奇跡と踊れ、悪役令嬢 ~カサンドラは自分を曲げない
結婚五日目、カサンドラは朝食に出向かなかった。
朝の支度さえろくに手配できない使用人は、床で足を折って震えている。
「お……おゆるし、ください……」
ときどき掠れた声でそう訴えてくるが、カサンドラがした命令は「すわっていること」のみだ。
部屋の扉が叩かれ、しかしカサンドラはこたえなかった。使用人がそちらをしきりに気にしている。
何度も扉は叩かれる。叩かれるたびに性急さを増し、カサンドラは欠伸をした。
「失礼いたします、開けてよろしいですか?」
声がかかる。執事のヤンだ。数度おなじ問いがくり返された後、扉が開かれた。
壮年のヤンは長椅子で足を伸ばすカサンドラを認め、目元に剣呑な色を浮かべる。
「……お声をかけさせていただいておりましたが」
「開けていいなんて一言もいっていませんよ」
「無視なさるとは思いもしませんでした」
カサンドラは胸元に流していた黒髪を背に払う。
「朝食の時間を過ぎておりますが、お見えになりませんでした。なにか問題でもございましたか」
ドゥメール公爵家では、朝食は家族が揃って摂るもの――それが慣わしだと聞いている。
ただし現在屋敷に残っているのは、カサンドラと義母のみだ。義父と夫は事業の都合で屋敷を離れている。
結婚一日目からずっと、カサンドラの食事は色のついた水とかたいパンのみだった。義母の前の用意された食事は、定型ともいえるまっとうな食事である。
「まさか待っているの?」
「いいえ、奥さまは朝食はお済みです」
「では問題はありませんね」
「カサンドラさま、奥さまをお待たせして――」
「家族で朝食を摂る決まりだから、もう済ませたのでしょう? 問題はないのでは?」
言わんとするところを理解したのだろう、ヤンは視線を逸らすと咳払いをする。
――嫁いできたカサンドラは、家族に含まれていない。
「し、しかしカサンドラさま、ドゥメール家に嫁がれた自覚をお持ちください」
「あなたは長くここに仕えているの?」
「……二十年ほどになります」
なにか言いがかりをつけられるのか――そんな不安に駆られているのか、ヤンの目が一瞬揺れていた。
「あなたから見て、私への対応は正しい?」
「それは……」
動揺するヤンの様子がおかしく見えて、カサンドラはつい意地悪にそんな質問をしていた。彼の立場で主に逆らえるはずがないのだ。主とカサンドラの間に立たせるのは、少々哀れなことではある。
「な、なにかお考えがあってのことです」
「そう? だからあなたも勝手に扉を開けるし、そのことについて謝罪しないし、この使用人も」
カサンドラが目を向けると、床にすわりこんだ使用人は身を震わせた。
「私に水をかけて笑っていたのね」
まだカサンドラの髪は、彼女が浴びせてきた水気で湿っている。
そんな真似をしておいて、見逃されると思ったのが彼女の浅はかな点だ。
命じた人物をカサンドラより上、そう判断してのことだろう。だがそれをカサンドラが許す理由にはならない――貴族に水をかけて笑っているなど、冷静になれば処刑される理由になるとわかるはずなのに。
「この者に無礼がありましたなら、罰を下します。ですが……このように先んじて罰を与えるのは」
「貴族の与える罰則は、ずいぶんと甘いものになったのね」
多少、立場をわきまえるよう話したが、それだけだ。叩いてもいなければ、報復するともいっていない――許すとも、言う気はないが。だからすわっていろ、と命じた。許す気はない、だが見逃す気もない。
「も、申しわけございません……どうかお許しください……っ」
嫁いでからずっと、カサンドラにあてがわれた使用人だ。
生家であるオードラン公爵家から侍女を伴うことを許されなかった――それを知らされたのは、婚家に到着してからだった。
したがってきたカサンドラの侍女は帰され、そのときに運び込んであった荷のほとんどが突き返されている。
あるていどカサンドラを弱らせ、立場を叩き込む算段ではないだろうか。一昔前二昔前ならいざ知らず、今時嫁をしたがわせたい姑――そんなものが実在するとは信じがたい。だがそれも、通常の政略結婚なら、だ。
「カサンドラさま、これまでになさっていたような所業は、ドゥメールでは通用いたしません」
思わずカサンドラは声を上げて笑っていた。
