約束
翌朝。
ロマーリオとの別れの時が訪れた。
「じゃあな、イグニス。……次はこっちから遊びに行くぜ」
「おう、気をつけろよ」
「そっちこそな。あの奈落の国だろ? 死ぬなよ」
肩を軽く叩き合い、互いに笑みを交わす。短いが濃い日々だった。その旅の締めくくりにふさわしい別れだった。
そして――イグニス、ルルイジーニ、キャッサリーンの三人は空港へ向かい、グランドリオン領を目指す飛行機へと乗り込む。
飛行機は静かに滑走路を離れ、上昇していく。分厚い雲を突き抜け、眼下には広大な大陸が広がる。そのまま何時間も空を飛び、やがてグランドリオン領の近隣空域に差し掛かった。
その瞬間――機体がわずかに震えた。
「……奈落の瘴気か」
イグニスが呟く。
直後、コックピットから通信が入った。
『イグニス様、目的地付近は既に機械系統が不安定です。予定通り、隣国【セントラル=ユニオン連邦】の港湾都市グレイロックへ着陸します』
「わかっている。そこからは別の移動手段を使う」
窓の外を見やると、遥か遠くの地平線に、不気味な黒雲が渦を巻いていた。あれが奈落。
その瘴気は空を蝕み、大地を穢し、文明の機械を狂わせる。ゆえに、奈落の周辺に空路で降り立てる者は限られ、陸路もまた危険極まりない。
しかも、その瘴気に精神を侵されずに立ち続けられる者は、奈落の影響を受けて育ったグランドリオン領出身者か、あるいはムラサメのような世界屈指の達人くらいだ。
キャッサリーンの表情に、不安の影がよぎる。だがその視線の先にいるイグニスは、ただ静かに黒雲を見据えていた。
飛行機は無事、セントラル=ユニオン連邦の港湾都市グレイロックに着陸した。潮の香りが漂う港町は、観光客や貿易商で賑わっているが、その背後には大陸の奥深くから吹き寄せる、不穏な風の気配があった。
港の宿屋で休息を取った翌朝――。
イグニスたちは、奈落の領域へ向かう最終準備を整えていた。
しかし、その場に立つキャッサリーンの顔色は、明らかに悪い。頬は青白く、額にはじっとりと汗が滲み、足取りすら覚束ない。
「……無理、なのね」
キャッサリーンが微笑を浮かべ、震える声で言った。
「私、ここまで来られただけでも奇跡……。瘴気の気配だけで、身体がこんなに重くなるなんて思わなかったわ」
イグニスは彼女の肩に手を置き、目を伏せる。
「……ここから先は、地獄だ。お前を連れていくわけにはいかねぇ」
彼女は唇を噛み、悔しさを押し殺すように目を閉じた。
「でも……一緒にいたかったのに」
「わかってる」
イグニスの声は静かだったが、その奥底には熱い決意があった。
「必ず、瘴気を消す。六大将を倒して、奈落を終わらせる。その時、お前を迎えに来る」
キャッサリーンはその言葉に目を見開き、そして小さく笑った。
「……絶対よ?」
「絶対だ」
彼は彼女の手をしっかりと握りしめた。その手の温もりを確かめるように、キャッサリーンも握り返す。
「待ってる。どんなに時間がかかっても、私……ここで待ってるから」
「あぁ、なる早だ。待たせすぎねぇ」
二人の視線が絡み、言葉にならない想いが交錯する。やがて、ルルイジーニが気を遣ったように視線を外し、
「……そろそろ行こう、イグニスさん」と声をかけた。
イグニスは無言で頷き、キャッサリーンの手をそっと離す。彼女は港の街並みを背に立ち尽くし、去っていく彼らの背中を見送った。
グレイロックの空には澄んだ青が広がっていたが、その先には黒い瘴気の渦巻く奈落の空が待ち受けている。イグニスの胸に灯った誓いは、その暗雲をも貫くほど強く、熱かった。




