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前編

 運命は存在すると思う。

 今日も私たちは、神様によって引かれた一本のレールを走っている。

 

「どうして……どうしてですか?」


 彼は私に問う。


「僕は、自分なりに真面目に生きてきたはずです……。そんな僕がどうして……」


 ベッドに座り込んだ青年が、奥歯を強くギチギチと鳴らす。

 病室内には、激しい雨音と彼の家族であろう女性の泣き声が響いていた。


「人生というのは、お伽話のようにキラキラしたものではない。誰がどう足掻こうとも、結果は変わらなかったんだ。だから……」

「だからなんですか……? しょうがないって言いたいんですか!?」

 

 彼は大きめな声量で私の言葉を遮った。


 どうしたものか。

 伝えたいことが山ほどあるのに、何一つとして言葉が出てこない。

 私の両手はぶるぶると細かく震える。

 

 彼の気持ちは痛いほど分かり、私は何も言えなかった。

 

 彼は女性の方へ振り返り、涙を流しながら何度もその名前を呼ぶが、その声は誰にも聞こえていなかった。

 

 大人でさえ耐えきれないであろう絶望に、彼は今飲み込まれている。

 それでも、前を向かなければならない。

 人は時に、そんな局面を迎える。

 

 ***


 ーーピーピピッ! ピーピピッ!

 

 スマホのアラーム音が大きくなるにつれて、徐々に視界が明るくなっていった。


「うぅ……寒い……」


 雨が降っているのか、3月には見合わない寒さを感じてブルッと身震いをする。

 寝相が悪い彼女は、寝ている間に布団から出てしまうことが多い。


「んん、眩しい……」

 

 目を開くと、電気の光が彼女の眼球を刺激した。

 昨日早めに就寝したおかげか、今日は目覚めがいい。

 ベッドの下に落ちている布団を持ち上げ、軽くシワを伸ばすと、フラフラとした足取りで洗面台へと向かった。


 大学二年生である、今井詩音(シオン)は今日もいつも通りの朝を過ごす。 

 

 レンジに入れた余り物のカレーが温まるまでの間、昨日から今朝までに来ていた連絡を確認する。

 大学の先輩……高校時代の友達……。

 彼女が画面をスクロールしていくと、連絡先一覧にある"木嵐葵(きあらしあおい)"の名前が上がってきた。

 メッセージは0件。一昨日送った連絡はまだ見られていないようだった。

 

「忙しいのかな……」


 彼女は「はぁ……」とため息をつくと、温め終わっていた朝ご飯をレンジから取り出し、その場で立ち食いをした。


「カレーなのに美味しくない……」


 レンジの横に置いてある開いた形跡のない料理本が目に入る。

 彼女は料理が大の苦手であった。


 午後2時30分。

 大学の講義が終わると彼女は自身のサークルへと向かい、「文学サークル」と書かれた扉を開ける。

 部員数は四人、そこにはお馴染みのメンバーが居た。

 新入生がまだ入ってきていないから、そしてそもそも彼女の大学では、部員数は四人。

 活動内容は特にこれといったものはなく、公募を目指す者もいれば、ただ黙々と自分の世界で本を読み続ける者もいる。

 それでも、何かに縛られることがあまり得意ではない詩音にとって、そこはとても心地の良い場所だった。


「こんにちはー!」

「おっ、来たか今井!」


 まず挨拶を返したのは、詩音の先輩であり、3年生の三原凛(みはらりん)である。

 金髪ショートで短いスカートを履く、いわゆる陽キャの部類だ。

 入学当初、詩音は彼女と出会ってから意気投合し、一時期は月1で遊びに行くような時期もあった。

 最近は、詩音の都合でなかなか予定を合わせることができていないが、それでも2人の仲は依然として良好だ。


「こんにちは、今井さん」


 続いて返事をしたのは、文学サークルの部長で4年生の、桂光(かつらひかる)である。

 彼はザ・文系といった感じで、たびたび公募などで賞を取り、一部の界隈ではちょっとした有名人らしいが、部室の誰もが彼が執筆をしているところを見たことがない。 

 桂曰く、「自分の家じゃないと、文を集中して書けない」とのことだ。


「こんにちは、2人とも」


 詩音は2人へ挨拶を返すと、部室のソファーに腰をかけ、重いバッグを下ろし、一息ついた。


「影見、起こさないでやってくれよ?」

「影見先輩? どこにいるんですか?」


 三原は詩音の少し横を指差し、その指の先を見ると、そこには影見がうずくまって寝ていた。

 

「うわ!!」


 影が薄くて気づかなかった。

 びっくりして、大きい声をあげてしまう。

 

「んん……なにぃ…………?」 


 影見菜々(かげみなな)

 とにかく体が小さく、性格は全体的に控えめで鈍感な、部室では常に寝ている4年生である。

 よく、明らかに法に引っかかってそうな怪しい案件を持ってくる。

 最近は占いをするのにハマっているらしい。


「あぁー、言った側から……」

「まるで起こしたら面倒臭いみたいな言い方だな」


 影見は頬をプクッと膨らませて拗ねた。


「善意だっつーの……」


 こう見えて、2人は仲がいい。

 というか、三原の方がとても人付き合いが上手い。

 詩音も影見もあまり人に心を開ける性格では無かった。

 だがそんな彼女たちにも信頼されるコミュ力は、詩音にとって恐怖さえも感じさせるものである。


「何か飲み物とかいるか? お茶切らしてたから買い足しておいたけど」

「あ、じゃあお茶をお願いします」

 

 彼女はそう言うと、ポットでお茶を沸かした。

 

 詩音に執筆の趣味はない。

 本も読みはするが、好んで読むという訳でもなかった。

 みんながサークルに入り始めた時、丁度仲良くなり始めた三原に誘われ、それなりに自由でいられる文学サークルを選んだ。

 部室では、三原におすすめされた本を読んでいる。


「はい、お茶」

「ありがとうございます」


 笑顔でお礼を言う。

 詩音はカップを受け取ろうとする。

 だが、彼女がそれを掴んだ瞬間、三原の手に力が入り、カップを取らせないようにした。

 「え……?」と三原の顔を見ると、その目は詩音の顔を睨んでいるようだった。

 

「お前さ……」


(雰囲気が悪い……というか目つきが悪い……!)

