二十六のクーピー②
「ほらっ、そのまま上がらない!全部脱いでお風呂に入っちゃいなさい。」
思わず声を荒げてしまう。マンションから徒歩30秒に位置する山下公園で毎日のように遊んでいた要。元気全開なのは大変宜しいのだが、母親が呆れるくらいにこれでもかと泥だらけで帰ってくる。ひどい時には泥んこを取り越して上から下まで水浸し。掃除した直後にそんな恰好で帰って来られると、溜息と共に目を疑ってしまう。その一方で、綺麗なまんま戻ってくると心配になってしまうから難しい。
幼稚園に通い始めて要が最も驚いたこと、そして1番の楽しみが園庭だった。自分達だけの特別な公園、誰にも邪魔されない聖域、見知らぬ大人から隔離された世界、その使用条件が曇り以上というわけだ。雨が降れば一巻の終わり。また雨が上がっていても前日までの長雨などで土がぬかるんでいる場合も、外遊びの許可は下りなかった。
8時45分。徐々に教室が賑やかになる。上履きに履き替えた園児達は教室の1番奥に座る先生の所へ向かい、何は無くともおはようございます。連絡ノートを提出し、各々の席に着く。仲の良い男の子なんかは要にもおはよう。要も手を止め、目を見てちゃんと返す。さて、教室に友達が増えてくると要も塗り絵に区切りをつける。塗り絵セットを道具箱に戻して朝の会―岡部先生の朝のご挨拶―の準備をするのだ、外見上は、ね。
「皆さん、おはようございます。さぁ、一学期もあと1週間ですね。もうすぐ待ちに待った夏休みです。みんなにとっては初めての夏休み。お家でも色々と計画を立てているかもしれませんが、これからの1週間は、幼稚園でも夏休みに向けた準備を進めていきます。みんなの道具箱の中身を少しずつお家に持ち帰って下さい。道具箱に残しておくのは―」
訊いているのかいないのか、岡部先生の方を向いてはいるが、心の方は此処にあらず。やれやれ・・・修了式後の、抱えきれない荷物に埋もれる未来が見える。
比較的に広い園庭が正徳幼稚園の自慢のひとつで、区内の保育園や幼稚園でここまでしっかりとした、中規模以上の公園のように子供達を満足させられる、自動車の走らない安全な外遊びの場を所有している施設は数える程しかない。ボール遊びや鬼ごっこのできる中央広場と、広場を囲うように設置された様々な遊具。ブランコに鉄棒、砂場は大と小の2ヶ所あって、シーソーに昇り棒に平均台。これらに加えて1番大きな遊具であるアスレチック―うんていと昇り縄、ぐらぐら揺れる吊り橋と横幅の広い滑り台がひとつになった遊具―このアスレチックの吊り橋に立ってわざと激しく揺らすことが、順也と要のお気に入りだった。
他の幼稚園が羨ましがるほどの立派な園庭ではあるものの、さすがに百人を超える園児全員が一斉に自由時間となるわけではない。9時15分(各クラスの朝礼終了後)からが年中組、10時からがひとつ上の年長組に割り当てられていた。それでも大賑わいの園庭。波紋のように広がって、砂鉄のように離れない。
「要君、行こう!」
年中組は朝の会が終われば10時までの自由時間。そのまま教室で絵本を読んでもいいし、ブロック遊びもできる。トランプも2セットあるし、お喋りを楽しんでもいい。他のクラスへお邪魔することも許可されていたし、ちょっとだけ先生に甘えてみたりもする。沢山の選択肢が用意されているが、多くの子供が外に出る。太陽に当たる、汗をかく、動き回る、正常な範囲でね。これが子供と大人の元気の差。
友達の誘いにうんと頷いた際には、既に要のお尻も椅子から離れていた。朝の会が終わると同時に目を見張る反射神経で席を立つ、という事が岡部先生のお話に集中していなかったいい証拠。それとも方向が異なるだけで、終わりの空気を察する為に最大限の集中力を発揮していたのだろうか。要を誘い、我先にと下駄箱へ向かった少年が、紀ノ河 順也。要とは入園式のその日から、すみれ組の自己紹介の時から、机が前後に隣同士になった瞬間から、入園前からの知り合いみたいに仲良くなった。思わず岡部先生も、お家が近くなの?と訊いてしまった。子供と子供の間には打算と警戒心が潜まない―そんな言葉すらまだ知らないか―大人同士ではありえない距離の縮まり方である。