「……あなたが私のなにを知っていると?」
「カサンドラさまのお話は、いくつも聞き及んでおります。ドゥメールに仕えるものだけでなく、国中の人間が」
「噂を聞きかじって、それで他人を知ったつもり? そんな認識のものを二十年執事として抱えるなんて悲劇だわ」
ヤンの目元が冷たいものになる。そんな目をする執事という立場のものを、カサンドラははじめて見た。
彼のいう噂なら耳にしている。
カサンドラの悪評だ。
発生源ならいくつか突き止めていた。
幼いころに蹴散らす結果になった遠縁の令嬢、婚約者がカサンドラに言い寄ってきた令嬢。
なにより声高だったのは、この婚家であるドゥメール公爵夫人――カサンドラの義母となったミレイユだ。
数代前からオードラン家とドゥメール家は犬猿の仲であり、分断と衝突をくり返してきた。
両家が揉めていても誰も異常と捉えず、憎しみを煽り合う月日があり――悪噂を広めようと、義母のミレイユが躍起になってもおかしくない。
そのくらい、両家は昔から不仲だった。
カサンドラが生まれたときには、すでにミレイユはドゥメール公爵夫人の座に収まっていた。婚家の怨敵であるオードラン公爵家の娘――カサンドラは、幼いころから彼女に名指しで貶められていたのだ。
悪辣な人間だという、盛りに盛った噂が出来上がっている。
カサンドラとしては、そんな噂を信じ、あるいは信じたがる人間が多くて驚かされている。
まさかそんな両家の婚姻が成るなど、誰も想像し得なかっただろう。
この結婚は王命だ。
大陸各国の関係も安定している今代、関係の修復を望む国王による命令で決まった結婚だった。
カサンドラにしてみれば、反目し合う渦中に急に放り込まれることになった。あまりに昔のこと過ぎて、正確な原因の究明ができないのだという。それならおそらく、些細なきっかけなのだろう。小石が坂を転がるうちに、様々なものに影響を及ぼし大事になる。
絶対の王命により、婚約から結婚までの期間はひどく短いものになっている。
結婚が成立しひとり婚家に出向けば、ひたすら灼けた石の上を歩かされるような状態だ。
披露宴は来年の初夏の予定だが、まだ準備に入っていない。そのときの衣装を縫う針子たちが、忙しさに泣くことにならなければいいが。それまでは国内諸侯はどうやら両家が結婚したらしい、とその情報だけを与えられた状況になる。
「カサンドラさま、食堂に一度いらしてください。遅れてのご到着でしたが、今朝はアーロンさまがお見えですので」
「まあ、帰ってくることがあるの?」
嫌みなどではなく、驚嘆の声が出ていた。
カサンドラが嫁いだ相手――アーロン・ドゥメールだ。
結婚式直後には、挨拶もなしに新婦であるカサンドラのそばを離れた。
彼には恋人がいる。
婚前に参加した各所の夜会や晩餐会で、ふたりが並んでいるところをよく見かけた。お茶会で彼の恋人が惚気ている姿も。
睦まじいのはいいことだ、
アーロン当人はカサンドラには印象がよかった。おたがいの生家が犬猿の仲だということを忘れさせる、それのみならず、カサンドラにまつわる噂など存在しないかのような態度を取ってくれた。彼は母であるミレイユから、憎しみを引き継いでいなかった。
「朝食を摂られましたら、アーロンさまはご出立されると……」
ことわる理由が思い浮かばず、カサンドラは腰を上げることになっていた。
金の髪と深い青の瞳を持つアーロンは、ひどく不機嫌そうだった。
妻としてとなりに立ったのは結婚式のときだけだ。そのカサンドラでも、彼が不機嫌だとわかる。
こんな顔を見ることになるなら、時折パーティで雑談をするだけの間柄でいたかったものだ。
カサンドラはアーロンを不憫に思っている。
噂はひどいものだが、実際のカサンドラは貞淑を重んじていた。
だがアーロンと彼の恋人は情熱を重んじてきた。
王命とはいえ、突然現れた拒否できない新妻に、アーロンも恋人のサリア嬢もいい迷惑だろう。
――アーロンが恋人としあわせになったらいい。
そう本気で願えるくらい、カサンドラはアーロンを好ましく思っていた。
顔を合わせた数少ない機会にも、彼はかなり公平な気質に見えたのだ――だからこそ、カサンドラとの結婚という難事を押しつけられたのかもしれないが。
食堂にはすでにアーロン以外に着席しているものはいなかった。
