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0章 まくら──直すのが芸

昼休み、二年一組の教室。

カレーの匂いが廊下から流れこみ、窓の外は十月の光でグラウンドが白い。

壁の掲示板には「文化祭ボランティア募集」の赤い画鋲。

スピーカーからは放送部のBGMが小さく鳴っている。


俺は、立ち上がって、友だち三人の前で宣言した。


俺:(ここで決めろ)「今日から、かっぜつ……活舌、いや滑舌?を治す!!」

  (噛んだ。もういっそ喝舌したい)

友だちA:「今、噛んだよね」

友だちB:「初手から反則」(笑)

友だちC:「フレー、フレー、喝入れろ」(机をコツン)


笑いが起きる。

俺は言い訳せず、胸に合唱コンクールの返却用楽譜を抱え教室を出た。


廊下はワックスで滑りやすい。

右手の窓からは体育館へ向かう他クラスの背中が見える。

昼休み終わりの10分前頃から、少しずつ足音が鐘の役をし始める時間帯だ。


少し歩くと曲がり角手前に音楽室が見えた。

ドアの左側の壁には掲示板があり、端がめくれた「落語研究部:部員募集(猫可)」の手書きポスターが風で揺れている。


俺:(“猫可”って何だ?)


ふと疑問を感じながら俺は掲示板下に設置されていた返却用ボックスに借りていた楽譜を差し込んだ。

ちょうどそのとき、曲がり角奥の廊下で一年生男子が先生と話している声が聞こえた。


一年生男子:「先生、ありがどうございました!」


言い終わりの“どう”が空気に残り、吹き出しみたいな薄いモヤがふわっと浮いた。

一年生男子と先生は職員室の方向へ去り、足音が遠ざかる。


俺:「……空中に字が浮いている?」(見えてるの俺だけ?)


驚きの中、曲がり角奥にある掃除用ロッカーの陰から突然灰色の猫が現れた。

猫は背伸びして、胸より少し下あたりに漂い残っているモヤへ鼻先を寄せた。


猫:「もぐ。」


乾いた豆を噛むみたいな音がするとモヤは消えた。


俺:「……今の、猫がモヤを食べた!?」(落ち着け俺の腹式呼吸。戻ってこい。逃げるな)

猫:「誤字。やわらかい“ど”の香り、本日採れたの旬ニャ」


俺の足は動かず。吸ったはずの息だけがどこかへ逃げていって、声が半音上ずる。


俺:「しゃ、しゃべっちゃ……?」(落ち着け、現実の高校、現実の廊下、現実の猫……のはず)


その時、やわらかい声と共に音楽室から三年の先輩が廊下へ出て来た。


先輩:「その猫はうちの部員だよ。それよりも…。」


制服のボタンはきちんと留まり、指先はゆっくり。

扇子も手ぬぐいも持っていないのに、先輩は空中で湯のみを運ぶ所作をなぞる。

手首の返しに合わせて、廊下に細い風が通り、床の埃が一粒、窓からの光の中でくるりと回った。


俺:(何この所作。物が無いのに、湯のみの重さが見える……)

猫:(所作の“間”、いい出汁が出てるニャ)


先輩:「君、話すのは苦手かな?」

俺:「え、なんでわかったんですか?」

先輩:「君の口元に小さなモヤが出ている。何かを言い間違えた時の印だ。」

   「先ほどの『しゃべっちゃ』と上ずった大声の時のモノだろう。」

俺:「先輩もモヤが見えるんですか?というか噛んだところ聞いてたんですか??」

先輩:「見えるよ。ちなみにその猫の名前はコトハ。言い間違いを食べて言い直せる時間を作る、

    わが落語研究部の部員でね。」

コトハ:「誤字担当のコトハニャ。」

俺:「誤字担当?」(そんな役職アリ?)

先輩:「言い間違いを認識し“直すのが芸”だ。実践して魅せよう。」

俺:「実践って……どうやって?口元の小さなモヤ(文字)を見るだけでも恥ずかしいんだけど。」

コトハ:「そのモヤ、いただきニャ。」(新鮮なうちに食べるニャ)

先輩:「おやおや。説明の前にコトハが先走って君の噛み言葉のモヤを噛んで食べてしまったよ。」

   「順序が逆になったけれど準備はできた。落ち着いて噛んだ言葉を正しい言葉に言い直してごらん。」

俺:「…『しゃべった』。あれ?何かわからないけど、気持ちがスッキリしたような。」

先輩:「コトハはね、"間"の違いを食べて、言い直せる"間"を作ってくれる。」

   「その"間"との向き合い方はその人次第だけど、君はその"間"を活かして弱さを直した。それだけだよ。」

   「ちなみに落語研究部は、そういったつまずきを笑いへの入口に変えていく。」(ドヤッ!)

俺:「“直すのが芸”、"つまずきを笑いへの入口に変えていく"か…まだよくわからないですけど、良い言葉ですね。」


廊下の向こうから足音が聞こえ、国語科の椿先生が私たちの方に歩いてきた。

丸い眼鏡が少しずれて、俺と先輩とコトハを順に見て言った。


椿先生:「もうすぐお昼休みが終わるチャイムが鳴りますよ。ええと、その猫は?」

先輩:「落語研究部の部員です。私たち二人と一匹」

椿先生:「猫?」

俺:「あっ、猫可ってそこに」


俺は掲示板の手書きポスターを指さした。


椿先生:「あ、ほんとだ。これって良いんだっけ?」(自信なさげ)

先輩:「椿先生、約束通り私の他に二名部員を見つけたので、今日の放課後、顧問の件と文化祭の枠について相談のお時間をいただけますでしょうか。」

椿先生:「わかりました。今日の放課後に職員室で話しましょう。今はチャイムが鳴るので、教室に戻りなさい。」


椿先生が職員室の方向に歩いて行った時、昼休み終了のチャイムが鳴る。

金属の響きが廊下を走り、生徒の足音が重なって、風がもう一度通った。

チャイムの音が響き渡る中、俺は先輩にそっと言った。


俺:「俺、いつから落語研究部の部員になったんですか。」

先輩:「明日の放課後、先ほどの音楽室の前においで。色々と知りたいことがあるでしょう?」


先輩は、空の湯のみをそっと置く所作をして去っていった。

コトハは気づかない間に姿を消していた。

チャイムが止む。

掲示板の「落語研究部:部員募集(猫可)」のポスターが、風でまた揺れている。

ポスターの右下に小さく「言い間違いは、直せる。直すのが芸」と書いてあった。


俺:(良い言葉だな。)


俺はすでに、落語の“間(魔)”に魅了されていた。

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