 詩音は何かしてしまったのでは無いかと、ここまでの自分の行動を思い返した。

 だが、これといって彼女の気に触るようなことはしていない。


 詩音が困惑していると、三原は言った。


「今朝、私の連絡見てないだろ」


(…………あ)


 やってしまったとばかりに、肩を落とす。

 

 三原は甘え癖があると聞いたことがある。

 誰に対してもそうだ。

 彼女は目つきは悪いが、顔が良い。

 それが功を奏しているのか、男子学生からの評判は良く、人脈も広い。

 

 普段は大体朝のうちに全ての連絡を返しているが、今朝は木嵐のことで頭がいっぱいになり、他のメッセージのことを忘れていた。


「ご、ごめんなさい……」


 三原は小さくため息をついて、カップから手を離す。


「いや、別にいいよ。ちょっとだる絡みしてみただけ」

「何の連絡だったんですか?」

「ただ遊びに誘っただけだよ。ほら、最近はお前の予定が合わなかったりで、そういうの無かっただろ? 久々にどっか行こうぜ」


 最近は詩音の予定が合わずに、一緒に出かけることが少なくなっていた。

 だが、詩音は申し訳なさそうな顔で俯く。


「もしかして、"また"か?」

「はい……」

「今回はどっち? お金? 時間?」

「お金です……」

「そうか……」

 

 詩音は、三原と遊びに行くのと同じくらいの頻度で、木嵐とも遊びに行っている。

 以前までは詩音の兄が助言をしてくれていたが、正直現在の彼女の金遣いは荒い。

 三原が遊びに誘うと、大体毎回、木嵐との予定でお金か時間が無くなっていたのだ。


「クソォ……昔は純粋な可愛い女の子だったのに……。いつから彼氏なんか作りやがったんだ……」


(最近はその彼氏とも上手く行ってないんだけどな……)

 詩音は何も言えずに、もう一口お茶を飲んだ。


「詩音ちゃん」


 今度は影見が話しかけた。


「はい、なんですか?」

「私最近、占いハマってるんだ」

「はい、知ってますよ。69回目ですね」

「え、そんなに言ってた?」

 

 影見はこういうことが度々ある。

 詩音はそれを見越して、同じことを言った時は毎回記録しているのだ。


「影見ー、また後輩を怪しいやつに誘うなよー?」

「怪しいやつ? そんなことあったっけ?」

「もう忘れたのか……。前回の闇バイトだよ!」

「闇バイト? あー、猫を探すやつ? あれは申し訳なかったけど、分かりづらすぎるだろ」


 影見は以前、詩音を「猫を探すだけのバイト」というものに誘っていた。

 当たり前だが、そんな好都合なバイトは存在しない。

 それは、最近話題となっている人を犯罪に加担させる闇バイトというものだった。

 たまたま一部始終を目撃していた桂と三原が慌てて止めたのだ。


「私たちがいなかったらお前だけじゃなく三原まで牢屋行きだったぞ?」

「反省してるってー!」

「本当かよ……」


 ちなみに、三原が先輩に対してタメ口なのはいつものことだ。

 不思議なことに、その口ぶりに不快感は感じない。


「詩音ちゃんの運勢は……」


 そう言いながら、両手を握って開いてを繰り返す影見。

 数秒目を瞑って考えると、パッと目を開くと同時に、手をチョキにして詩音の方を見た。


「凶!! 大凶!!」


 正直、全然当てにしては無いものの、大凶なんて言われると少し不安に思うところもあった。


「ちなみに、何でですか」

「それは分からない」

「本当に当てになりませんね」


 少し、ほんの少しイラッときた。

 そんな詩音の気持ちが伝わったのか、影見は慌てて付け足す。


「あ、でも対処法なら分かるよ!」

「そうなんですか?」

「えっとね、自分の伝えたいことをはっきりと口にすること! だって!」


(私は告白でもするのだろうか)


 やはり当てにならない。

 だが、三原が言った。


「確かに、詩音は押されたら断れない性格だもんな」

「私がですか?」

「うん、自覚ないのか?」


 意外だった。

 ある程度言いたいことは言っているつもりだったが、三原が言うのなら合っているのかもしれない。


「わ、分かりました……」


 詩音はこんな胡散臭い占いに、自分の心が見抜かれてしまったことが、少し悔しかった。

 これが彼女の日常である。

 

 ***


 彼女の視界にぼんやりと人のシルエットが映る。

 自分より年上か、もしくは同い年か。

 顔はぼやけていてよく見えない。

 何かを考えようとしてもうまく頭が働かないその感覚から、彼女が自身が夢を見ていると気付くまでにそれほど時間は要さなかった。

 その人物の全身は白い煙のようなものに覆われていて、顔すらもハッキリと見えないような状態だった。


「お? 僕のことが見えてますか?」


 声を聞く限り、この人は男性だろう。

 細かい年齢は分からないが、対して歳は離れてなさそうな青年といった具合だ。


「見えてるし、聞こえてるよ。えっと……あなたは誰?」


 これは詩音の夢、すなわち彼女の知り合いである可能性が高い。

 だが、サークルのメンバーでもないし、近所の人でもない気がする。

 もしかしたら、彼女が覚えてないくらい昔の知り合いかも知れない。


 彼は口を開いた。


「そうですね……。僕は君が作り上げている人物ではありません。僕自身が、僕の意識であなたの夢にお邪魔しています。ですが、私の正体は教えられません。あなたの知り合いかも知れないし、全くの他人かも知れない。あなたの同級生かも知れないし、宇宙人かも分かりません。ひとまず私のことは"請負人"とお呼びください」」

「それはつまり、あなたは私が知らない人である可能性もあるってことね」

「その通りです」


 人の夢に無断で立ち入ってる身分で、名を名乗らないとは何様か。

 少し、腹が立つ。


「わざわざ人の睡眠を妨害して、何か目的があるの?」

「ご安心ください。これは夢とは少し違うので、今日のあなたはノンレム睡眠で快眠できるでしょう!」


 そういうことではない。

 普段から悩みが多いんだから、寝てる間くらい何も考えたくはないのだ。


「私の目的、それはあなたの悩みを解決することです」

「私の……悩み?」

「ほらほら、なんでもいいんですよ。身近なものから、人生相談まで。なんでも受け付けますよ」

 