彼の前には手つかずの朝食が並び、おなじくカサンドラの前にもいつもとおなじ悪意をかたちにしたような食事が並んでいる。
「……カサンドラ、食事に出てこないと聞いたが」
のどに絡んだ、聞き取りづらい声だった。
「私に用意されるものは、いつもこういったものですので。これを食事と呼ぶのですか?」
「そんなことを……まさか」
置き去りにされている皿には、底に砂の沈んだ液体が溜まっている。スープ皿によくこんなものを入れたものだ。かたわらにあるパンからは、いっさいの水気が失われているとわかる。わざわざ外気にふれさせて、この状態にするのだろうか。
「信じなくてけっこうです。あと……せっかくお話のできる機会ですので、お時間をいただけますか」
「ああ、なんでも話してくれ」
アーロンが居住まいを正した。ドゥメール家に来てはじめてひとと話す気分になった。
「後継者のことですが、私としては不和の種を持ち込むことを望んでいません」
「こ、後継者というと……子供の……?」
咳払いをするアーロンにうなずく。
「私としては、後継者はそちらの恋人との間で考えていただいたほうがいいと」
アーロンがぽかんとした顔をし、それから顔を赤くしていく。
「き……きみはそんな不埒なことを……!」
「そうでしょうか? 私はサリア嬢と関わるつもりはありませんし、そちらで決めてください」
それでは婚外子となるから、ドゥメールとしては避けたいかもしれない。
場合によってはカサンドラの実子ということにして、サリア嬢との子がドゥメールの第一子ということになる。カサンドラはドゥメールの血筋に興味がない。それでもべつにかまわなかった。
ナプキンをにぎりしめ、それを置き――アーロンは落ち着かない様子だった。
「サリア嬢? 彼女のことを調べたなら」
「そんな手間は取っておりません。サリア嬢から知らせてくださいましたよ」
「知らせ……?」
恋人が直談判すると思わなかったのか、それを知らされていなかったのか。アーロンがひどく驚いているのがわかる。
「彼女とお義母さまがご一緒でした、結婚式の直前に」
こちらを罵った口で、親戚の目があるためか、式の後おめでとうと祝福してきた。憎しみで彩られた表情を向けていたのに、アーロンと並ぶカサンドラたちに笑顔を向けていた。
「私のせいであなた方の結婚が叶わない、そうおっしゃってました。王命を退くためにも、私が死ねばいいと……ほかの方の耳に絶対に入らないようになさってください」
王命での結婚は、国にとって失敗の許されない種類の事業だ。それに異を唱えていると周囲に知られるのは、両家にとって大変よろしくない。
「今後のことも含め、そちらで話し合った結果をお知らせくださいますか? あの方たちだけでは会話になりませんので、もし私に報告なりをする場合はあの方たちを呼ばないか……ほかに誰かつけてください」
アーロンはカサンドラの顔を見つめ、それからスープ皿を見つめた。
「……きみはそのような言われ方をして、なにも思わないのか」
「愚問です」
カサンドラはスープ皿を彼のほうに押した。軽々と揺れる表面には、屑野菜すら浮いていない。
「要求もしないのか? されるがままでいれば、弱者を気取れるとでも」
「これで私のまわりに味方がひとりもいないと、はっきりしましたね」
カサンドラはアーロンから視線を逸らさなかった。
「俺に相談するつもりも起こらなかったのか」
「結婚式の後から顔も合わせておりません。どうやって相談を?」
「最初からそうやって拒むつもりだったのか?」
「拒んだことなどございません。式の後、一度もお見えにならなかったのはアーロンさまです。私は庭の散歩も、オードランに手紙を書くことも禁じられておりますわ――夫人としてわきまえろと、そう言われておりますから」
見るからにかたそうなパンの表面を、指先で叩く。上がった音も、かすかながらにかたそうなものだ。
「手紙を出してはいけない、というのは」
「ドゥメール家の内情を密告されてはならないと、そういった懸念だそうです。まずは私が信頼されるなければならない、と」
アーロンが口ごもり、口元を手で覆った。
「中身をあらためても構わないと申し上げましたが、その手間を要求するのは図々しいそうです」
戸惑いの滲んだ視線をアーロンが方々に投げかける。現状を知っていようがいまいが、彼は夫としての務めを果たすつもりはないだろう。
