなら自然には価値があり

そうでなければ自然には価値が無い


僕は街中でネズミが猫に追いかけられているのを見た

捕食者に追いかけられる事はとても怖い事だと思う

僕は三毛別熊害事件の本を読んだりして

そのような事はこの世で最も恐ろしくて不幸な事の一つだと思う


僕はテレビでライオンが飢えて死ぬのを見た

僕は幸いにして飢餓に晒された事はないけれど

そのような死に方はこの世で最も不幸な事の一つだと思う


このような事は自然の中にいくらでもある事だ

多くの生き物が捕食者に食べられて死ぬ

食べ物にありつけなくて飢えて死ぬ、病にかかって死ぬ

寄生虫に侵されて死ぬ、海洋生物は弱り泳げなくなると沈んでいって

水圧に押しつぶされて死ぬ、地獄絵図だ


僕が理解できないのはこんなものを称賛する輩がいる事だ


それも1人や2人ではない、僕の周りにしばしば見かけたし

SNSを開くとそのような輩がいくらでも見つかる

僕が彼らに感じる薄気味の悪さは「温度差」から来るものだと思う


僕は鳥が羽虫を追い回しているのを見た

羽虫は右に左に何度も急旋回し鳥も右に左に何度も急旋回している

羽虫は必死に逃げている、鳥も恐らく()れを逃したら

次いつ餌にありつけるかわからないのだろう

僕はそこから「死にたくない」という必死の叫びを感じた


このような叫びは自然界に溢れかえっている

その横で人間が自然の美しさをうっとりと語っている

この「温度差」は何だろうと思う


僕はそこに2つの背景があると考える

1つはここで述べ、もう1つは後で述べる


1、「大いなる何か」に対する畏敬の念


人類はその進化の過程で物事の因果関係を推論する能力を発達させてきた

草花の倒れ方、土に残された足跡から獲物

あるいは捕食者の行動を推測する能力は

人類の生存と繁栄に寄与するものであった


同時に()の能力には副産物があった、人類は世界のありかたについて

ありもしない因果関係を見出すようになり

神や精霊やその他の「大いなる何か」を幻視しはじめた


僕はこの「大いなる何か」を実に危険だと思う

何故ならそれは命をたやすく踏み潰すからだ


かつて西洋人は神と言うわけのわからないもののために

十字軍なるものを興して中東に攻め込み、殺したり殺されたりした

17世紀にはドイツで30年戦争が起こった

人々は神のために殺しあい、人口の3分の1が死んだ


19世紀にはナショナリズムが興隆し国家や民族といった

大いなるものに命を捧げることが称揚された

第1次世界大戦と第2次世界大戦では途方もない数の人々が

帝国やら民族やらフォルクスゲマインシャフトやら悠久の大儀と言った

大いなるもののために死んだ


こんなにたくさん人死にが出たのは個々の命よりも

「大いなる何か」の方に価値があるとされたからだ


僕はヴィーガニズムを擁護しているが肉食を擁護する意見の中に

しばしば次のようなものを見かける


「私たちは自然の中で生まれ、最後には自然の中へと還ってゆく

ありとあらゆる生き物たちが生まれ、そして他の命の糧となる

命はめぐり、移り変わってゆく」


だから牛や豚を殺して食べるのは問題ないと言うのが

このような事を言う人の考え方だと思われる


ここでは、「命の循環」や「自然のあり方」と言う「大いなる何か」が

牛や豚の個々の命、その感覚、その苦しみよりも価値があるとされている


人は大いなるものに対して畏怖の念に打たれる

一部の人は神秘体験や至高体験といった、とてつもないものを経験する

しかし、そのような感覚を個々の命や、その苦しみよりも優先するならば

僕はそれを悪徳であると断言する


2、人間の身体とその背後にある武力


昔、SNSで次のような話を読んだことがある

Aという人がαと言う国のα1と言う町に行った

Aが言うにはα1はとても良い町で人々は優しく

友好的で何の危険も無いとの事だった


Bという人もα1に行った

Bが言うにはα1は民度が低くとても危険だとの事だった


何が違うのかと言うとAは大柄な男性でBは小柄な女性であったのだ

ろくでもない人間は自分より強そうな相手に対しては

腰が低くなるが弱そうな相手には居丈高になる


Aは体が大きかったから舐められなかった、丁重にもてなされた

Bは小さかったから舐められた、何度も危険な目にあった


AとBは同じ場所を旅したが所有する「身体」が異なるために

異なる体験をしたのである


入り組んだ小道に坂と高低差のある魅惑的な町は

車椅子の人にとっては最悪の場所かもしれない

歩道と車道の間にある段差は車椅子の人にとって大きな障害かもしれない

しかし、視覚障害のある人にとって

歩道と車道の間にある段差は命綱となる


蝙蝠は超音波を発し、その反射音から

他の物体と自身との位置関係を把握する

暗闇の中で障害物を避け獲物の位置からその動きまでを

正確に知る事が出来る


蝙蝠はどのような世界を生きているのだろうか?


動物の体温と毛の触感、酪酸の匂いと言う僅か3つの感覚

からなるマダニの世界はどのようなものだろうか?


所有する身体が異なると言う事は

異なる世界(環世界)を生きると言う事なのだ


人間は地球上にいる様々な生き物の中でもかなり大きな部類に入る

僕たちは大抵の生き物をたやすく踏み潰す事が出来る

さらに、僕たちは組織的に行動することが出来て

技術(テクノロジー)に支えられた強力な武器を用いる事が出来る

僕たちは他の生き物たちを一方的に殺すことが出来る

ときどき熊や鮫に殺される人が出るが蚊を除けば

それらは例外にすぎない


僕たちと他の生き物たちとの差はAとBの差よりもずっと大きい

Aにとってα1は優しい町だった


もし僕たちがごく小さな生き物で他の大型の捕食者に狙われながら

隠れて逃げて、必死に食べられるものを探して生きているとしたら

この世界は美しいのだろうか?


レイチェル・カーソンは「センス・オブ・ワンダー」で

自然の美しさについて書いているが

もし彼女と彼女の甥がごく小さな生き物だったとしたら

その海辺の世界は美しいだろうか?