 詩音はしばらく考えた。

 こんな胡散臭いやつに自分の悩みなど解決できるのだろうか。

 だがもし解決してもらえるのであれば、今一番大きな悩みを解決して貰いたい。

 どうせ最初から当てにもしていないし、当てにしていない何かが偶然当たることもある。

 今日の影見の占いのこともあり、思い切って彼女は悩みを打ち明けた。


「私、彼氏がいるんだけど」

「ほお、そうなんですか」


 詩音の話に合わせて、彼は相槌を打つ。


「その彼氏が、最近冷たいんだよね」

「優しくしてくれないんですか?」

「優しくしてくれない……というか、優しいし、遊んでもくれるんだけどね。なんか素っ気ないというか……」


 請負人がスっと静かになる。 


「ほら、やっぱり無理じ……」

「あなたの悩みを承りました!」


 請負人がまっすぐ腕を振り上げて叫ぶ。


「え……本当に解決できるの?」

「出来ますとも」


 請負人は上げた腕を下げ、詩音をまっすぐ指差した。


「あなたが分かっていないのは男心です!」

「男心……?」

「はい、男性が恋人に何を求めているのか。それが分かったら、あなたは彼氏さんと仲直りが出来るでしょう!」


 別に喧嘩しているわけではない。


「おっとそろそろ、朝が来てしまうようですね。とりあえず、明日から男心探しを始めてみてください」

「ちょっと、まだ聞きたいこ……」

 

 請負人の言葉を最後に、彼女は目を覚ました。

 最悪の目覚めである。

 

 ***

 詩音はサークルへ向かっている。

 昨日の雨は止み、今日は快晴だ。

(男性が恋人に求めるもの……)

 昨日、あの請負人とやらに言われたことである。

 半信半疑ではあったが、彼女は今暇である。

 詩音はまず、最も信頼している先輩であり、友人でもある三原に聞き込みをすることにした。


「こんにちはー!」


 部室には読書をしていた桂、そして雑誌を顔に乗せて横になっている影見が居た。

 三原の姿は無い。


「こんにちは、今井さん」

「あれ、三原先輩は居ないんですか?」

「そうだね、今日はまだ来てないね」


 顔の広い三原なら男心とやらを分かっていそうだったので、残念に思った。

 そんな詩音を見て、桂は言う。


「どうしたの? 何か悩みがあるなら相談に乗るよ」


(そういえば、当たり前だけど桂先輩は男性だったな)

 詩音は試しにその悩みを打ち明けてみることにした。


「うーん、男心ねぇ……」


 桂は顎に手を置く。


「何か、男の人なら一度はやってみたいこととかありませんか?」

「やってみたいことか……。そりゃあ、誰しもの男は二人の美女に挟まれて風呂に入ることだろうけど……。ん? 何? その軽蔑の目は」

 

 いつもは真面目な桂だが、たまにこういうことを言う。

 詩音は深くため息をついた。


「私、木嵐先輩のことで悩んでるんです。出来れば、木嵐先輩が考えてそうなことを教えて欲しくて……」

「木嵐の考えてそうなことと言ってもなぁ。俺は数回しか会ったことがないしなぁ……」


 確かにそれはそうだ。

 親密でもない人の考えていることなんて、到底分かるはずもない。

 彼女は無茶なお願いだったと、少し反省をする。


「それにさっきの風呂の話は、誰もが願っていることだと思うよ」

「木嵐先輩でもですか?」

「あぁ」


(そんなわけがない)

 彼女の木嵐のイメージは、健全純粋男子だ。

 自分という彼女だっているのだから、そんなことはありえないと考える詩音。


「部長……木嵐先輩は私という彼女だっているんですよ? 先輩とは違うんです」

「今井さん、最近三原に似てきたよね……」


 桂のハートがチクっとダメージを受けた。


「だけどね……」


 真面目な表情で彼は付け加えた。


「彼女持ちであろうと、いくら健全であろうと、美女風呂の望みは間違いなく誰しもが持っている」


 「誰しも」の部分に力が入る。

 桂はさらに付け加えた。


「あと……言いにくいけど、今井さんがは木嵐を美化して見過ぎだと思う。今井さんが思ってるより、男子ってのは欲に従順だよ?」


 あまり信じることができないが、もしかしたら女性には分からない何かがあるのかもしれないと詩音は考えた。

 それでもなお、彼女は物足りなさげな目をする。

 そんな詩音に桂はもう一つ、アドバイスをした。


「まぁ僕が何と言おうと、あまり木嵐と関わりのない人の話は腑に落ちにくいだろう。今井さんは、早田斗真(はやたとうま)って知ってるか?」


(誰だろう……聞き覚えがあるような……)

 頑張って思い出そうとするも、なかなか出てこなかったため詩音は苦悶の表情を浮かべ答えた。


「早田さん……ですか? 分かりません……」


「早田斗真。僕と同じ四年生で、体育学部の、木嵐の一個上の先輩だ」


 体育学部。

 木嵐と同じ学部である。

 そういえば以前、彼の愚痴で聞いたことがあった。

 勉強や、トレーニングを見てくれている人らしいが、鬼のように厳しく、時には暴力を振るわれることもあるらしい。

 正直、あまりいい印象は無い。


 桂は続けた。


「木嵐のことをよく分かっている存在なら、早田が適任だろう。あいつは大体トレーニングルームにいると思う。特に忙しくなければ、快く対応してくれると思うよ」

 

 その時、桂のスマホが鳴った。


「ごめんね、今井さん」


 そういうと、桂は電話に出た。

 詩音が彼に対して深くお辞儀をすると、桂は笑顔で手を振った。


 ***


「失礼します……。えっと、四年生の早田先輩いらっしゃいますか?」


 ノックをして中へ入ると、筋トレをしていたイカつい男たちが一気に静まり返り、彼女の方を見た。

 自身の身を包む謎の緊張感から、何か失礼なことをしてしまったのではないかと己を疑う。


「早田? 早田なら奥にいるから、呼んでくるよ」


 一人の男がバーベルをゴトンと床に置き、部屋の奥へと駆けて行った。

 その隣にいたもう一人の男性が彼女に話しかける。


「早田に用がある人なんて珍しいね。あんな強面のひと、あんまり話しかけられないから……」


 詩音からしたら、この人たちも充分強面だ。

 強面の思う強面とは……考えるだけで、彼女は今にも後退りしそうになった。


 そうしていると、奥から先ほどの男性、そして何か大きいものが近づいてきた。


「お待たせー! 早田連れてきたよ!」


 彼女は耳を疑った。

 あれは……人なのだろうか。

 筋肉質というより、全体的に、デカい。

 身長も二メートルはありそうなほど、デカい。

 

