二十六のクーピー④
朝の自由時間を満喫した後は、教室にて座学。もちろん座学といってもまだまだ本格的な勉強は先。夏休み直前1週間の課題は一学期の思い出。楽しかったこと、嬉しかったこと、驚いたこと、印象に残ったことを一枚絵に描く・・・・・・大丈夫、この当時の要君にはまだ、絵に対する苦手意識が生まれていない。塗り絵同様、絵を描くことをも苦にならない。道具箱からクレヨン、クーピー、色鉛筆を持ってくると、迷うことなく豪快に下書きなしでアスレチックを描き始めた。アスレチックというより吊り橋か。画用紙の端から端まで大胆に大きく描かれた吊り橋には2人の男の子。何の説明も要らない。絵がのびのびと語りかけてくる迫力と分かり易さがあった。上手い下手など関係ないし気にもしない。他人の評価もないし、そもそも評価されるという概念自体が備わっていない。近い将来、自分の一挙手一投足が評価の対象となるなんて夢にも思うまい。これを純粋という。だから子供は宝であり、希望であり、未来。それを預かる重責を担うのが大人。
技術や知識と呼べるものは持っていないし、画用紙の白を残せない、活かせないというのもヘタっぴな証。塗り潰して白地を消さずにはいられないのだ。吊り橋と2人の少年を描き終えると、要は茶色のクレヨンと青の色鉛筆を用意した。創り上げるのは地面と空。まずは下から行きますか。茶色のクレヨンが高速で斜めの往復を繰り返す。真っ白な画用紙に浮いている吊り橋にぶつからないよう、丁寧に園庭の土を創り上げていった。お次は空だ。青の色鉛筆に持ち帰ると地面同様、目にも止まらぬ速さで青空も完成しそうだ。と、ここで赤のクレヨンが登場。青色だけでは物足りなくなったのか、思い出したように丸い太陽を作り始めた。紙の上では大地も空も太陽も思うがまま。さながら天地創造を行う神様だ。丸書いてちょんちょんと簡単に太陽を付け加えると、残りの空白を青空で埋めて完成・・・という所で、ちょっとした事件が発生した。
水を打ったような静寂とまではいかずとも、それなりに集中力で満たされた教室に女の子の声が、鳴き声が鳴り響いた。すみれ年中組13人の園児の内、12人の視線が音源に注がれる中、岡部先生が話を訊きに近付く。
「清香ちゃん、どうしたの?」
今年のクラスは例年になく落ち着いていた。具体的には感情的なけんかや泣き崩れる子が圧倒的に少なかった。雑に言ってしまえば、楽だった。有り難い半面、子供達に耐性ができていない分、動揺が走り易い。岡部先生が膝をついて覗き込むように尋ねるも、返事はなかった。泣き止む気配もなし。岡部先生も困り顔で頭を撫でてやるしかない。そこに男の子が独り。涙は見せないものの、目の前の背中に顔を押し付けたかったに違いない。
「先生、あのね・・・・・・」
絞り出したか細い声で事情を話してくれた。
子供がどうしていいか分からない時、助けを求められるのが大人。解決の糸口へ導いてやるのが大人。一緒に悩んでやるのが大人。時に道を正してやるのが大人。それができない人間には大人を名乗る資格もない。