「カサンドラ、手をつけていないんだ。これを」
自分の前に供された料理をしめすアーロンに、カサンドラは笑った。
「……ご用はお済みのようですね」
席を立ち、アーロンの顔も見ず返事も待たず、カサンドラは食堂を後にした。
●
オードラン家に連絡を取らせまいというのがわかる。
カサンドラは手紙のひとつも送ることができず、助けを得られない――その状況にしたいのだろう。そしてまんまとその状況に陥っている。
ドゥメール家でのカサンドラの状況は、多少なりとも変わりつつあった。
ヤンの態度が軟化し、それを目にした使用人が追従するようになっている。
忠実な執事の態度が変わるほどに、カサンドラ自体にも変化があった。
体調が著しく悪化している。
眩暈と倦怠感がひどい。鏡に映る姿はひどく痩せ、肌と髪から艶が消え血色も悪い。
すでにまともな食事を摂らなくなってから半月が経っているのだ、なにも不思議ではなかった。
使用人同士の会話から、殺す気なのか、と戸惑った声を拾ったこともあった。おそらくカサンドラが待遇の改善を求め、懇願するのを義母であるミレイユは待っているのかもしれない。
だがそれは起こらなかった。
そうする理由がない。
夜陰にかすかなノックの音を聞き、誰何すると返事をしたのは執事のヤンだ。
「のちほどスープをお持ちします。夜になるとは思いますが、どうかそれを……消化のいいものを用意いたしますから」
人目を避けて部屋を訪れた彼は、声をひそめている。何度か軽食を差し入れようとしてくれたが、受け入れたのは二度ほどだった。
「いいえ、持ってこなくてけっこうよ」
「し、しかしカサンドラさま」
「それを用意したあなたの首まで、私は責任を取れないわ」
食堂に足を向けることもなくなっている。義母の采配で部屋に食事が運ばれるが、そちらもまともな料理ではなかった。
泥水と石のようになったパンは、無理をしてももうのどを通らないだろう。
「私が責任を取れるのは、自分の生命だけよ」
あまりの身体の重さに、驚くほどだ。
倦怠感は眠りと覚醒の境界を曖昧にし、アーロンの顔と声で呼びかけてくる存在を、最初カサンドラは夢の産物だと思っていた。
「つかまれるか? 俺の胸によりかかるんだ、カサンドラ」
身体の浮き上がる感覚のなか、甘くさわかやか香りを嗅ぎ取った。
カサンドラは自分がベッドから、そして私室から運び出されているのだと理解し――それが現実だということにも理解が追いついたのは、玄関ホールに立つ父と兄をその目に認めてからだ。
「……これ、は」
カサンドラは内心驚いていた。元気があったら、顔にも声にも出ていただろう。
狼狽した様子の使用人たちに囲まれ、カサンドラの父と兄――オードラン公爵家当主と公子が立っている。すでになつかしささえ覚えるふたりの表情は、これまでに目にしたことがないほどの怒りに彩られていた。
「カサンドラ、このままオードランの馬車に」
「どういうことですか」
身体に力が入らない。アーロンの胸に耳を押し当てたまま、カサンドラは目だけであたりをうかがった。
騒ぐ使用人たちのなか、執事のヤンが静まるよう厳しい声を飛ばしていた。客人があるときに、使用人が騒がしいのは恥となる。
「説明は後だ。いまは……きみの父君たちが迎えにきているから」
まずはここを出ろ、ということらしい。
カサンドラは混乱しかけていた。朦朧とした意識の見せる幻かもしれない。
こんな状況下であっても、身を預けたアーロンの胸を頼もしく感じた。眠れるものなら、きっと心地いい眠りに落ちていけるだろう。
「何事です!」
ふわりと漂いかけていたカサンドラの意識をはっきりさせたのは、雷鳴のように轟いた義母ミレイユの声だった。
「オードラン公爵を招き入れていいなど、私は許していませんよ!」
頭を垂れたヤンにミレイユは平手を食らわせると、アーロンに抱えられたカサンドラに気がついた。カサンドラと目の合った彼女の身体を、激しい震えが駆け抜けたのがわかる。
「ど……どういうことなの、アーロン」
彼はこたえず、まっすぐカサンドラの肉親――オードラン公爵の元に向かった。
「カサンドラ……こんなことになっていたなんて」
父が声を詰まらせ、兄が怒りを隠さない瞳をミレイユに向けた。