 加えて、彼女自身身長が低いというのもあるが、視界に体しか映らないのだ。

 詩音はその強面と呼ばれる顔を見るため、顔を少し上げる。

 

 その瞬間、彼女はヒッ……っと声を漏らし、腰を抜かしてしまった。

 強面過ぎた。顔のパーツはしっかり揃っているとはいえ、絶妙なバランスで怖い。

 見えるはずのない、青黒い覇気が彼女にはしっかりと見えた。


 目の前に、自分の顔と同じくらいのサイズの手が差し出される。


「ごめんね、怖がらせちゃって。大丈夫?」


 声は意外にも普通だ。

 何なら、ちょっと優しい。

 そのギャップにすら、彼女は恐怖を感じていた。


「もしかして、今井さんかな?」


 早田の質問に、彼女は頷くことしかできない。


「早田先輩! もしかして彼女っすか?」

「え!? マジで!? めっちゃ可愛いじゃん!」

「ありえる! てか、彼女でも顔怖いんだね」


 詩音が怖気ついていると、周りの学生が冷やかしを入れた。

 ここの人たちは彼の顔が怖くないのだろうか。

 感覚がおかしいのは私の方なのだろうか。

 詩音は考える。


「違うぞ! この子は木嵐の彼女だ!」


 周りの冷やかしに早田が声を張り答えると、室内が一瞬静まり返って、再度騒がしくなった。


「え!? 木嵐の彼女?」

「あいつがあんな可愛い子の彼氏? 嘘だろ!?」

「生意気だな……トレーニング増やすか……」

 

(私の彼氏は、何というか、そういうイジられキャラのような立ち位置なのだろうか)


 普段は優しくておとなしい、かっこいい先輩というようなイメージだったので、彼に対するこの反応は、詩音にとって少し新鮮であった。

 

「僕に用があるんだろう? 何でも聞くよ」


 詩音は早田の手を取り、服の埃を払ってから、案内されるがまま室内にあった椅子に座った。


 ***


「男心かぁ……。男心っていうのは、木嵐の男心っていうことかな」

「はい、そうです……」


 気づけば先程の学生たちは、各自の作業に戻っていた。

 早田は、後輩であろうその学生たちを眺める。

 しばらくの間、彼は思考を巡らせた。


「そうだな……俺から一つ、アドバイスが出来るとしたら……」


 早田が話を切り出すと、詩音は一言も聞き逃さないようにと耳を傾ける。

 

「今井さんの意思みたいなものを、大切にしてほしいな」


「私の、意思?」

 

 思っていた解答とズレたものだったため、詩音はきょとんとして聞き返す。

 早田は頷いた。


「そうだね。あいつは……木嵐は頑張り屋だ。自分のやりたいことや望みを、叶えるために色んな努力をするやつだ」


 詩音は照れた。

 彼女には自分の彼氏が褒められると、自分のことのように捉えてしまう癖がある。

 早田は続けた。


「だが、少々自分勝手で、横暴なところがあるのも事実だ。もしかしたら、今井さんの意見や、都合を考えずに行動しているかもしれない」

「そう、ですかね……?」


 驚いた。

 彼女は彼をそんなイメージのかけらもない人だと認識していたからだ。

 

「僕は彼の先輩だからね。彼のことをよく分かっているつもりだし、だからこそ彼のことをあまり悪くは言いたくない」


 真剣で、優しい眼差し。

 それは先程まで彼女の身を包んでいた恐怖心を浄化させるほど、周りの学生が彼のことを心から信頼している事実を納得させるほど、曇りなき綺麗な眼差しだった。

 早田は続けた。


「だが先輩として、一人の大人として、後輩には平等に接するべきだと思うんだ。木嵐の先輩として彼のことは心の目で見なきゃいけないと思うし、どちらの味方をするのではなく、俯瞰的に物事を落ち着いて片付けなければいけない。もちろん、こんな面の私を頼ってくれた、君に対してもだ」


 人は見た目じゃない。

 こんな聖人を、一瞬でも疑ってしまったことを詩音は心から反省した。

 

 結局その日は請負人が言っていた男心とやらは分からなかった。

 だが彼女は「木嵐にまだ自身の知らない一面があるということ」、「木嵐の言っていたことが全て正しい訳ではなかったということ」を知った。

 もちろん信頼していない訳ではないが、自分自身がもっと慎重に、落ち着いて物事を見れるようにならなければいけない。


(今日あったことを、請負人に話そう。話して、お礼を言おう)


 誰もいない通路でスキップをする。

 直接的に何かが解決した訳ではない。

 そもそも、自分が何を目指しているのかすら、はっきりとは分かっていないのだ。

 もしかしたらそれは、木嵐ともっと仲良くなることかもしれないし、今の彼女には想像もつかないような意外な場所にあるのかもしれない。

 だが、この心のモヤモヤを晴らすためのゴールに、着実に一歩近づけた気がした。


 ***


 詩音は鼻歌混じりでスキップをしながら部室へ向かう。

 もうすっかり陽は落ちて、電球が切れかけているのか、廊下は少し薄暗かった。


「帰りましたー!」

 

 室内には桂と影見が居た。

 三原の姿はない。


「おかえり、今井さん」

 

 桂は彼女に対して小さめな声量で返した。

 影見は顔の上に雑誌を被せて、ソファーで仰向けに寝ている。

(寝てるのかな?)