人間はこの地球生態系における圧倒的な勝者であり

他の生物を自由にぶち殺せる特権を持っている

僕には自然を称賛する様々な言明がその特権の上に立って

その特権を自覚することなく発せられているものであるように感じる


雨上がりの日に僕が田んぼの隣を歩いていると

道端にカタツムリがいる、殻を着けている

何故そのようなものを着けているのか


それはカタツムリを殺しにくる何者かがいるからだ

それは鳥類かもしれないし爬虫類かもしれないし哺乳類かもしれない

それは人が防弾ベストを着るのと同じような事だ

もし人々が防弾ベストを着けているような町があれば

その町はろくでもない所だ


テレビをつけるとチーターが羚羊を追い回している

その羚羊が必死に走って走って逃げている

それで羚羊が逃げ切って、僕は安堵する

チーターは飢えて弱って倒れ、やがて動かなくなる


鳥が子育てをしている、小鳥は育って大きくなると餌を貰えなくなる

しかし、まだ飛ぶことはできないから

もっと小さい他の小鳥を襲って食べる、親鳥は幼い小鳥を守る

若い鳥は同族の小鳥を食べないと生きていけない


僕が道を歩いていると鳴き声がする、鳩の雛がいて

カラスがそれを(くわ)えている、雛が鳴いている

鳩が何羽か飛んでいて羽を羽ばたかせてカラスに向かっていく

ぶつかる音が何度もして僕は何もできずにそこから歩き去っていく


テレビの中ではライオンが子ライオンを殺している

他のオスの子供かもしれないからだ


ライオンは群れを成してキリンを襲う、他に獲物がいないからだ

1頭がキリンに蹴られて顎の骨を砕かれる、もう生きてはいけないだろう

キリンは脚を食い破られて倒れる、そこにライオンが群がる


イルカの子供が必死に逃げている、何度も方向を変えて

水面に飛び出して、シャチの群れがそれを追う

シャチがイルカに食いつく


僕が街路樹下の植えこみに目をやるとネズミが突っ伏している

体を広げて死んでいる、その向こうに鳩がいる

草むらに突っ込んで羽が乱れ散らばっている


僕は自然が嫌だ、この世界はこのようであるべきではないのだ


このような醜い世界と調和するなど嫌だ

日本の伝統的な自然信仰はこの醜悪なシステムへの信仰だ


仏教は「ありのまま」を受け入れろと説く

僕のような、まともに仕事も出来なような貧弱な人間は

「ありのまま」の世界では生きていけない

自然の中では生きていけない


僕は福祉事業所を転々としてきて

重い障害のある人をいろいろと見てきた

彼らは自然の中では生きていけない

「ありのまま」の世界では生きていけない


狩猟採集民の余剰のなさと貧弱な人口支持力では

重い障害のある人を生かしておくことは出来ない


今日、僕のようなひ弱な人間が生きてあり

僕が見てきたような重い障害のある人が生きてあるのは

人類が「ありのまま」を受け入れてこなかったからだ

だから僕は「ありのまま」を受け入れない


西洋人は東洋人を馬鹿にしてきた

東洋人は神秘主義であり合理性よりも精神性を重んずる

これに対して我々西洋人は合理的であり効率的であり論理的である

のだと言って、自分たちを褒めちぎってきた


日本人はこの「オリエンタリズム」を内面化し

さらに劣等感とナショナリズムとをこじらせて


非人間的で物質主義の退廃した西洋に対して

深い精神性を有する日本人の自然と調和した生き方はより優れている

などとする可哀想な考え方をするようになった


2度の世界大戦がとてつもない惨禍をもたらして