いまのカサンドラの姿を、父と兄が喜ぶはずがなかった。
「ぶ、無礼でしょう、招かれてもいないのに、こんな真似をして……!」
「娘は連れて帰る。まさか異論があるとでも?」
兄の大きな手のひらに、頬を包まれた。兄がずっと愛用している香水の香りが漂ってくる。
「その娘はドゥメールに嫁いだのですよ、オードランとは無関係です!」
その言い草が通るだろうか。衰弱したカサンドラが引き出されたのだ、それも肉親の前に。この状況をどう説明するのか興味がわき、カサンドラは父を見上げた。
アーロンとは一度も褥を共にしていない。彼は恋人のところから戻らないのだ――それを口にするか迷う間に、兄が大きく手を振った。
「その決定を夫人がするとでも?」
「……カサンドラを連れ出すのは、夫である俺だ。誰にも文句は言わせない」
アーロンが断言すると、ミレイユが目を見開いた。
「ヤン、母上を部屋へ。部屋から出すことは許さん、すべて閣下の許可は得ている」
「アーロン!」
ミレイユが声を荒げても、ヤンは揺らがなかった。
執事はドゥメール家に仕え、ドゥメール家とは当主あるいは公子のアーロンである。
「閣下は領地の視察から近々屋敷に戻ってこられる。それまでの管理は補佐官たちに一任する」
家を守ることが公爵夫人の務めだが、ミレイユは万全とはいかなかった。王命である結婚を疎かにしてしまったのだから。
「アーロン……私がそんなことを許すとでも……」
「閣下は許しておられる。暴れるなら捕縛や投薬も許すとのことだ」
何度か口を開け閉めし、ミレイユがその場に崩れ落ちていく。
「ヤン、あとは任せた」
「かしこまりました」
頬を包んでいた兄の手が離れていく。
するとべつの甘くさわやかな香りが鼻腔をくすぐった。
アーロンの香りだ。
倦怠感に目を閉じた途端、カサンドラは意識は闇に滑り落ちていった。
●
「どうか安静にしていてください」
誰でも下せそうなそんな診断をしたのは、カサンドラが産まれたときから診てくれている医師だ。
オードランに戻った日からカサンドラは熟睡し、温かい料理と口にした。スープとやわらかく蒸した野菜でも、カサンドラの身体を案じてつくられた料理だ。身も心も落ち着くことができた。
適切な生活に、あっという間に体調は回復していった。
たったひとつきにも満たないドゥメールでの生活は、ただの悪夢に落ちぶれている。
髪と肌の艶も戻ったある日、カサンドラは父とともに出かけることになった。
行き先は王城だ。
王命である結婚に問題が起きてしまっているのだ、説明でも釈明でも弁明でもなんでもいい、聴聞の場が設けられるのだろう。
生家ではドゥメール家に関する質問は許されなかった。両親や兄だけでなく、長年仕えてくれている侍女も怒りを隠さなかったのだ。
さすがに王城に向かうとなれば、子細が明らかにされるだろう。
一同が会したのは、花の咲き乱れる庭園のなかほどに用意された広場だった。庭園の散策の最中に足を休める場所であり、すでに国王陛下が腰を下ろしていた。
ほかに椅子はなく、長丁場にするつもりはないのだろう。
挨拶のためにスカートに手をかけたカサンドラに、陛下は手を振って笑った。
「養生中の令嬢を呼び立てたのだ、それ以上のことをさせるつもりはない。そもそもこれは非公式でね――両家が和解するための結婚だ、その後の話を聞かせてもらいたい」
陛下の声も表情も柔和なものだ。だが内包した憤りを隠すつもりはないらしく、それが強まりませんようにと祈る途中、召使いがドゥメール家の到着を告げた。
ドゥメール公爵夫妻と、公子であるアーロンの三名が現れると、カサンドラは胸に重苦しいものを覚えた。
本来なら、カサンドラはそちらに立って然るべきだった。
向かい合ったドゥメール公爵家夫妻の顔色は悪い。ただひとり、アーロンの決然とした目元が印象的だ。
「簡潔に話を聞きたいんだ。もてなさないよ、全員風のように散っていくのが理想だからね」
さっさと釈明しろ――カサンドラの耳には、陛下の言葉はそう聞こえた。
「では陛下、わたくしから失礼させていただきますが」
先んじて口火を切ったのは、父であるオードラン公爵家当主レターだった。
