表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/3

第1章 カーラ

 森の入口まで来ると、風の音が少し弱くなった。木々が重なって、日ざしが細かく砕けて落ちてくる。

 アオは肩の袋を持ち直した。中には水と包帯、それから草刈り用の小さな刃物。


 ふたりは、村の子どもでも通る浅い獣道を選び、足音を立てないように進んだ。森の匂いが濃い。どこか安心する匂いだ。

 ……なのに、今日は、動物たちの気配が薄い。ときどき葉擦れだけがして、あとは静かだ。


「……嫌な感じがする」

「うん。早く薬草を採って帰ろう」


 サリアが言うと、アオはうなずいて先に立った。面倒見のよさは、こんなときに頼もしい。彼は足場の悪いところを確かめてから、手で示してくれる。

「僕が先に行くから、サリアはゆっくりついてきて」


 少し歩くと、空気が急にひんやりした。サリアは思わず腕をさすった。今は夏だ。それなのに肌に冷たいものがまとわりつく。


「サリア!」

 アオが草の先を指さす。

 白い粉のようなものが、葉に薄くついていた。指でそっと触れると、溶けて消えた。霜だ。


「冷たい...。夏に霜……?」

「なにかおかしい。戻ったほうがいいかも?」

 アオの声は落ち着いていたが、緊張しているのがわかった。


 サリアは少し迷って、首を横に振った。

「もう少しだけ。薬草の群れがあるの」

「わかった。危なそうなら、すぐに逃げよう」


 ふたりはさらに奥へと進んだ。すると、見慣れない細道が現れた。草が平らに倒れて、まっすぐ続いている。誰かが歩いた跡のようにも見える。

 サリアは足を止めた。胸の奥がざわざわする。


「こんな道、あった?」

「ない。……気をつけて行こう」


 道の先に、薄い霧が流れている。霧の中で、何かが青白く光って見えた。

 サリアはほっと息を吸い込み、歩を進めた。次の瞬間、根に足を取られてつまずいた。


「わっ。痛た!」

 とっさに手を地面につく。皮がすこし擦れて、じん、とした痛みが走った。

「大丈夫?」

「うん、平気。ちょっと擦りむいただけ」


 アオが腰の袋から布切れを出してくれた。

「拭こう。ちょっとしみるけど我慢して」

「ありがとう」

 手のひらを拭き、軽く巻く。アオは落ちた小枝をどけて、足場を整えてから先へ進んだ。


 やがて木々が開けた。

 そこにあったのは、氷でできた建物――いや、宮殿だった。塔、壁、階段。すべてが透きとおるような氷でできていて、内側から青い光がゆらめいている。

 息が、止まる。


「……なに、これ」

「僕もわからない。きれいだけど、少し怖いね」


 宮殿の表面には、細い糸の模様が無数に走っていた。蜘蛛の巣みたいに重なり合って、氷の中に閉じこめられている。

 入口は開いていた。扉はない。中から、カラン……と、氷の鈴のような音がした。


「やめたほうが――」

 アオが言いかける。サリアは短くうなずいた。

「ちょっとだけ。少し見たら、すぐ帰るから」


 ふたりは足を踏み入れた。床は薄い霜の花で模様になっている。踏むたび、やわらかい音がした。

 長い廊下の天井からは、細い氷の飾りが垂れていた。近づくと、それが糸の束だとわかる。白い糸が凍りついたような、張りつめた冷たさ。


「誰か……いますか」

 サリアの声は、すぐに吸い込まれていった。

 返事はない。代わりに、さらに奥から、さっきと同じ鈴の音が響いた。


 広間に出た。

 真っ白な空間。中央に円い台座。台座の上には、糸の巣のような氷の塊。

 その奥で、なにかがゆっくりと動いた。


 女だった。

 白い肌。長い黒髪。よく通る目。美しい顔立ち。息を飲むほどに。

 けれど、台座から伸びる下半身は、蜘蛛の脚に似た細い肢が何本もあった。静かに、音もなく、糸の上をすべる。


 女はふたりを見た。

「人の子」

 声は冷たく澄んで、氷を鳴らすみたいに響いた。

「よく来たわね」


 アオはサリアを守るように少し前に出る。

「僕たちは、森で薬草を探していて、道に迷っただけです。すぐに帰ります」

 いつもの優しい調子だが、声は震えていた。


 女は首を傾けた。

「帰ることはできるわ。もし、何も失わないなら」

 その言い方は、とても静かで冷たかった。


「あなたは..」誰ですか?とサリアが尋ねる。喉がからからに乾いている。

「カーラ」

 女は短く名乗った。


 サリアはうなずき、深呼吸して言葉をつなぐ。

「妹が熱を出しているんです。薬草を探しに来ました。……すぐに帰ります」

 カーラの目が、すっと細くなった。


「祈った?」

「え?」

「願いのことよ。『誰かを守れますように』。そういう幼い祈り」

 サリアは言葉に詰まった。リナのこと?それとも、アオ?


