第1章 カーラ
森の入口まで来ると、風の音が少し弱くなった。木々が重なって、日ざしが細かく砕けて落ちてくる。
アオは肩の袋を持ち直した。中には水と包帯、それから草刈り用の小さな刃物。
ふたりは、村の子どもでも通る浅い獣道を選び、足音を立てないように進んだ。森の匂いが濃い。どこか安心する匂いだ。
……なのに、今日は、動物たちの気配が薄い。ときどき葉擦れだけがして、あとは静かだ。
「……嫌な感じがする」
「うん。早く薬草を採って帰ろう」
サリアが言うと、アオはうなずいて先に立った。面倒見のよさは、こんなときに頼もしい。彼は足場の悪いところを確かめてから、手で示してくれる。
「僕が先に行くから、サリアはゆっくりついてきて」
少し歩くと、空気が急にひんやりした。サリアは思わず腕をさすった。今は夏だ。それなのに肌に冷たいものがまとわりつく。
「サリア!」
アオが草の先を指さす。
白い粉のようなものが、葉に薄くついていた。指でそっと触れると、溶けて消えた。霜だ。
「冷たい...。夏に霜……?」
「なにかおかしい。戻ったほうがいいかも?」
アオの声は落ち着いていたが、緊張しているのがわかった。
サリアは少し迷って、首を横に振った。
「もう少しだけ。薬草の群れがあるの」
「わかった。危なそうなら、すぐに逃げよう」
ふたりはさらに奥へと進んだ。すると、見慣れない細道が現れた。草が平らに倒れて、まっすぐ続いている。誰かが歩いた跡のようにも見える。
サリアは足を止めた。胸の奥がざわざわする。
「こんな道、あった?」
「ない。……気をつけて行こう」
道の先に、薄い霧が流れている。霧の中で、何かが青白く光って見えた。
サリアはほっと息を吸い込み、歩を進めた。次の瞬間、根に足を取られてつまずいた。
「わっ。痛た!」
とっさに手を地面につく。皮がすこし擦れて、じん、とした痛みが走った。
「大丈夫?」
「うん、平気。ちょっと擦りむいただけ」
アオが腰の袋から布切れを出してくれた。
「拭こう。ちょっとしみるけど我慢して」
「ありがとう」
手のひらを拭き、軽く巻く。アオは落ちた小枝をどけて、足場を整えてから先へ進んだ。
やがて木々が開けた。
そこにあったのは、氷でできた建物――いや、宮殿だった。塔、壁、階段。すべてが透きとおるような氷でできていて、内側から青い光がゆらめいている。
息が、止まる。
「……なに、これ」
「僕もわからない。きれいだけど、少し怖いね」
宮殿の表面には、細い糸の模様が無数に走っていた。蜘蛛の巣みたいに重なり合って、氷の中に閉じこめられている。
入口は開いていた。扉はない。中から、カラン……と、氷の鈴のような音がした。
「やめたほうが――」
アオが言いかける。サリアは短くうなずいた。
「ちょっとだけ。少し見たら、すぐ帰るから」
ふたりは足を踏み入れた。床は薄い霜の花で模様になっている。踏むたび、やわらかい音がした。
長い廊下の天井からは、細い氷の飾りが垂れていた。近づくと、それが糸の束だとわかる。白い糸が凍りついたような、張りつめた冷たさ。
「誰か……いますか」
サリアの声は、すぐに吸い込まれていった。
返事はない。代わりに、さらに奥から、さっきと同じ鈴の音が響いた。
広間に出た。
真っ白な空間。中央に円い台座。台座の上には、糸の巣のような氷の塊。
その奥で、なにかがゆっくりと動いた。
女だった。
白い肌。長い黒髪。よく通る目。美しい顔立ち。息を飲むほどに。
けれど、台座から伸びる下半身は、蜘蛛の脚に似た細い肢が何本もあった。静かに、音もなく、糸の上をすべる。
女はふたりを見た。
「人の子」
声は冷たく澄んで、氷を鳴らすみたいに響いた。
「よく来たわね」
アオはサリアを守るように少し前に出る。
「僕たちは、森で薬草を探していて、道に迷っただけです。すぐに帰ります」
いつもの優しい調子だが、声は震えていた。
女は首を傾けた。
「帰ることはできるわ。もし、何も失わないなら」
その言い方は、とても静かで冷たかった。
「あなたは..」誰ですか?とサリアが尋ねる。喉がからからに乾いている。
「カーラ」
女は短く名乗った。
サリアはうなずき、深呼吸して言葉をつなぐ。
「妹が熱を出しているんです。薬草を探しに来ました。……すぐに帰ります」
カーラの目が、すっと細くなった。
「祈った?」
「え?」
「願いのことよ。『誰かを守れますように』。そういう幼い祈り」
サリアは言葉に詰まった。リナのこと?それとも、アオ?
