義周遺譚 〜戦わざる者の軍記〜
その夜、江戸の空はまだ雪を降らせてはいなかった。
けれども、空気の底には、確かに白が潜んでいた。
吐く息は細く、冷たく、言葉にならぬものを運んでいた。
吉良義周は、灯の落ちた廊下をひとり歩いていた。
家臣たちの部屋も、すでに静まり返っている。
屋敷は、まるで深い眠りに包まれていた。
障子の向こうに、庭の松が影を落としている。
その枝先に、まだ見ぬ雪の気配が、かすかに揺れていた。
義周は立ち止まり、耳を澄ませた。
風の音も、鳥の声もない。
ただ、胸の奥に、名のないざわめきがあった。
それが何を告げているのか、彼にはわからなかった。
けれど、なぜか今夜に限って、眠る気にはなれなかった。
床の間には、薙刀が立てかけられていた。
父から贈られたものだった。
手に取ることはなかった。
それは、武士の証であると同時に、
自分にはまだ重すぎる問いのようでもあった。
義周は、そっと襖を閉じた。
雪はまだ降らぬ。
だが、白はすでに、心の内に降り始めていた。
彼はまだ知らなかった。
その夜が、父の最期となることを。
そして、誰にも語られることのなかった軍記が、
沈黙の中で始まっていたことを。
夜が裂けたのは、夢の中だった。
遠くで何かが砕ける音がした。
義周は目を開けた。
屋敷の空気が、いつもと違っていた。
廊下を駆ける足音。
叫び声。
障子の向こうで、誰かが倒れる音。
襖が乱れて開き、家臣が飛び込んできた。
「若様、赤穂の浪人どもです!」
その声に、義周は薙刀へと手を伸ばした。
だが、重い。
手に取った瞬間、腕が震えた。
庭へ出ると、雪が舞い始めていた。
灯の影が揺れ、血の匂いが風に混じっていた。
清水一学が叫ぶ。
「上様を守れ!」
小林平八郎が、女物の着物の裾を翻して駆ける。
誰もが、命を賭していた。
義周は、薙刀を構えた。
目の前で家臣が斬られ、倒れていく。
そのたびに、薙刀が重くなる。
踏み込んできた浪士のひとりが、義周に向かってきた。
薙刀を振るう。
一度だけ。
それは空を切った。
次の瞬間、閃いた刃が頬を裂いた。
肩に衝撃が走り、薙刀が手から滑り落ちる。
視界が白く染まり、音が遠のいていく。
雪が、深くなっていた。
白が、すべてを覆っていく。
義周は、倒れた。
その夜の記憶は、そこで途切れている。
目を覚ましたとき、天井は見知らぬ色をしていた。
右の頬は布で覆われ、肩には薬草の香りが染みついていた。
声を出そうとしても、喉が乾いて言葉にならなかった。
屋敷はすでに、血と灰に沈んでいた。
父は斬られ、家臣の多くも命を落とした。
吉良家は、終わった。
義周は、沈黙していた。
それは、痛みであり、喪失であり、
言葉を持たぬ少年の、茫然だった。
評定所の空気は、冷たかった。
それは冬の寒さではなく、言葉のない冷えだった。
義周は、負傷した体を布で覆われたまま、畳の上に座らされていた。
顔の傷はまだ癒えず、肩の痛みは呼吸のたびに刺さった。
役人たちは、淡々と問いを重ねた。
「応戦なされたか」
「上野介殿は、どこで斬られたか」
「家臣は、何人残っているか」
その声に、敬意はなかった。
「吉良家」という名に、礼はなかった。
それは、断罪の場だった。
義周は、答えなかった。
ただ、頷くか、目を伏せるか。
沈黙が、唯一の抵抗だった。
やがて、処分が告げられた。
「仕方不届きにより、吉良家は改易。
義周殿は、諏訪藩預かりとする。」
その瞬間、吉良家の尊厳は否定された。
父の死も、家臣の忠義も、すべてが雪の下に葬られた。
だが、義周は立ち上がらなかった。
その後、囚人籠で諏訪の藩邸に移送されたが、沈黙のまま、座り続けた。
籠は、揺れていた。
雪の道を進むたび、軋む音が背に響いた。
義周は、布に包まれたまま、身を丸めていた。
供は、左右田孫兵衛と山吉新八郎。
二人は黙っていた。
言葉は、籠の外に落ちていった。
数日後、諏訪への道は、雪に沈んでいた。
籠の中で、義周は目を閉じていた。
頬の痛みは鈍く、肩の痺れは消えなかった。
左右田孫兵衛が布を掛け直す。
山吉新八郎が湯を差し出す。
言葉はなかった。
仕草だけが、日々をつないでいた。
宿場では、義周は、食事に手をつけなかった。
薬草の香りが、夜の空気に混じっていた。
雪は、深くなっていた。
道の両側に、白が積もっていた。