 詩音は彼女を起こさないようにと、声量を落として桂に言った。


「まだ残ってたんですね」

「あぁ、ちょっと影見と話していてね」

 

 すると、バサっと雑誌を落として影見が勢いよく体を起こした。


「別に寝てないぞ?」

「あ、起きてたんですか。珍しいですね」

「いつも寝てるみたいな言い方だな」

 

 実際今朝寝ていただろう。

 そう言いたかったが、グッと言葉を飲み込む。


「何を話していたんですか?」

「えっとね……」

 

 桂は少し口籠る。


「別に良いだろう。隠すことでもないし」


 影見が言った。

 

 そのとき、詩音は部室内の異様な空気に気付いた。

 何というか……気まずいような、暗い雰囲気。

(何の話だろう……)

 彼女には何となく心当たりがあった。

 おそらく、三原の話だろう。

 

「今日、三原が居ないだろう?」

「そういえば会ってないですね。体調でも悪いのでしょうか」


 思い返してみれば、確かに今日は会っていない。

 大学がある日は、なんだかんだ顔を合わせるので少し変ではある。

 だが、そんな日もあるだろう。とそこまで気にしてもなかった。


「……その様子だと知らないそうだな」


 室内に沈黙が流れる。

 桂は小さく深呼吸をして、再び話を切り出した。


「三原の件について話そう」


 その低い声色に、詩音は息を飲む。

 

「彼女の、弟の話だ」


 ***

 詩音には兄がいた。今井晴人。

 2人は生まれつき両親がおらず、祖父母に引き取られて育てられた。

 生まれてから、ずっと一緒に居た2人。

 特に詩音は晴人にベッタリだった。

 それは兄だからという理由だけではない。


 いずれ祖父母が亡くなって、詩音が高校に上がる頃には晴人と二人暮らしになっていた。

 家事は基本的に分担をしていて、料理や金銭面の管理を晴人が。洗濯や掃除を詩音が担当していた。

 決して裕福な環境では無かったのだが、2人の仲は変わることなく、詩音は毎日が幸せであった。

 

 そして入学してまもなく、詩音の兄が亡くなった。

 交通事故だった。

 家には彼女1人取り残されることとなる。

 兄の葬儀が終わった後、しばらく詩音の精神は崩壊していた。

 ずっとボーっとしていて、常に心ここに在らずといった様子。

 大学の講義も、ほとんど頭に入っていなかっただろう。


 そんな中、彼女に声をかけたのが三原である。

 人と関わる気力すら無かった詩音に、三原は少しずつ近づき、いつしか毎日話すような仲になっていた。

 

 

 ある日詩音は三原に質問をした。


「どうしてあの時、何の接点も無かった自分に話しかけてくれたのか」


 その回答は彼女の想像以上に驚きのもので、それがあってここまで仲良くなれたというのもあるだろう。


 偶然にも、三原も同じような経験を持っていたのだ。

 三原祐樹。

 彼女弟は生まれつき病気を持っていて、本人も、家族も生きられる時間がそう長くないことを理解していた。

 

 容体がゆっくりと悪化し、入院生活になっていたある日、喧嘩をした。

 たかがお菓子の取り合いという些細な喧嘩だ。

 その頃、まだ三原は冷静な判断ができる歳ではなかった。

 彼女は容赦なく、彼に毒を吐く。

 

 病院を出ると、両親は怒ることなく、三原に優しく諭した。


「祐樹はいつ死んじゃってもおかしくないから。最後の会話が喧嘩になって欲しくない」


 母親は涙目であった。

 三原は家に帰ってから「明日謝ろう」と反省した。

 取り上げたお菓子も返してあげようと、大事に大事にしまっておいた。

 

 だが、それから2人が言葉を交わすことはない。

 その日の夜、祐樹の容体が悪化した。

 亡くなることは無かったのだが、寝たきりの状態になってしまったのだ。

 

 昨日までは普通に話せていた弟が話せなくなった。

 いざ体感してみると、その絶望は測りきれないものだったと、三原は語った。


 不思議なことに、何となく詩音の様子から、彼女の事情に察しがついていたらしい。

 救ってあげたいと、心から思ったという。

 

 そして、そんな三原の弟が昨日亡くなったそうだ。


 ***


「こんばんは、良い夜ですよ。男心が何か分かりましたか?」


 請負人が今日も座っている。

 改めて見てみると、表情が見えないと言うのは少し不気味だ。

 自分を信頼してもらうために、自分の気持ちを伝えやすくするために、顔というのはしっかり相手に見せるべきだと思う。

 今日早田という、頼れる先輩との繋がりを得られたのも、彼の優しい表情があったからだ。

 そんなことを詩音は考える。


(それに比べてこいつは……)


 当たり前だが、顔が見えないということは表情が分からないのでなかなか相手の感情を読み取りにくい。

 彼女が請負人に感じる、胡散臭さというのはそれが原因かもしれない。

 

「こんばんは」


 詩音は今日学んだこと、分かったことを請負人に話した。


「って訳でね。正直最初はあなたのことを信用してなかったんだけど、でも少し進展があったんだ。だから、一応お礼を言っておこうと思って」


 そう言って、頭を下げる。

 

「おや! 前回とは打って変わって丁寧ですね。こちらこそ、お役に立てたのなら本望です」

「でも、直接的には解決できていないんだよね。もし良ければ、策を教えてくれないかな」

「信頼を得られたようで何よりです。そうですね、策ですか……」


 請負人は少しの間考え込むと、話を切り出した。


「僕がなぜ、男心を探すように言ったか分かりますか?」

「なぜって、"男性が恋人に何を求めているのかを知るため"でしょ?」

「それはそうですが、もっと抽象的に言うと、"彼氏さんのことをよく知るため"です」

「なるほど。でも、私は先輩のことをよく分かってるつもりだよ」

「そうです。そう言われると思ったから、男心を探せという言い方をしたのです」


(なるほど、全部読まれていたわけだ)


 確かに詩音は、"木嵐のことをよく知るため"という言い方では、余計なお節介だと慢心して行動をしていなかっただろう。

 現に行動をしたから今日の進捗があったわけだ。

 詩音の請負人への信頼度はますます上がる。


「あなた、頭が良いんだね」

「それほどでもないですよ。あなたのことをよく知っているからです」


(私のことをよく知っている……。本当に誰なんだろう)

 そんなことを考える。

 2人は話を続けた。


「じゃあ、次は何をすればいいと思う?」

「もう少し男心を探してみてください」

「最初から思ってたんだけど、言い方が遠回りだよね。何で普通に答えを教えてくれないの?」

「そりゃあ依頼人さんからのお願いですから」


(そんなことお願いしてないけど……)