「サリア、下がって」
アオが小声で言い、半歩前へ出た。
「……彼女を怖がらせないでください。黙って入って来たことは謝ります」
カーラはアオに視線を移した。
「あなた、強くてとても良い子ね」
「僕は、サリアに笑顔でいて欲しいだけです」
「そう。なら、形にしてあげる」
カーラの指が、糸の巣に触れた。
白い糸が、音もなくほどけて、空中へ舞い上がる。次の瞬間、アオの足首にからみついた。
「離れろ!」
アオが脚を振る。糸はするりとかわす。サリアは思わず飛びつき、糸をつかんだ。
冷たい。指がしびれる。力が入らない。
「やめて!」
「祈りは、代価で動くの」
カーラの声には抑揚がなかった。
「あなたたちは『守りたい』と願った。だから、私が形を選ぶ」
糸がきゅっと締まった。
アオの体から白い息のようなものが立ちのぼる。光が揺れて形が崩れ、また集まる。
サリアは、目の前で何が起きているのか、頭が追いつかなかった。
「サリア、離れろ!」
アオの声。震えているのは、誰の手か。
サリアはさらに糸をつかもうとして、手に鋭い痛みを感じた。さっきの擦り傷が裂け、血がぽつりと床に落ちた。
その瞬間、床の影から出てきていた灰色の小さな蜘蛛の脚に、血が1滴、触れた。
――カン、と、ほんの小さな音。
蜘蛛は、そのまま石になった。色が消え、冷たい飾りみたいに固まって、動かない。
「……嘘」
サリアは手をひっこめた。心臓が大きく跳ねた。
カーラが、ほんの少しだけ片眉を上げた。
「気づいたかしら」
「……え、私」
声がうまく出ない。
「時間を止めたの。あなたはもう、老いない。成長もしない。
それから――あなたの血に触れた者は石になる」
カーラは事実だけを並べるように言った。
「愛するひとを抱きしめる時は、特に気をつけなさい」
サリアは足もとが崩れるような気がした。
石になった小さな蜘蛛。自分の手のひらの血。
どうやってテオやリナに触ればいい? 神父さまに抱きつかれたら、どうなる?
息が荒くなる。視界の端が暗く揺れた。
「やめろ!」
アオの声がした。
同時に、糸がほどける。そこに残ったのは――手のひらに乗るほどの、小さな竜。
銀色の鱗が氷の光を反射して、きらりと光った。翼は薄く、まだ心もとない。瞳は、どこか見覚えのある色で、まっすぐサリアを見つめている。
「……サリア」
小さな声がした。
「僕だよ」
サリアは、息を吸った。抱きしめたかった。けれど、手のひらを見てしまう。まだ血がにじんでいる。
ギュッと唇を噛みしめ、震えを抑える。
「元に戻して」
サリアは、カーラに向き直った。
「お願い。なんでもする。だからアオを――」
「なんでも?」
カーラはつまらなそうな顔で、糸を撫でた。
「そうね。取り戻したいなら、探してごらんなさい。私を」
「どういこと?」
「この宮殿は、現れては消える。世界は広いわ。千年かけて私を探してごらんなさい」
「代価はもう支払われた。あとは、あなた次第」
サリアは唇をかんだ。
小さな竜――アオが、サリアの袖に鼻先を寄せた。
「サリア。僕は平気。大丈夫だから」
その声は、変わらない。いつものアオの、あたたかい声だった。
サリアはうなずいた。袖で手のひらを包み、ゆっくり立ち上がる。
「……わかった。あなたを探す。どこに逃げても、見つける」
カーラは答えなかった。広間に、氷の鈴のような音がひとつ、転がった。
空気がわずかにゆるむ。入口のほうから、風が戻ってくる。
サリアはそっとアオを肩に乗せた。
「ごめんね。ちょっと揺れるよ」
「うん。大丈夫」
広間を出ると、廊下の霜の花は薄くなっていた。外へ出ると、動物たちの気配が戻っていた。葉を渡る風の音。遠くの小川。
世界は同じなのに、違って見えた。
「急いで帰ろう」
サリアは言った。
「リナに薬草を飲ませて……それから、神父さまに相談しなきゃ」
「うん。僕も一緒に話すよ。大丈夫、きっとなんとかなる」
サリアは袖をぎゅっと握り、血が布から出ないように気をつけながら、森を抜けた。
歩きながら、胸の奥で小さく呟く。――やるしかない。
千年でも。何年でも。
村の屋根が見えた。鐘楼の先が、昼の光を受けて白く光っている。
サリアは一度だけ振り返った。木々の向こうに、あの宮殿はもう見えなかった。