「我が娘カサンドラと、アーロン・ドゥメール公子の結婚後、まったく知らせが届きませんでした。婚家に送った娘の荷物も、侍女とともに返されました。状況を尋ねる使いをやっても、手紙を送っても戻ってくる。これをドゥメール公爵家の夫人としてふさわしい教育のためと言い訳されて、納得できるものではありません」
ドゥメール公爵夫妻のうち、腹を括ったのは当主のみらしい。ミレイユはいまにも叫び出しそうに口元を震わせていた。
「納得しなくて正解だった……まさか食事もあたえず、娘を餓死させるつもりだったとは」
「ち……ちが……っ」
ミレイユが声を上げようとすると、夫のドゥメール公爵がその肩を後ろから引き寄せた。
「妻が取り乱し、申しわけありません」
他者の発言中に声を上げるなど、あってはならないことだ。とくに今回は同列の貴族間の対話の席であり、穏便な会談であるはずもないのだ。
「好きに話せ、公式の場ではない」
陛下がそういうなら、それが正しい――それでもミレイユの震えはおさまらず、きつく目を閉じると夫の胸に体重を預けていった。
「屋敷内でどのような指示がされていたのかまでは、私にはわかりません。ですがドゥメール家でつけられた使用人の対応は悪く、あれは後ろ盾もなく取れる態度ではありませんでした」
屈辱や悲嘆より、ここで自分は生命を落とすのかもしれない、という予感が怖かった。
「わざと水をかけてくる使用人なんて、ドゥメール公爵家以外で私は知りません。私は妻どころか、客人とも見なされていなかったのでしょう」
王命での結婚であり、カサンドラの生家は公爵家なのだ。
その相手に対して無礼を働き続けるなど、それを隠し通すつもりでなければできないことだ。
「……どれだけ嫌悪感がある歓迎のできない客人であったとしても、オードランでは礼節をもってもてなします」
いまカサンドラはドゥメール公爵家を出ている。となりには父がおり、この国の絶対である国王陛下の御前だ。
「私はドゥメール公爵家で悪辣な環境に置かれました、私が今後信頼することはありません」
ミレイユはなにか言いたそうに顔を歪めたが、その肩を公爵が強く引き寄せる。
「彼らの行動動機は、私の噂が原因のようでした。婚前からのもので、私がひどい振る舞いばかりしている、そういった噂があります。ドゥメール家内で過去のような真似をできると思うなと……やはり使用人にいわれております」
となりに立っていた父が、一歩前に出た。
「陛下、娘にまつわる噂は当家も聞き及んでおります。すべて事実無根――以前調査いたしましたが、噂の発生源としてミレイユ・ドゥメール公爵夫人の名が多く上がっておりました」
それを知ったとき、兄は開口一番叩きのめすべきだと主張していた。
「手を打とうとした矢先、陛下から結婚せよと」
陛下が気まずそうな顔をした。何度か謁見したことがあるが、そんな表情ははじめて目にするものだった。
ミレイユの表情と雰囲気から、刺々しいものが消えていく。
観念したのだ。
「オードランから……」
か細い声だが、となりに立つオードラン公爵閣下はしっかりと彼女の肩に手を回している。
ミレイユを支えているのだ、彼女のしたことをすでに受け入れ、ともにこの場に出てきた。
「公女を妻を迎えるにあたって、間違いがあってはならないと……多少立場を……わかってもらえれば、わたくしはそれでよかったのです」
「立場?」
父の発した声はひどく冷たい。
そしてそれ以上に、アーロンが自分の母に向ける目は厳しいものだった。
「まさか、あれほど強情に……食事を拒むだなんて」
「……母上、俺が朝食に同席したとき彼女の席にあったもの……あれが食事だと? あれを口にしろと?」
詰問でも非難でもなく、アーロンの声は悲しそうだ。
「き、きちんと食事を要求するなら、おなじものを……っ」
荷物と侍女を生家に戻し、なにも持たないカサンドラを追い詰めようというのは――どんな気持ちだったか。
「そもそも、どうしてオードランとあなたがあの娘を連れ出しにきたの!」
それはカサンドラも知りたいことだ。
アーロンが一緒だった理由はわからないし、まだ教えてもらえていない。
「……公爵夫人、生家に手紙が届かなければ、私の身上が危険な状態と受け止めると……そうオードランと話してありますの」
おなじ国内にあっても、連絡手段は限られる。
手紙の検閲をしてもいい、とカサンドラは譲歩した――実際あそこで手紙を届けてもらえると思っていなかった。だが届くなら、カサンドラとしても譲歩しようと考えていたのだ。