近代合理主義への疑念が高まると

反発としての「カウンターカルチャー」運動が起こり

そこに「ニューエイジ」や「スピリチュアリズム」が加わっていったが

それらは只のオカルトにすぎなかった


・神道などに見られる自然信仰


・仏教の「ありのまま」を受け入れる思想


・オリエンタリズムの内面化とオクシデンタリズム


・近代の超克


・縄文ナショナリズム


・1960年代のカウンターカルチャー


・ニューエイジ


・宮崎アニメ的世界観


・スピリチュアリズム


これらの全てが醜いのは自然が醜いからだ


地球上の多くの生物は「食事」をする

いろいろと例外もあるだろうが「食事」とは

他の生き物を殺して死体を貪る事だ、略奪だ


エネルギーを獲得する手段として「略奪」が効率的であり

そのような手段を獲得した生物がより多くのエネルギーを獲得して

より多くの子孫を残し、そして「略奪」の遺伝子が受け継がれてきた

だから僕たちはみんな略奪者の子孫なのであり、略奪者なのであり

他の多くの生物種もまたそうなのだ


やがて「略奪」や他の脅威に対する

防御システムを獲得する生物が現れてきた、苦しみと恐怖だ

死を恐れる生き物は捕食者や他の脅威を避け

恐れを持たない生き物よりも高い確率で生存できただろう

そしてより多くの子孫を残せただろう


苦しみを感じる生き物は捕食者や他の脅威を避け

苦しみを感じない生き物よりも高い確率で生存できただろう

そしてより多くの子孫を残せただろう


「略奪」があって、略奪しないと生きていけない体があって

防御システムとしての恐怖と苦しみとがあって

ここに地獄が生まれる


人類が生まれるより前、世界は地獄であり

人新生の今、世界は地獄であり

人類が滅びた後、世界は地獄であり続けるだろう


自然を称賛する人々はしばしば新自由主義を非難する

新自由主義の世界では市場に規制が少なく

人々はこの世界で勝つためにありとあらゆる手段を用いる事ができる

強い者、富を持つ者は弱い者、貧しい者を搾取して

ますます富み栄える


僕は新自由主義的なものには究極の形態があると思う

それは「自然」である


自然界には如何なる規制もない、そこは完全な自由競争の世界である

そこには他の生存機械を殺し、死体を貪りエネルギーを獲得して

増殖する生存機械たちがひしめいている


僕はこの世界の全ての悪は「自由放任」から生じるものだと思う

「自由放任」の世界では「略奪」が正解になる

自分より弱いものから奪う、それがエネルギーを獲得する手段として

効率的になる、だからそのような行動、「略奪」をする存在は

より多くのエネルギーを獲得できる、より多くの子孫を残すことが出来る

形質が受け継がれていく


僕は人間の理性と技術(テクノロジー)で以ってこの宇宙の誕生から続く

「自由放任」に対して立ち向かって行くべきだと思う

それが僕の考える「自然の克服」の遂行である


僕たちは鹿が飢えることを許容する、病で死ぬことを許容する

熊に襲われて死ぬことを許容する

何故なら、僕たちにとって鹿は「彼ら」だからだ


僕たちは人間が飢えることを許容しない、病で死ぬことを許容しない

熊に襲われて死ぬことを許容しない

何故なら、僕たちにとって人間は「我々」だからだ


しかし、「我々」とは誰だろうか?


遠い昔、人類がみな狩猟採集民だったころ

彼らの1集団、群れ(バンド)の1員にとって「我々」とは

同じ群れ(バンド)の他の構成員だけを指した