「サリア、下がって」

 アオが小声で言い、半歩前へ出た。

「……彼女を怖がらせないでください。黙って入って来たことは謝ります」


 カーラはアオに視線を移した。

「あなた、強くてとても良い子ね」

「僕は、サリアに笑顔でいて欲しいだけです」

「そう。なら、形にしてあげる」


 カーラの指が、糸の巣に触れた。

 白い糸が、音もなくほどけて、空中へ舞い上がる。次の瞬間、アオの足首にからみついた。


「離れろ!」

 アオが脚を振る。糸はするりとかわす。サリアは思わず飛びつき、糸をつかんだ。

 冷たい。指がしびれる。力が入らない。


「やめて!」

「祈りは、代価で動くの」

 カーラの声には抑揚がなかった。

「あなたたちは『守りたい』と願った。だから、私が形を選ぶ」


 糸がきゅっと締まった。

 アオの体から白い息のようなものが立ちのぼる。光が揺れて形が崩れ、また集まる。

 サリアは、目の前で何が起きているのか、頭が追いつかなかった。


「サリア、離れろ!」

 アオの声。震えているのは、誰の手か。

 サリアはさらに糸をつかもうとして、手に鋭い痛みを感じた。さっきの擦り傷が裂け、血がぽつりと床に落ちた。

 その瞬間、床の影から出てきていた灰色の小さな蜘蛛の脚に、血が1滴、触れた。


 ――カン、と、ほんの小さな音。

 蜘蛛は、そのまま石になった。色が消え、冷たい飾りみたいに固まって、動かない。


「……嘘」

 サリアは手をひっこめた。心臓が大きく跳ねた。

 カーラが、ほんの少しだけ片眉を上げた。

「気づいたかしら」


「……え、私」

 声がうまく出ない。

「時間を止めたの。あなたはもう、老いない。成長もしない。

 それから――あなたの血に触れた者は石になる」

 カーラは事実だけを並べるように言った。

「愛するひとを抱きしめる時は、特に気をつけなさい」


 サリアは足もとが崩れるような気がした。

 石になった小さな蜘蛛。自分の手のひらの血。

 どうやってテオやリナに触ればいい? 神父さまに抱きつかれたら、どうなる?

 息が荒くなる。視界の端が暗く揺れた。


「やめろ!」

 アオの声がした。

 同時に、糸がほどける。そこに残ったのは――手のひらに乗るほどの、小さな竜。

 銀色の鱗が氷の光を反射して、きらりと光った。翼は薄く、まだ心もとない。瞳は、どこか見覚えのある色で、まっすぐサリアを見つめている。


「……サリア」

 小さな声がした。

「僕だよ」


 サリアは、息を吸った。抱きしめたかった。けれど、手のひらを見てしまう。まだ血がにじんでいる。

 ギュッと唇を噛みしめ、震えを抑える。


「元に戻して」

 サリアは、カーラに向き直った。

「お願い。なんでもする。だからアオを――」


「なんでも?」

 カーラはつまらなそうな顔で、糸を撫でた。

「そうね。取り戻したいなら、探してごらんなさい。私を」


「どういこと?」

「この宮殿は、現れては消える。世界は広いわ。千年かけて私を探してごらんなさい」

「代価はもう支払われた。あとは、あなた次第」


 サリアは唇をかんだ。

 小さな竜――アオが、サリアの袖に鼻先を寄せた。

「サリア。僕は平気。大丈夫だから」

 その声は、変わらない。いつものアオの、あたたかい声だった。


 サリアはうなずいた。袖で手のひらを包み、ゆっくり立ち上がる。

「……わかった。あなたを探す。どこに逃げても、見つける」


 カーラは答えなかった。広間に、氷の鈴のような音がひとつ、転がった。

 空気がわずかにゆるむ。入口のほうから、風が戻ってくる。


 サリアはそっとアオを肩に乗せた。

「ごめんね。ちょっと揺れるよ」

「うん。大丈夫」


 広間を出ると、廊下の霜の花は薄くなっていた。外へ出ると、動物たちの気配が戻っていた。葉を渡る風の音。遠くの小川。

 世界は同じなのに、違って見えた。


「急いで帰ろう」

 サリアは言った。

「リナに薬草を飲ませて……それから、神父さまに相談しなきゃ」

「うん。僕も一緒に話すよ。大丈夫、きっとなんとかなる」


 サリアは袖をぎゅっと握り、血が布から出ないように気をつけながら、森を抜けた。

 歩きながら、胸の奥で小さく呟く。――やるしかない。

 千年でも。何年でも。


 村の屋根が見えた。鐘楼の先が、昼の光を受けて白く光っている。

 サリアは一度だけ振り返った。木々の向こうに、あの宮殿はもう見えなかった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