オートレースは勝てん
――オートレース場の夜は、別世界のようだった。
時刻はすでに午後十時を過ぎている。日付が変わるまで開催される、全国でも珍しい「ミッドナイトG1」。深夜のレースは静謐で、しかしどこか危うい熱気を帯びていた。
観客は昼間より少ないが、残っているのは筋金入りのギャンブラーばかり。タバコの煙とコーヒーの香り、そして小さなため息や歓声が交錯する。
「夜中にレースやるなんて、本当にあるんですね……」
キャッサリーンは、まるで異国の夜祭を見ているように目を丸くしていた。
その隣で、イグニスは涼しい顔のまま舟券ならぬ車券を握り、モニターに映るレーサーたちをじっと観察している。
「ここは公営競技で唯一、日付を跨いで勝負ができる場所だ。……魔境だな」
低い声でつぶやき、イグニスは最初のレースから迷わず勝負に出た。
――だが、結果は散々だった。
一度も的中せず、十万円を超える負け。
キャッサリーンが顔を曇らせるたびに、イグニスはただ肩をすくめて笑った。
「ほら、また外れ……」
キャッサリーンの声には、わずかな心配がにじむ。
イグニスは次のレース表を眺めながら、軽く指を鳴らした。
「金なんざ使えば消えるし、稼げば戻る。こういうのは、楽しんだ分だけ払う入場料みたいなもんだ」
その言葉にキャッサリーンは思わず笑ってしまった。ギャンブルで大敗しても、彼は一切の苛立ちを見せない。むしろ勝っているときよりも余裕すら漂わせている。
終電をとうに過ぎた深夜一時、最終レースが終わった。負け額はとんでもない数字になっていた。
会場を出ると、深夜の冷たい風が二人を包む。キャッサリーンは横に並ぶイグニスの横顔を見つめ、胸の奥が熱くなるのを感じた。
「ねぇ……イグニスさんって、本当に負け慣れてるんですね」
「何度もやってりゃ、慣れるさ。勝ちも負けも、ただの流れだ」
「……そういうとこ、好きです」
キャッサリーンはぽつりとつぶやいた。イグニスは少しだけ目を細め、夜風に煙草の煙を乗せる。
夜明け前の駐車場で、彼の背中は負け犬どころか、嵐を越えて立つ巨人のように頼もしく見えた――。
翌朝。
ホテルの一室で、イグニスはロマーリオ、ルルイジーニ、そしてキャッサリーンの三人を前に腕を組んでいた。
日本に来てからというもの、イグニスたちは夜な夜な賭場を渡り歩き、競馬、競輪、競艇、…果ては闇カジノまで制覇してきた。勝ったり負けたりを繰り返しながらも、十分に刺激を味わった。
「……よし。もうやり残したことはねぇな」
イグニスが低く言い切ると、ロマーリオはベッドの上で大きく伸びをした。
「ようやく帰る気になったか。こっちじゃもう遊ぶネタがねぇもんな」
「全くだぜ。朝っぱらからスロット打つのも飽きたしな」
ルルイジーニも頷き、コーヒーを啜る。
キャッサリーンは、少し寂しそうに目を伏せた。
「……サンライズシティに、帰るの?」
「ああ。グランドリオン領だ」
イグニスは煙草をくわえ、ライターを鳴らした。
「こっちの賭場はだいたい見たし、懐も温まった。そろそろ帰って、次の依頼に備えなきゃな」
そう言いながらも、イグニスの視線はキャッサリーンに向けられていた。
彼女は何かを決意したように顔を上げる。
「……じゃあ、私も連れていって」
――キャッサリーンの瞳が遠くを見つめるように揺れた。
イグニスの言葉は、彼女の胸を強く打った。
「グランドリオンは、弱者を寄せつけない。あそこは死地だ。」
そう淡々と告げるイグニスの声音には、誇張も脅しもなかった。ただ、事実を伝えるだけの冷たい現実があった。
それでも――彼女は決意していた。
ーーーー
キャッサリーンは母国で幼い頃から、裏社会の空気を吸って育った。親はギャンブル狂で借金まみれ、物心つく頃には闇カジノや取り立ての修羅場が日常の風景。
やがて、日本の裏社会の人間に買い取られた。闇カジノで使うためだ。
「美人の外人がいると雰囲気でるからな。おら、日本語さっさと覚えろ!!」
愛されることも守られることもなく、ただ利用され、取引されるだけの存在だった。
十代半ばには、カジノの女ディーラーとして、客をもてなすための笑顔を貼りつける術を覚えた。
「カネがすべて。力がすべて」
それが、この世界のルールだと信じて疑わなかった。
だが、イグニスは違った。
金を賭けるのに、勝ち負けに執着しない。
負けても怒らず、勝っても慢心せず、常に余裕を崩さない。
そんな男は、彼女の人生で初めてだった。
銃を向けられても、ドスを突きつけられても、彼は笑う。むしろ彼の存在そのものが、死と暴力の渦巻く世界の中で、一筋の鋼のような静けさを放っていた。
ーーーー
「俺のそばにいれば、命を落とすかもしれない。それでもいいのか?」
イグニスの低い声が、脳裏で反芻される。
彼は脅しているのではない。ただ、真実を語っている。彼と共に行くということは、この街の裏社会の比ではない地獄を歩むことを意味する。
それでも――
ここに残る理由は、もうどこにもない。
裏カジノでの退屈な日々も、権力者たちの気まぐれに翻弄されるだけの生活も、もううんざりだった。
命を懸けてでも、この男の背中についていきたい。
それは恋情というより、本能的な信頼に近かった。
この世界で唯一、命を預けられる人間――それがイグニスだった。
「……イグニス、わたしは行くわ。」
キャッサリーンは静かに言い切った。
彼女の瞳には、迷いはなかった。
イグニスはしばし無言でその目を見返す。
やがて、彼はふっと息を吐き、肩をすくめた。
「……好きにしろ」
それは、受け入れの言葉。
キャッサリーンの胸に、熱いものが込み上げた。




