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奈落の果てのギャンブラー!  作者: 黒瀬雷牙
東の島国編(2)
46/50

オートレースは勝てん

 ――オートレース場の夜は、別世界のようだった。

 時刻はすでに午後十時を過ぎている。日付が変わるまで開催される、全国でも珍しい「ミッドナイトG1」。深夜のレースは静謐で、しかしどこか危うい熱気を帯びていた。

 観客は昼間より少ないが、残っているのは筋金入りのギャンブラーばかり。タバコの煙とコーヒーの香り、そして小さなため息や歓声が交錯する。


「夜中にレースやるなんて、本当にあるんですね……」


 キャッサリーンは、まるで異国の夜祭を見ているように目を丸くしていた。

 その隣で、イグニスは涼しい顔のまま舟券ならぬ車券を握り、モニターに映るレーサーたちをじっと観察している。


「ここは公営競技で唯一、日付を跨いで勝負ができる場所だ。……魔境だな」


 低い声でつぶやき、イグニスは最初のレースから迷わず勝負に出た。


 ――だが、結果は散々だった。


 一度も的中せず、十万円を超える負け。

 キャッサリーンが顔を曇らせるたびに、イグニスはただ肩をすくめて笑った。


「ほら、また外れ……」


 キャッサリーンの声には、わずかな心配がにじむ。

 イグニスは次のレース表を眺めながら、軽く指を鳴らした。


「金なんざ使えば消えるし、稼げば戻る。こういうのは、楽しんだ分だけ払う入場料みたいなもんだ」


 その言葉にキャッサリーンは思わず笑ってしまった。ギャンブルで大敗しても、彼は一切の苛立ちを見せない。むしろ勝っているときよりも余裕すら漂わせている。


 終電をとうに過ぎた深夜一時、最終レースが終わった。負け額はとんでもない数字になっていた。


 会場を出ると、深夜の冷たい風が二人を包む。キャッサリーンは横に並ぶイグニスの横顔を見つめ、胸の奥が熱くなるのを感じた。


「ねぇ……イグニスさんって、本当に負け慣れてるんですね」


「何度もやってりゃ、慣れるさ。勝ちも負けも、ただの流れだ」


「……そういうとこ、好きです」


 キャッサリーンはぽつりとつぶやいた。イグニスは少しだけ目を細め、夜風に煙草の煙を乗せる。

 夜明け前の駐車場で、彼の背中は負け犬どころか、嵐を越えて立つ巨人のように頼もしく見えた――。


 翌朝。

 ホテルの一室で、イグニスはロマーリオ、ルルイジーニ、そしてキャッサリーンの三人を前に腕を組んでいた。

 日本に来てからというもの、イグニスたちは夜な夜な賭場を渡り歩き、競馬、競輪、競艇、…果ては闇カジノまで制覇してきた。勝ったり負けたりを繰り返しながらも、十分に刺激を味わった。


「……よし。もうやり残したことはねぇな」


 イグニスが低く言い切ると、ロマーリオはベッドの上で大きく伸びをした。


「ようやく帰る気になったか。こっちじゃもう遊ぶネタがねぇもんな」


「全くだぜ。朝っぱらからスロット打つのも飽きたしな」

 ルルイジーニも頷き、コーヒーを啜る。


 キャッサリーンは、少し寂しそうに目を伏せた。


「……サンライズシティに、帰るの?」


「ああ。グランドリオン領だ」


 イグニスは煙草をくわえ、ライターを鳴らした。


「こっちの賭場はだいたい見たし、懐も温まった。そろそろ帰って、次の依頼に備えなきゃな」


 そう言いながらも、イグニスの視線はキャッサリーンに向けられていた。

 彼女は何かを決意したように顔を上げる。


「……じゃあ、私も連れていって」


 ――キャッサリーンの瞳が遠くを見つめるように揺れた。


 イグニスの言葉は、彼女の胸を強く打った。

 「グランドリオンは、弱者を寄せつけない。あそこは死地だ。」

 そう淡々と告げるイグニスの声音には、誇張も脅しもなかった。ただ、事実を伝えるだけの冷たい現実があった。


 それでも――彼女は決意していた。


ーーーー

 キャッサリーンは母国で幼い頃から、裏社会の空気を吸って育った。親はギャンブル狂で借金まみれ、物心つく頃には闇カジノや取り立ての修羅場が日常の風景。


 やがて、日本の裏社会の人間に買い取られた。闇カジノで使うためだ。


「美人の外人がいると雰囲気でるからな。おら、日本語さっさと覚えろ!!」


愛されることも守られることもなく、ただ利用され、取引されるだけの存在だった。

 十代半ばには、カジノの女ディーラーとして、客をもてなすための笑顔を貼りつける術を覚えた。


「カネがすべて。力がすべて」


 それが、この世界のルールだと信じて疑わなかった。


 だが、イグニスは違った。

 金を賭けるのに、勝ち負けに執着しない。

 負けても怒らず、勝っても慢心せず、常に余裕を崩さない。

 そんな男は、彼女の人生で初めてだった。

 銃を向けられても、ドスを突きつけられても、彼は笑う。むしろ彼の存在そのものが、死と暴力の渦巻く世界の中で、一筋の鋼のような静けさを放っていた。


ーーーー


「俺のそばにいれば、命を落とすかもしれない。それでもいいのか?」


 イグニスの低い声が、脳裏で反芻される。


 彼は脅しているのではない。ただ、真実を語っている。彼と共に行くということは、この街の裏社会の比ではない地獄を歩むことを意味する。


 それでも――


 ここに残る理由は、もうどこにもない。

 裏カジノでの退屈な日々も、権力者たちの気まぐれに翻弄されるだけの生活も、もううんざりだった。

 命を懸けてでも、この男の背中についていきたい。

 それは恋情というより、本能的な信頼に近かった。

 この世界で唯一、命を預けられる人間――それがイグニスだった。


「……イグニス、わたしは行くわ。」


 キャッサリーンは静かに言い切った。


 彼女の瞳には、迷いはなかった。

 イグニスはしばし無言でその目を見返す。

 やがて、彼はふっと息を吐き、肩をすくめた。


 「……好きにしろ」


 それは、受け入れの言葉。

 キャッサリーンの胸に、熱いものが込み上げた。

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