 ただ、嘘を言っているわけでもなさそうなので、詩音は反論したい気持ちをグッと抑えて飲み込んだ。


「まだ時間がありそうなので、僕が個人的に気になっていることを聞いても良いですか?」


 今度は請負人が話を振った。


「うん、いいよ」

「あなたの彼氏さん。えっと……」

「木嵐先輩ね」

「木嵐さんについて、教えていただけますか?」

「先輩のこと? 例えば?」

「そうですね……2人の出会いとか」

「先輩との出会い?」


(私たちの惚気話が気になるのか……。)

 詩音は不思議に思うものの、ざっくりとした思い出話を始めた。

 

 木嵐と詩音が出会ったのは、三原と知り合ってから約1ヶ月後のことだ。

 最初に話しかけてきたのは木嵐の方で、そこから徐々に親密になっていき、数週間後には木嵐の方から告白をした。

 男性経験が少なかった詩音は、初めてされた告白に動揺してその場で了承してしまった。

 だが、彼女はそれを後悔していない。


 詩音が心を開いたのは、彼にも詩音や三原と似た事情があると知ったからだ。

 木嵐には病弱な弟がいて、いつも面倒を見ているという。

 そんな彼に、詩音はすぐに心を開けた。

 

「私ね、正直嬉しかったんだ。同じ辛い経験をしている人が、私の思っているより多いってことが」


 請負人は黙って話を聞いている。

 表情は見えなくとも、真剣な態度をしていることが何となく分かった。


「お兄ちゃんがいなくなって、私はひとりぼっちだと思ってたから。サークルの人たちとも仲良くなれて、お兄ちゃん無しでも生きていけるかもって、希望が持てたんだ」


「そうですか。ありがとうございます、素敵な話でした」


 請負人はお礼を言う。

 そして聞いた。


「木嵐さんのことは好きですか?」


 詩音は少し間をおいて強く頷いた。


「うん」

 

 もう一つ、請負人は質問する。


「それと、お兄さんのことは好きですか?」


 詩音はまた間を置くが、先ほどよりも早く強く、無言で頷いた。

 そんな彼女に、請負人は優しく言った。


「良かったです」


(似ている……)

 表情こそ見えないものの、声だけで何となく優しさが伝わるこの感じが彼女の兄に似ていたのだ。


 詩音は請負人に完全な信頼をおいた。


 ***


 今は夕方である。

 廊下には強い夕日の光が差し込む。

 昨日の請負人との話を思い返し、男心を探すべくとりあえずサークルへ向かうことにした。

 だがおそらく、今日三原は居ない。

 それが、少しだけ心配であり残念であった。


 昨日の件もあり、いつもとは違い小さめの声量で部室に入る。

 

「こんにちはー……」


 ゆっくり扉を開けると、真っ先に人影が見えた。

 だが、それは桂でも、影見のものでも無かった。

 夕日の逆光ですぐに誰かは分からなかったが、徐々に目が慣れていき、顔が見えてくる。


 そこには、三原がいたのだ。


「お、詩音か。一昨日ぶりだな」


 その声色は一聞普段と変わらないようだが、詩音はそれが無理に作られているものであると気づくまでにそれほど時間を要さなかった。

 艶やかな金色の髪に夕日が当たり、それとは対照的に影が落ちる彼女の顔。

 はっきりと見えなかったものの、その表情は決して明るいものではなかった。


「一昨日ぶりですね、三原先輩。もう夕方ですけど、何か用事があったんですか?」

「実は忘れ物をしてしまってね。さっき遠方から帰ってきたばかりなんだが、急ぎで必要なもんでな」

「そうでしたか。お疲れ様です」


 そう言って詩音は、いつものソファーに腰掛ける。

 室内には2人しかおらず、三原がものを漁るガサゴソという音だけが響いていた。

 探し物が見つかったのか、彼女は詩音の隣に置いてあった自分のバッグにそれを入れた。

 

 すると、三原はバッグを持ち上げ、詩音の隣に座った。

 

「あのさ……」


 三原は口を開く。


「私、弟がいるって言ったじゃん?」

「はい、知ってますよ」

「実は、一昨日死んじゃってさ」


 そう言って、彼女は詩音のへ身を寄せた。


「はい。桂先輩から聞きました」

「あいつ……余計なこと言いやがって……」


 少しだけ、声色が晴れる。


「そこで、昔のこと思い出してさ。前に言った喧嘩の話。結局謝れなかったなって」


 三原が、詩音の肩に頭を乗せた。


「もう目を覚さないとは分かっていたけど。本当に死んじゃうなんて、って感じだよ」


 声が震えている。


「ごめん。許してくれ。たまにどうしようもなく、無性に誰かに甘えたくなるんだ」


 三原は普段こんなことを口にしない。

 弱音は吐かないし、いつも明るい、人に頼られる存在だ。

 

 いつしか、桂が言っていたことを思い出す。

「三原は甘え癖がある。だけどそれは悪いものじゃなくって、彼女が自分自身の気持ちを保つために必要なことなんだ。もしそういうことがあったら、三原を支えてあげて欲しい」と。


 三原の弟のことを知らずとも隣で泣いている彼女の様子から、彼女にとって、それは長い、苦しい闘いであったのだと、同情の気持ちか、それとも何か他の感情のせいなのか、詩音も少し泣いていた。

 三原はこうやって、人を頼ることで自分の気持ちにけりをつけている。

 そんな彼女を詩音は再度尊敬した。

 自分はそれが出来ているだろうかと。


 そこから数分間、そうしていた。

 ある程度経つと三原を頭を起こして、立ち上がる。


「そういえば、男心は見つかったのか?」

「え、何で知ってるんですか?」

「桂から聞いたんだ」

「部長……余計なこと言いやがって……」


 そう言うと、三原は大きな声で笑った。

 それに釣られて、詩音も笑う。

 部室には2人の笑い声が響く。

 先程まで暗かった空気も、少しだけ明るくなっていた。

 

