二十六のクーピー③
実はこのアスレチックの吊り橋に辿り着くには、それなりの運動神経が必要だった。うんていを伝い、昇り縄を上がった先に吊り橋があり、そこを渡って滑り台から地上に戻る。これでアスレチック1周というか、クリアなのだが、特に昇り縄は腕力と足の使い方にコツが必要で、園児にとって正攻法での攻略はなかなかに難易度が高かった。それでも救済策のはしごを使えば直接吊り橋に乗れるし、滑り台を逆向きによじ登るという手もある。しかしそこには子供なりの資格があり、掟があり、不文律がある。誰が決めたでもない、何かに書いてあるでもない暗黙の了解。吊り橋をガチャガチャ揺らして主導権を握れるのは、うんていと昇り縄をクリアした人だけ。はしごを使ったり逆上がりした人はダメ・・・そんなルールはどこにもない。けれども確かに、大人の触れることができない、存在を感じることすらできないこともある組織文化が、紛れもなく広がっている。そこで遊ぶ子供達にとっては常識。自分達で決めた約束。守って然るべきルール。誓いは法より重い。
今日は(珍しく)すみれ組の朝の会が1番早く終わった模様。まだ園庭は空っぽだった。いの一番に順也が飛び出し、続いて要。何事も1番は気持ちがいい。2人共いとも簡単に、そして馬鹿正直にうんていと昇り縄を攻略して、お目当ての吊り橋に辿り着いた。どれだけ急いてもこの手順は省かない。手抜きは許されない。近道という選択肢はない。あとはガチャガチャ揺らすだけ、ただただ激しく騒がしく。お気の済むまで、納得いくまで。他の子が追い付いてくればその分重く、振動も鈍くなるが、今はまだ2人だけ。普段よりも軽く、大きな音を立てて、思い通りに動いてくれる吊り橋にご満悦であった。楽しくて仕方ない、嬉しくて仕方ない、気持ち良くて仕方ないのだ。そして、2人の描く未来に指を挟むとか、足を踏み外すとか、遊具が壊れるなんていう悲劇は存在しない。吊り橋を独り(二人)占めできている内に1回でも多く揺らす。それ以外は全て雑念で、一切合切が排除される。言い方を変えると、その他のことに頭が回らない。危険が伴うことも確かだが、それが子供の集中力。あれもこれも、あっちもこっちも、二兎三兎の大人との違い。
恵まれた園庭とはいえ、さすがに園児全員が一斉に出て行くことは避けている(この点で、小学校の休み時間は狂っている(カオス))。年中組と年長組で自由時間は別々だし、屋内で過ごす子もいる。それでも、今日は今日とて園庭は、どこもかしこも大渋滞。この世界の日常である。仮にこれが子供達ではなく大人達で溢れていたならば良くて怪我人、悪けりゃ救急車。日や虫の居所によってはそこら辺でけんかや殴り合い・・・・・・とまではいかなくとも、部屋に戻った後も険悪な空気が続く。、しかしながら子供達は、己の欲望の為だけに動いているようでいて、大人なんかよりもずっと友達、仲間を想っている。友達に支えられていると心から、素直に実感している、建前などではなく。切札と代替物を控えて安堵するなんて知恵はない。子供というのは実に不可解な生き物で、どうしてそんなおバカなことで怪我をするのという一方で、てんやわんやの喧騒の中、好き勝手に暴れ回っても、結果的に平然と時が流れる。そりゃぶつかったり、擦り傷、たんこぶを作ることもあるが、そこで止まることがほとんどである。
本日も大盛況。アスレチック遊具だけを見たって、とんでもない人口密度だ。そのひとりひとりが後先考ええずに没頭し、好き放題に遊び回る。うんていは大した感覚も開けずにスタートを切って、全員が全員ゴールまで渡り切れるはずもなく力尽きて落下する者もいるから、整然とした一方通行なんてことにはならない。膝と頭がごっつんこなんて日常茶飯事。3本ある昇り縄だってちょっと離れて待てばいいものを、どうして真下という位置取りになるのか。さすがに他の子が奮闘している最中に昇り始める子はいないが、途中で落ちてくる子はいくらでもいる。ズリズルと下がってくる。それが分かっているのに離れない。加えて、吊り橋では同乗者が膝をつこうが尻もちをつこうが揺れ続けるし、滑り台に至っては大混乱。正しく上から滑り降りる者、踏ん張りながら蟹のように横移動を繰り返す者、地上から逆方向に這い上がってくる者。楽しそうなのは大変に結構なのだが、見ている方はヒヤヒヤする。危なっかしい―結果、「それならば」と導かれた結論が何をもたらしたのか。
熱中する子供達を見守る先生達にとって、アスレチック遊具の人気は見慣れた光景であった。毎年必ず、この吊り橋の魅力に摂り憑かれる子供達が現れる。人数はその年によって異なるが、やることは判を押したように一緒。入園前に外から見ていたなんてこともあるまいて、不思議なものである。アスレチックまで描けていくと、うんていと昇り縄をあっさり踏破して、ガチャコン・ガチャコン吊り橋を揺らしにかかる。何が楽しいのか分からないとは言わないが、よくもまぁ飽きずに同じことを、とは思ってしまう。ただ見ているといい、2学期には見向きもしなくなるから。1学期に熱中した子ほど、夏休みを挟むと卒業してしまう。嫌いになるのではなく、興味を失う。成長、つまりは知識と経験、行動範囲が広がることで、アスレチックの楽しさが半減してしまうのだろうか。誰もいない吊り橋が風に揺すられキコキコ音を立てる。その時の静けさと寂しげな表情は、ちょっとだけ人間の残酷さを恨んでいるかのようだったりする。これもまた、先生達には見慣れた姿。
恐怖心が乏しい。リスクに鈍感、痛い目を見た経験が少ない。一理あるが、それだけではない。柔らかいのだ、身体も頭も。前者には大人と子供で雲泥の差があって、ストレッチひとつでバレてしまう。定期的に運動でもしていれば幾らかの救いもあろうが、そうでない大人の肉体は悪い意味でカチコチだ。すぐにあちこち痛めるし、咄嗟の出来事に反射的な対応が追い付かない。たまたまうまく対応できたとしても、そのせいで別の所をおかしくしたなんてのが関の山。後者だって、そりゃビジネスやら見栄やら固定観念だって絡んでこようが、何でもかんでも小難しく、ちょっとひねくれ、天の邪鬼に考える。どうでもいことまで追求して、気にしなくていいことも放っておくことができない。だから衝突するのだ、意見も身体も。圧倒的に柔らかいのだ、子供の方が、頭も体も心までも。