やがて人々が定住生活を送るようになると、都市国家(ポリス)が現れた

ある都市国家(ポリス)の1員にとって「我々」とは

同じ都市国家(ポリス)の他の構成員を指した


やがて領域国家が生まれ、広大な版図を持つ帝国が生まれた

このようにして「我々」の範囲は広がっていった


「我々」を論理的に定義する事はできない

何故なら、論理的に結論を導出するためには

「我々」の間で前提が共有されていなければならないし

「我々とは誰か?」と言う命題について

前提を共有することなど出来ないからだ


論理が通用しないならば

僕たちは「我々」の範囲をどのように決めてきたのだろうか

それは僕たちの「信仰」つまり「お気持ち」に基づく「文化」である

「空気」と言ってもいい


いま僕たちは「我々」を「ホモ・サピエンス」と定義しているが

それはそのような文化がいま支配的であるにすぎない


近代の西洋において「我々」とは健康な成年の白人男性のことであった

やがて奴隷解放運動が起きて

「我々」の中に黒色人種が含まれるようになり

女性解放運動が起きて女性が含まれるようになり

障害者の権利擁護運動が起きて障害者が含まれるようになっていった


これらの「Weの拡張」の最新の動きがヴィーガニズムなのだと思う

ヴィーガンは牛や豚を殺すな食べるな搾取するなと言い

ヴィーガンを批判する人々は我々の自由を侵害するな

自分の主張を押し付けるなと言っている


これは2つの文化の衝突だと思う、すなわち

「我々は尊重されるべきであり、我々とはホモ・サピエンスである」

と言う信仰に基づく文化と


「我々は尊重されるべきであり

我々とは苦しみを感じうる全ての生き物である」

と言う信仰に基づく文化との衝突だ


僕は断固として後者を支持する

そして()の先にある「自然の克服」を支持する


「自然の克服」とは「大いなる何か」ではなく「我々」を尊重する事である





















※1、この記事における「自然」は地球の生態系(エコシステム)を指す


補筆、自然主義と反自然主義


自然主義とは「ありのまま」であるべきだとする思想であり

反自然主義とは「ありのまま」とは別に

善や美や正義の領域があるとする思想である


日本では自然主義、そして反自然主義と言うと

文学における()れを指す場合が多いが

この2つの思想の対立はあらゆる分野で見られるものである


例えば絵画における自然主義とは観察を重んじて

「見えるがまま」を描こうとするものであり


教育における()れは、子供が本来持つとされる

「気づく力」を重視し、大人は環境を整える事に重点を置くべき

だとする教育論である


そしてこの記事における自然主義と反自然主義は

「倫理」の分野における()れであり

この分野においての自然主義はカルトである


人間は2足歩行から来る骨盤の大きさ

高い知能の代償としての乳幼児の大きな頭部と

その結果として未熟状態で生まれてくる事

などがあわさって出産時の死亡率が母子ともに高い

人間とは本来そのような生き物なのだ


しかし、医療の発達により少なくとも主要国においては

周産期の母子の死亡率は自然状態よりは著しく抑えられている


世の中には自然なお産なるものを追求する人々がいるが

倫理の分野における自然主義はカルトである


僕はこの分野において反自然主義を明確に支持するものである

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