風が吹くたび、枝が軋んだ。
義周は、声を出さなかった。
孫兵衛も、新八郎も、何も言わなかった。
それは、沈黙の中で交わされる呼吸だった。
籠の中で、義周は筆を握った。
墨は薄く、紙は乾いていた。
何を書くでもなく、ただ手を動かした。
沈黙は、言葉の代わりではなかった。
それは、日々を越えるための形だった。
諏訪に着いた夜、庭の松が影を落としていた。
義周は、目を開けた。
その目に、言葉はなかった。
だが、沈黙は、確かにそこにあった。
高島城南の丸は、静かだった。
諏訪湖から吹く風が、障子をわずかに揺らしていた。
雪は、庭に積もっていた。
白は、音を吸い、時間を止める。
義周は、畳の上に座っていた。
言葉は、ほとんど発さなかった。
供の左右田孫兵衛と山吉新八郎が、日々の世話をした。
食事を運び、薬を煎じ、筆を整えた。
彼らもまた、多くを語らなかった。
沈黙は、三人の間に、ゆるやかに流れていた。
義周は、筆を取るようになった。
墨は薄く、紙は乾いていた。
書かれたものは、誰にも見せられるものではなかった。
それは、声の代わりだった。
雪は、日ごとに深くなった。
庭の松は、枝を垂れ、池は凍ったままだった。
外の世界は遠く、江戸の喧騒も、赤穂の名も、ここには届かなかった。
ある日、孫兵衛がそっと言った。
「若様、春になれば、雪も解けましょう。」
義周は、頷いた。
それは、慰めではなかった。
それは、沈黙の中にある、わずかな応答だった。
だが、雪はまだ降っていた。
白は、すべてを覆っていた。
義周は、筆を止めた。
そして、目を閉じた。
沈黙は、深くなっていた。
南の丸の空気は、少しだけ緩んでいた。
雪はまだ残っていたが、風の匂いが変わっていた。
諏訪湖の水面が、わずかに揺れていた。
義周は、筆を取ることが減っていた。
肩の痛みは深く、指先の感覚も鈍くなっていた。
墨を磨く音が、遠く感じられた。
孫兵衛は、医師を呼びに走った。
新八郎は、火鉢の炭を整えながら、義周の手を支えた。
言葉はなかった。
ただ、仕草だけが、日々をつないでいた。
ある朝、義周は筆を握った。
紙は粗く、墨は薄かった。
それでも、手は動いた。
短い行が、静かに紙に刻まれた。
それが、最後だった。
筆は、机の端に置かれたまま、動かなかった。
雪が、庭で解け始めていた。
松の根元に、土が見えた。
だが、義周はそれを見なかった。
沈黙は、筆の跡に残された。
それは、声を持たぬまま、春を待っていた。
春の兆しは、静かに訪れた。
庭の雪が崩れ、松の根元に土が見え始めていた。
諏訪湖の水面が、わずかに揺れていた。
義周は、筆を取らなかった。
机の端に置かれたままの筆は、乾いていた。
紙は数枚、折り重なるように置かれていた。
墨は薄く、行は短かった。
孫兵衛が火鉢を整え、新八郎が湯を差し出した。
義周は、目を閉じていた。
呼吸は浅く、声はなかった。
その夜、義周は静かに息を引き取った。
誰にも看取られることなく、
声を発することなく、
沈黙のまま、春を迎えることなく。
遺された紙は、供者の手によって包まれた。
それは、手紙ではなかった。
記録でもなかった。
ただ、筆の跡だった。
諏訪藩は、それを越後へ送った。
上杉綱憲のもとへ。
言葉は添えられなかった。
ただ、包みだけが届いた。
沈黙は、そこにもあった。
それは、語られぬまま、歩みを終えた者の記憶だった。
越後の春は、遅かった。
雪はまだ残り、田畑は眠っていた。
上杉綱憲のもとに、ひとつの包みが届いた。
諏訪藩からの使者は、言葉少なにそれを差し出した。
綱憲は、静かに開封した。
中には、数枚の紙と、折られた手紙があった。
墨は薄く、筆跡は揺れていた。
言葉は少なく、行は短かった。
綱憲は、読み終えると、しばらく黙っていた。
庭の雪が、音もなく崩れていた。
誰も何も言わなかった。
その紙は、綱憲の判断で文庫に収められた。
綱憲も、それについて語ることはなかった。
ただ、ある年の春、若き藩士にこう言ったという。
「語られぬものにも、歩みはある。」
その言葉は、記録には残らなかった。
だが、雪とともに、確かにそこにあった。
沈黙は、声を持たぬまま、継がれていった。
それは、戦わざる者の軍記として、
誰にも語られず、誰にも忘れられず、
春の光の中に、静かに残された。