 笑いが収まると三原が言う。


「みんなから色んな忠告を受けてると思うけどな。私からもアドバイスをしよう」


 この人とは、ずっと仲良くしよう。

 喧嘩をすることがあっても、出来るだけ早く謝ろう。

 三原凛を頼って、頼られよう。

 そんなことを彼女は考える。


「はい! お願いします」


 詩音は真剣な眼差しで、待ちに待った三原の助言を聞くことになった。


 ***


「やぁ、こんばんは」


 相変わらず、人の夢だというのに胡座をかいて、あたかも自分の家かのように居座る請負人。

 だが、不思議と最初に比べて嫌悪感は薄くなっていた。


「こんばんは、請負人」


 詩音は挨拶を返す。


「どうだい? 悩みは解決しそうかい?」

「うん……」


 少し、声色が暗い詩音。


「なんだか落ち込んでいるね」

「まぁね……」


 請負人は言った。


「それでは、この2日間で学べたことをまとめてみましょう」


 詩音はこれまでの助言を整理することにした。


「まず1人目が桂先輩。桂先輩の助言は「木嵐にまだ自身の知らない一面があるということ」だったね」


 請負人はウンウンと相槌を打つ。


「2人目が早田先輩。早田先輩の助言は「自分自身がもっと慎重に、落ち着いて物事を見れるようにならなければいけない」ってことだった」

「そうでしたね。そこまでは僕も聞いてます」


 そして、今日の助言である。


「3人目が三原先輩」


 詩音の顔が曇る。


「三原先輩の助言は……」


 彼女は今日言われたことを、請負人に話した。


「なるほど……。そんなことがあったんですか」

「もう私が何をしたいのか分からなくて……」


 詩音は肩を落とし、深く落ち込んだ。

 そんな彼女に、請負人は言う。


「本当は、自分が何をしたいか気づいてるんじゃないですか?」

「え?」


 少し、驚いた。

 それは、請負人が言った内容ではなく、その内容が彼女が隠している本心に近かったからである。

 請負人は続けた。


「気づいてるんだけど、それをしたくない。その理由はお金かもしれないし、時間かも分かりませんけどね」

「………………」


 詩音は図星だったのか、黙りこくってしまう。


「あなたの選択がどんなものでも、私は賛成しますよ」

「…………本当に?」

「ええ」


 彼女は何かを思い切ったように立ち上がり、請負人をグッと見つめる。


「請負人。私がやりたいこと、私が目指すべきゴールが分かったよ」


 請負人はおそらく、笑顔だ。


「分かりました。では、あなたが見つけた結論は何ですか?」


 詩音は請負人へ、自分の考えを伝える。

 初めはあんなに不信感が強かった彼女だが、今ではこんなに心を開いている。

 詩音は請負人に、三原に似た何かを感じていた。


 そろそろ、夢が覚める時間だ。


「請負人、また明日ね」


 今日、詩音は自分で決めた、心のモヤモヤを晴らすための行動を起こす。

 その成果を、請負人に聞いて欲しいのだ。


「はい、また明日」


 この請負人の返しが、今日の彼女の救いとなる。


 ***

 

「え、急にどうしたの? 別れたいって、何かしたなら謝るよ?」


 木嵐は優しい笑顔で問いかける。


「い、いや……何をしたという訳では無いのですが、少し疲れてしまって……」


 詩音がこうして言葉を濁しているのは、本人を目の前にまだ少し「本当に別れてもいいのか」という疑念が飛び交っているからだ。

 木嵐といた時間は確かに楽しかったし、何より彼女は、この笑顔に惚れたのだから。

 多少なりとも渋ってしまうものがある。


「今度の日曜、遊びに行く約束だってしたじゃん。前から乗りたがってた新しいアトラクション、一緒に乗ろうよ!」


 私はあなたの財布ではない。

 立て替えと言われていたお金は、1円たりとも彼女に返ってきたことはない。

 彼女は依然、本心を口に出来ず心の中で呟く。

 木嵐には事情があった。兄弟が病気になり、治療費のせいで自分の生活でさえまともに送れていないという、事情が。

 だから、同じ境遇を経験している彼女は言い返すどころか、その内情に深く触れることすら出来なかった。

 

「それにほら、詩音が作ってくれた料理、めっちゃ美味しかったんだよ。また作ってくれよ!」


 私はあなたの母親ではない。

 彼女は依然、本心を口に出来ず心の中で呟く。

 木嵐には事情があった。兄弟の面倒を見るのに手一杯で、ご飯すらまともに食べれていないという、事情が。

 彼女は何度も彼の家に行き、買い足してきた食材を使って、普段食べるご飯の何倍も丁寧に、大切に料理を作った。

 そして、そんな彼女に木嵐は一度も礼を言うことはなかった。


 木嵐と付き合い始めてからの記憶が、彼女の頭の中を回る。

 彼女は思った。

 

 彼との日々は、本当に楽しかったのだろうか。

 

 しばらく沈黙が続く。

 それを破ったのは木嵐だった。


「チッ……お前さ、別れるとか本気で言ってんの? ふざけんなよマジで。俺の事情は前にも話したじゃん。お前がいなくなったら、俺はどうやって生きていけばいいわけ?」


 彼の表情はみるみる豹変していき、声量も徐々に大きくなっていく。

 

「なぁ、早く答えろよ。モジモジしてねぇでさぁ……」


 一歩一歩、近づいてくる。

 逃げなきゃ。そうは思うも、緊張で足が動かない。

 木嵐は詩音の思い描いていた理想の彼氏とは、程遠い存在であったことが証明された。


「……おい。早く答えろって言ってんだろ!!」


 彼は強く握った拳を振り上げる。

 悲しさ、怒り、不安で、もう声すら出ない。助けも、呼べない。

 

(殴られる……!)