なぜなら、これは王命によるものだからだ。生家のためにも、カサンドラはどこかで折れなければ、と暗澹たる思いを抱いていたのだ。
しかしすべて封殺されてから、責任を問われるのはドゥメール側だけだと気がついた。
だから持久戦になった。
カサンドラから知らせがなければ、生家はきっと動いてくれる。
「夫人が私を嫌っているのは承知しております。傷つけていいと思っていらっしゃるのも、それを実行してしまえるほどだということも。ですがそのように思われている私でも、オードランの家族に愛されている自負があります」
カサンドラを侮辱するのは、オードランに刃を向けることとおなじだ。
「私が傷つけられたら、私を愛してくれる家族は悲しみます」
悲しんだ上に、猛攻に出るだろう。
この結婚の采配が国王陛下でなければ、とっくに制裁をはじめているはずだった。
「そうやってオードランを持ち出すのは、結婚する自覚が……」
あまりに苦しい反論に、陛下が笑い出した。
「ドゥメール公爵夫人、愉快な意見をありがとう。度を超した戯れのつもりだったようだが、ここまでの事態になるとは考えていなかったのか?」
聞こえてきたため息は、アーロンのものだった。
「結婚式の後、母上から……きみが結婚を拒否して、俺に会いたがっていないと聞いていたんだ。気持ちが落ち着くまで時間を取って、それからでも今後のことを話したいと思っていた」
それを伝えていってくれたら、というのは要求しすぎか。
アーロンにそう説明されて、カサンドラの気持ちが軟化していく。食堂で顔を合わせたとき、もっとべつの伝え方があったはずだ。
「様子見に戻ったら、朝食の席があんな状態だったから、父上とオードラン公爵閣下に至急使いをやったんだ」
目だけで見上げると、父がうなずく。
「あまりに便りがないから、閣下も心配されていて――だが子細を尋ねられても、俺もなにもわからなかったんだ。俺は新しい事業をはじめたところで、父上も忙しくて屋敷のことは母上任せだったから」
もっとはやく介入できたのでは、という考えが頭に広がる。しかし内政を任せた女主人の領域に足を踏み入れるのは、なかなかできることではないだろう。
「すまない、カサンドラさん」
彼が謝罪を口にした瞬間、ミレイユがその場に泣き崩れていった。
ミレイユの涙する声のなか、ドゥメール公爵閣下もまたカサンドラに向き直った。
「妻の間違ったおこないは、わたしの間違いでもある。ドゥメール公爵家に正式に謝罪する」
頭を下げる姿に、一番満足そうなのは陛下だ。
「この結婚に汚点があってはならない。賠償については各家で話し合ったらいい――若いふたりは、今後どうしたいと?」
「……可能なら、あらためて俺が婿入りしたいくらいです」
それを聞き、目を剥かなかったのは陛下だけだった。
「それはいいな、また結婚式をするか?」
「ア……アーロン、そんなこと、あなた……後継者をどうするつもりなの!」
涙と悲鳴にまみれたミレイユの顔は、化粧が崩れ壮絶な状態になっている。
実母の行動をかんがみれば、婿入りしたいくらい、というアーロンの気持ちはわからないでもなかった。
「後継者はべつに傍系からでも」
「なにをいうの! あなたが後継者なのよ! あなたが……次のドゥメールなのよ!」
ドゥメール公爵家もオードラン公爵家も、男子はそれぞれ嫡男ひとりしかいない。今後ミレイユと縁を切るのは難しそうだ。きっちり賠償されるなら、カサンドラはもうそれでよかった。すべてが露呈した彼女の立場は、それなりに苦しいものになるだろう。
「母上、俺はドゥメールから出ていきたいくらい、あなたの行動を恥ずかしく思っています」
すべてを白日の下にさらすには、いまがいい機会かもしれない。カサンドラは咳払いをする。
「前向きに考えてくださっているようですが、サリアさんはどうされるおつもりですか?」
「サリア嬢と俺が恋仲だったことはありません。恋仲にさせたいのは母上です――あんな身体をすり寄せてくるような女、虫唾が走る」
表情からして、心底アーロンはいやがっているようだ。
「ですが、婚約前からアーロンさまと親密だとお話でしたよ。お茶会で同席した方は、みなさん聞いていらっしゃると」
