埋め草原稿
【埋め草原稿】
母は願う―他人様に迷惑をかけず、健やかに育ってほしい―他の誰より幸せにという欲望を胸に秘めながら。けれどもそんな細やかな心願すら天には届かない。殊に後半の健やかにという奴が厄介で、成人以降もついて回る。いや、むしろ大人になってからが本番か。
寝込む程ではないにしろ、ちょっとした体調不良によって社会人がどれだけの不利益を被るか、時間を浪費するか、計画が狂わされるか。人知れず、夜な夜な己の虚弱体質を呪っている者も少なくあるまい。あれ・・・・・・熱っぽい、喉が痛い、咳が出る。悪魔がちらりと顔を覗かせれば、次の日には十中八九悪化している。手洗い・うがいに常備薬、食事に睡眠、入浴から休日の過ごし方まで気を遣った結果が37.8度、扁桃腺が晴れて、鼻水が垂れてきた時には、脱力と諦めの境地を悟らされる。怒りと悔しさと空しさで枕を濡らしながら、神様を憎む。加えて当然、健やかでないことが他人様に迷惑をかけてしまう。
一旦自分が病弱だと思い込み、思い知らされてしまうと、心身ともに克服することは難しい。絶好調であっても、ふと気が付くとそろそろ風邪を引くんじゃないかと怯えている。現状の「いい時」が長く続かないことを自覚し、悪い予感に従うようにどこかしらの調子が傾いてくる。ヤジロベーがちょっと首を傾げているかのような違和感。何で、どうして、どこで貰ってきたのかと後悔しながら自問したって答えは出せない。これまでも、残念ながらこれからも同じことの繰り返し。過去と同様、未来も変わらないという残酷な結末。予定を切り上げ温かくして、薬を飲んで早く寝たって悪化する。持ち直した記憶はない。さらに自分が苦しいだけでなく、病原菌を散撒く悪者に回ってしまう。簡単に仕事を休む訳にもいかず体に鞭打ったって、辛いやら情けないやら申し訳ないやら。普段の集中力が発揮できぬまま数日が経過していく・・・
この本の主人公は、そんな病弱体質とは縁も所縁もない少年である。今となっては遠い昔の、過去の廃れた、昨晩見た夢みたいに朧気な記憶。カンカンやかましく踏切りを通過する小田急線を眺めるのが好きな園児だった。顔を撫で、神を逆立てる突風も喜んで浴びてしまう。危ないからもう少し下がりなさいと注意を受けることもしばしば。手は掛からないが、目も離せない。そんな幼少期を過ごした男の子は、名を鈴本 要というのだが、両親含め近しい人間はかなめではなくヨウと呼んだ。
かなめとヨウ。仮名で書けば3文字と2文字の違いなのだが、リズムで測るとタンタンタンの3拍とタンの1拍。一期一会ならまだしも、日常生活ではこの差が大きい。まして鈴本の4文字・4拍は永遠を通り越して面倒臭い。というのは大袈裟だけれども、1度ヨウと呼んだ者がかなめに戻ることはなった。
そんな訳でルビがあるとき以外は「要」を「かなめ」ではなく「ヨウ」と読んでほしい。呼びでも読みでも3音より1音の方が調子良く進むはずだ。
要は同い年の男の子と比べると、幾らか物知りで大人びた印象を周囲に与えた。ただ早熟というのとは少し異なり、遊んでくれるお友達に同じマンションのお兄さん、お姉さんの多かったことが原因。面倒見のいい先輩方のおかげで、ちょっと上の世代の流行や関心事が要の好奇心を形作った。例えばファミコン、例えばビックリマン、ミニ四駆にガンプラ、カードダスにマラドーナ、スタジオジブリの音楽にラジオ基礎英語、江戸川乱歩にすぎやまこういち等々。ほとんどの項目は歳月を経て関係が希薄になったが、年と共により親密になる分野もあった。大人にとってはたとえ下らないおもちゃであったとしても、子供達の心酔する対象を頭ごなしに子供騙しと見限ってしまうのは、可能性を一刀両断することになりかねない。それは宜しくない。一緒に触れてみるのが理想。巡り巡ってビジネス、経済、大人の世界の中心で活躍すコンテンツもあるのだから。
長男のようではあったが、お兄ちゃんお姉ちゃんに可愛がられた分、しっかりと末っ子気質も仕上がった。わがままは言うし、駄々だってこねる。その上自己中心的というか、我が物顔というか、回りの声が訊こえないというか―実際は人並み外れた集中力の一端なのだが―お気に入りの歌なんかを無意識の内に飽きるまでハミングしていることも度々。この頃は大好きな『のっぽさん』の「でっきるかな、でっきるかな、はてさてフフー・・・」を、10分も20分も低唱した。体を小さくヤジロベーのように揺らしながら折り紙、厚紙、はさみやのりを使って工作に没頭する。どんなに散らかそうと片付けさえさぼらなければ怒られることはなかったが、こればっかりはもう、好きなのに振り向いてくれない片思い。悲しいかな要君、詳細は別の章で触れざるをえないのだが、絵やら美術や工作やらは苦手だったりする。不器用ではないのだが、才がない。特に絵心。この頃の絵が、大人になってもほとんど成長しないのだから本人もびっくりである、笑っちゃうくらい。
【埋め草原稿 終】