 その瞬間、誰かが木嵐の腕を掴んだ。

 その腕は見覚えがあった。

 ものすごくゴツい、筋肉質な腕である。


「今井さん! 大丈夫!?」

「詩音ちゃん!」


 そこへやってきた桂と影見が詩音の方へ近づき、そのまま手を引っ張って木嵐から距離を取らせる。


 木嵐の腕を掴んだ男性は、早田である。

 二人は揉み合いになるが、体格差によって木嵐が押さえつけられる。

 

 その騒ぎを聞きつけ、普段は人気の少ない通路に人が集まり出した。

 押さえ付けられながらも、息を切らしながら木嵐は唾を飛ばした。


「お前! 早田先輩呼ぶとか卑怯なことしやがって!」


 詩音は混乱していた。

 彼女が呼んだわけではなかったからだ。

 桂が叫ぶ。


「違う! 俺たちは三原からお願いされて来たんだ!」

「お前、三原と手組んでやがったのか! 卑怯だぞ、このクソ女!」


 木嵐は話を理解しないまま、罵倒を続ける。


「お前が俺と別れても、俺に使った金は帰ってこねぇ! お前は! 俺と付き合い続けた方が夢見れて幸せだったはずだ! 俺はもうお前みたいなクソ女とは付き合わない! 死ぬまでこう……ウグッ!」


 流石に見かねた早田は、木嵐の顔面を床に打ち付ける。

 周りはさらに騒がしくなり、教授や警備員さんまでもが駆け寄ってきた。


(私は……)

 

 昨日の三原と会話をしていた時の話。

 三原からの助言である。


「私からもアドバイスをしよう」

「はい! お願いします」


 三原は小さく深呼吸をすると、詩音の目を見つめて言った。


「それは、自分のことをちゃんと知ることだ」


 自分のことをちゃんと知ること。

 意外な言葉であった。

 

「お前、木嵐のこと本当に好きか?」


 詩音は黙ってしまう。


「お前が木嵐の話をする時、顔が曇るんだよ」


 そんなわけない。

 彼が好きな前提で話をしているのに、何を言っているんだろう。

 そうは思いつつ、彼女はなぜか反論出来なかった。


「ありがとうございます。ですが、大丈夫です」


 三原はお構いなしに続ける。


「詩音、木嵐とのデート代、全部払ってないか?」


 詩音はさらに何もいえなくなった。

 その通りだったからだ。


「図星か……。割り勘ならわかる。だが、全部払う必要は流石にないと思うぞ」


 詩音は苦し紛れに反論する。

 今思えば、あれは自分を「木嵐のことが嫌いなわけがない」と安心させるための言葉でもあったのかもしれない。

 そう詩音は考える。


「それに、今は彼の方が心配です。彼のご兄弟のことも……」


 そこで詩音は口を紡ぐ。人の事情をあまり他人に話さない方がいいと考えたからだ。


「あぁ、今の忘れてください。人の都合を言いふらすのは、あまり良くないと思うので」


 詩音はやってしまったとばかりに俯く。

 すると、三原の口から衝撃の言葉が飛び出した。


「兄弟? なんのことだ? 木嵐は一人っ子だったと思うが」


 私は斜め下を向いたまま目を見開いた。

 

 心の何処かでは分かっていたのかもしれない。

「もしかしたら」と疑う自分がいたのかもしれない。

 

 弟の面倒を見ていると言いながら、詩音との予定はどこにでも入れる訳。

 彼と一緒に居ても、彼の部屋に入った時も、弟の存在が感じられなかった理由。

 その信じたくない事実が、今までの違和感全てに繋がってしまう。


 その後、話していて色々なことが見えてきた。

 木嵐は、私の境遇を知り、架空の兄弟を作って私に近づいてきていたこと。

 お金も時間も有り余っていて、詩音のことをただの道具としてしか見ていなかったこと。

 あの笑顔は全て偽物であったこと。


 なぜ彼を完全に信じ切ってしまっていたのだろう。

 なんでもっと早く気づかなかったのだろう。

 後悔、悲しみ、不安。

 色んな感情が、彼女の中で渦を巻く。


 失ったものは帰ってこない。お金も、時間も。

 後悔した後でどれだけ声をあげようと、もう自分の思い通りの結末を迎えることは不可能だ。

 

 それでも、彼女は、彼女が過ごした兄との時間。

 そして、兄が亡くなった後、とてつもなく苦しんだあの時間を彼に利用されたようで、馬鹿にされたようで、これまで感じたことのないような怒りを感じた。


 覚悟は決まっている。

 

(私は……)


 ここで口に出さなければ、この感情をぶつける宛先が見つからないままになってしまいそうだった。

 大きく深呼吸をして、私は言い放つ。


「私はあなたの世話焼きではありません!!」


 周りがスッと静かになって、彼女は自分が今怒鳴ったということに気づく。

 だがそれによって、暴れていた木嵐が大人しくなった。


 詩音の表情は徐々に崩れていく。

 それでも、彼女は顔を隠さずに涙を溢しながらも木嵐を睨み続ける。

 木嵐は何かを言いかけたが、何かがスッと抜けてしまったようにため息を付いて、その場に項垂れた。

 詩音は力が抜けてしまったのか、影見と桂に支えてもらいながら崩れ落ち、声を上げて号泣した。

 

 周りがまたざわつき始めても彼女には関係ない。

 木嵐と付き合ったこの期間にずっと言えなかった鬱憤を、やっと吐き出せたような気がした。

 

 ***


「なんでですか……?」


 私の目の前で座り込んでいる青年は泣いている。

 彼は続けた。

 

「なんでそんな普通でいられるんですか……」


 彼の言葉から、怒り、後悔、悲しみを感じる。

 私は優しい笑顔を作り、彼の頭を撫でながら言った。


「君にお願いがあるんだけど。いいかな」


 自分がしようとしていることが、いかに非情で、道徳心の無いことか、よく分かっている。

 自分より年下に、自分の責任を。いや、自分勝手なお願いを押し付けているのだ。

 もちろん、反抗された。


「……ふざけないでください! 僕たちには、もう何もできない事をあなたもよく分かっているでしょう……」


 彼は慌てて口を塞ぎ、吐いた言葉を戻すかのように息を吸った。


「……ごめんなさい」


 その瞳から、先ほどよりも大きな涙の粒がこぼれ落ちる。


 悪いのは僕のほうだよ。君はまだ、私と違って立ち直れる状態じゃ無いのに。

 そう言葉にしたつもりだったが、私は崩れた笑顔で、君より酷い表情で泣いてしまっていた。

「アッ……アッ……」と息を吸うのと同時に声を出すことしか出来なくなっていた。

 同じ状況に置かれた君を前にして、どこにもぶつけようの無い感情を吐き出す君を見て、私も我慢できなくなってしまったのかもしれない。

 私自身もまだ、引きずっているのかもしれない。


 そんな私を見かねて、君は聞いてくれた。


「僕に出来ることなら、お願い、聞きますよ?」


 数分後、私の声にならない嗚咽が止んでから、その依頼内容を話した。

 無茶な私のお願いを、君は快く聞いてくれたのだ。


 そしてあの日、君は私の請負人となった。

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