「……それについても、我々で調査しました。サリア嬢と交流のある友人を中心に、既成事実じみたことも吹聴していました」
父の声が終わるより先に、アーロンとドゥメール公爵閣下の目がミレイユに向かった。
サリア嬢と義母は、ふたり揃ってカサンドラの前に立ったこともある。サリア嬢の言動も、発端はミレイユかもしれない。実際の彼女の気持ちはひとまず置いておく。
「サリア嬢は母の親戚筋です。昔から母が俺の妻にさせたがっていて」
重苦しい口調からして、過去にいざこざが起きていそうだ。
「陛下の命で今回の結婚が成りましたが、もしそれがなくとも……俺はサリア嬢と縁づくつもりはありませんでした」
「ど……どうしてよ! あんなにかわいらしい子……」
「母上、何度もいっているでしょう。彼女はわがままが過ぎるし他人を蹴落とすことしか考えてない。そこに知性もなにもついて来ていないんです、俺とカサンドラにどうこう言う以前に、もっと彼女に学ばせてあげてください」
貴族の令嬢は教養を身につける機会が用意されている。社交界に出るということは、その段階を過ぎたという証明だ。身をもって証し立て、家名を負う責任を自覚せねばならない。
多少調べて発覚するようなことは、交渉術の賜物でもなんでもないだろう。
もっとサリア嬢は学ぶ機会があったほうがいい。ミレイユもサリア嬢も、王命が絡むことがどれだけ重いものか、理解がまったく足りていない。
理解のなさは、カサンドラに対しても向いていた。
ミレイユもここまでカサンドラが衰弱することになると思ってもみなかったらしい。
軽くいたぶればカサンドラが従順になり、思いのまま操れると思っていたようだ。
「今後妻は……病気療養とし、西の領地で暮らすことといたします」
夫の言葉にミレイユが弾かれたように顔を上げた。信じられないものを見る目で夫を見上げ、その頬に涙が伝っていく。
「西?」
父に尋ねたカサンドラに、アーロンが眉をひそめてうなずいた。
「ドゥメールが管理する監獄のあるところだ。物寂しいところで……」
アーロンの小声は最後まで聞き取ることができなかった。
ミレイユが悲鳴を上げ、むせび泣きはじめた。
「ドゥメールでの決定だ。くつがえらん」
夫の宣告に、ミレイユが叫び出す。
あそこまで耐えたカサンドラが悪い――そう訴える叫びを背に、退出することとなった。
公的な場でないため、カサンドラが退出するのははやかった。
父を城に残し乗り込んだ馬車には、なぜかアーロンも同乗している。
向き合った彼は落ち着かない様子だが、一緒にいて気詰まりではない。
「すまなかった」
どれのことかよくわからず、カサンドラは首をかしげるに留める。
「結婚前に夜会で何度か顔を合わせていたが……あのときには母が噂を広めているとわかっていたんだ。だから本当はあそこで謝罪しようと思っていた」
「……謝っていただいた覚えはありませんね」
ただおしゃべりに興じ、そのときから彼の印象はよかった。そのおかげで両家の婚姻にもまだ挑みやすかったのだ。
「噂が消えなければ……ほかの男がきみを敬遠すると思って」
カサンドラはその一言に脱力しそうになった。
耳を疑うが、アーロンの態度からして本気らしい。
「王命がなくとも、きみに求婚を受けてもらう方法がないかずっと考えていた」
考えていたが名案は浮かばず、そこに王命が下った。
アーロンは迷わず乗ったのだ。
ここで彼を憎からず思っていた、と打ち明けるのはなんだか癪だった。
見返したアーロンは何歳か若く見えた。赤みの差した頬と、その顔に浮かんだ微笑みがそう思わせるのかもしれない。
「……婿に入るだなんて、そんな迂闊なことを簡単に口にしてはいけないわ」
「俺は本気だよ。この先きみがとなりにいてくれるなら、それでいいんだ」
アーロンの言葉ひとつひとつに、いちいちカサンドラは嬉しくなっていた。それを表に出さないよう、懸命に堪える。
「万一私に思い人ができたらどうするんです?」
「俺以外が目に入らないようにすればいいんだろう? 知らないかもしれないが、優秀なんだ、俺」
ドゥメール公爵家との結婚以降、一番カサンドラは頭のなかが混乱していた。表情を取り繕うのがこんなにも難しいとは知らなかった。
「……優秀かどうか、私が見守ってあげるわ」
うまく言えたかわからない。
ただアーロンが晴れやかな笑顔を浮かべたのだった。