42.過去と現在、そして未来
それは、さかのぼること十六年前。栄えた大きな町のすぐ外に伸びている、広い街道。
普段なら多くの旅人でにぎわっているそこには、今は誰も通っていなかった。まだ夜も明けておらず、かろうじて東の山の端が白んできたような時刻。
そんな街道を、一人の人影が歩いていた。朝の薄闇の中でも輝くほどにつややかな黒い髪、スミレの花よりももっと青みを帯びた宝石のような瞳。人形のように整った顔立ちの青年だった。
彼は肩越しに街を振り返り、美しい顔に苦笑を浮かべる。
「まさか、通りすがりの貴族の女性に求婚されるとは思わなかったな。しかもそれを聞いた他の女性たちが、我も我もと押し寄せてくるなんて……。おかげでこんな早朝に、逃げるように旅立つ羽目になってしまったし」
その時のことを思い出しているのか、彼の苦笑が大きくなった。
「他人の心を得るために、思い人を振り向かせるために、あそこまで必死になれる。そんな感覚は私には分からないよ。たぶん、一生」
逃げるようにして大股に歩き続けていた彼が、ふと足を止めた。あごをわずかに上げて、耳を澄ませているような顔で周囲を見渡す。
「今の声は……? 猫……じゃないな」
やがて彼は、街道わきの大岩の裏に回り込む。そこの乾いた草地の上に置かれていたものを見て、彼は極限まで目を見開いた。
「……なんだってこんなものが、こんなところに」
そこには、真っ白な産着をまとった赤子が横たわっていた。ふっくらとした頬に小さな手足が、とてもかわいらしい。
赤子は素晴らしく赤い目をしていた。その目で青年を見て、きゃっきゃと楽しそうに笑っている。
「君、親はどこかな?」
そんな赤子に律義に問いかけながら、青年は赤子の様子をじっくりと観察する。
まとっている産着は上質のものだ。おそらくは絹で、美しいフリルが縫い付けられている。赤子の肌にも、淡い金色の髪にも少しも汚れはない。
隣に置かれている革の水筒を開けてみると、そこには新鮮なヤギの乳がたっぷりと入っていた。さらに隣の袋には、上質な綿の布がたくさん詰められていた。こちらはおそらく、おむつなのだろう。
「どう見ても、豊かな家の子なのだけれどね……おや?」
赤子の胸元に、紙が一枚挟み込まれている。それを見て、青年は顔を険しくした。
『訳があって、育てられません。どうかこの子をお願いします』
子供の名も親の名もなく、ただそれだけが書かれていた。深々とため息をついて、青年は赤子に向き直った。
「君、行くところがないみたいだね。よかったら、私と一緒に来るかい?」
その言葉に、赤子は笑って小さな手を差し出す。自分が置かれている状況を理解しているはずもないのに、目の前の青年は自分の味方なのだと、そう思っているかのような動きだった。
彼はその手の前に、自分の指を差し出す。赤子はさらに楽しそうに笑って、その指をつかんだ。
「……まあ、これも何かの縁だね。里に連れていけば、誰かしら育ててくれる人が見つかるだろう」
そんなことをつぶやきながら、青年は赤子を抱き上げた。隣に置かれた水筒も拾い上げて、肩に担いでいる。
「そうだ、名乗っていなかったね。私はシオン。里までの短い間だけど、よろしく」
そうしてシオンは、赤子を抱いて歩き出す。きゃっきゃという明るい笑い声を連れて、彼は町に背を向けて歩き出した。
彼の背後、大岩のそばに広がる森の中では、執事らしき身なりの人物がその一部始終を見届けていた。
◇
「……とまあ、君を拾った時はこんな感じだったよ。あの時の産着から何から、全部とってある。いずれ、実の親を探すことになるかもしれないなとは思ったから。それがまさか、こんな騒動になるとは思ってもいなかったけれど」
粗末な馬車で黒髪をなびかせながら、シオンお父様はそう言って話をしめくくった。
「そんなことになっていたのですか……今まではもっと簡単に、『捨てられていたから拾ってきたよ』としか教えてもらえなくて……」
もっとも、私もそこまで当時の話を聞きたいと思ってはいなかった。自分には人間の親がいるのだろうけれど、今の私は天人のユリで、シオンの娘だ。そちらのほうが、ずっと大切だったから。
「それにその口ぶりだと、お父様は私をずっと育てるつもりはなかったみたいですね?」
「最初はね。当時の私はあまり、他人に興味がなかったから。子供なんて育てたこともなかったし、里の誰かに育ててもらおうと思っていたんだよ」
そう答えて、お父様は体をひねってこちらに向き直る。まっすぐに私を見つめて、くすりと笑った。子供の頃から見慣れた、とびっきり優しい笑顔。でもそこに、分かりやすく色気のようなものが混ざり込んでいる。
「でもね、私はそれから君を連れて旅をして……成人の儀を終えて、里からの迎えと合流した時には、もう君のことを手放せなくなっていた。その子はどうした、と聞かれて、『拾い子です。私の娘として育てますよ』と即答したら、みんな言葉を失うくらい驚いていたよ」
昔のお父様は、いったいどんな人物だったのだろうか。今のお父様は、里の長という名の雑用係を引き受けてしまうくらいにはお人よしだと思うし、周囲の人たちとも仲良くやっている。
でも昔のお父様は、どちらかというと孤高の人だったのではないかと、そんなことを思った。
考え込む私に、お父様はついと顔を寄せてくる。
「ここまで私の心を捕らえたのは、君が初めてなんだよ? そうして、私を変えたのも君だ。責任、取ってくれるね?」
「あ、あの、お父様。顔が近いです。それに責任って……」
お父様はそんなことを言いながら、すっと私の手を取った。陶酔したような目で、私の手に頬を摺り寄せている。
馬車の手綱を握っている御者は、こちらを全く気にしていない。それもそうだろう、あの御者は私が術で生み出した式神なのだから。
でも今は、ちょっと面倒でも人間の御者を雇っておけばよかったかなと思っている。たぶん人目があれば、もう少しお父様の行いもおとなしくなっただろうし。
「どうして恥ずかしがるのかな、ユリ? 私たちは旅をしている学者夫婦。ちょっとくらい人前で触れ合ったところで、問題はないだろう? というかそもそも、ここは人里離れた野原だしね」
「それはまあ、そうなんですが……やっぱり恥ずかしくって……嫌ではないんですけれど……」
「ふふ、本当に君は可愛いね。そんなところは、昔とちっとも変わらない」
「……私、もう大人ですが。少なくともあと半年ちょっとで、正式に一人前の天人に認められる予定ですが」
「そうだね。だから困るんだ。赤子の頃のように可愛がっていたいのに、君はどんどん新しい魅力を身につけていって、大人の女性になっていって……一瞬たりとも目が離せない」
お父様はさらに顔を近づけてくる。互いの吐息が感じられるほど近くに。その青紫の目は、とろりとした光をたたえて私を見つめていた。
「どうか、だからずっと、君のそばに」
その時、馬車ががくんと揺れた。どうやら、道のくぼみに車輪がはまったらしい。身をよじって向かいあっていた私たちは、その拍子につんのめってしっかりと抱きしめ合ってしまう。
「……まったく、こんな時に揺れなくてもいいだろうに。私の一世一代の告白を、こんな形で邪魔されるとは思わなかったな」
私をしっかりとつかまえたまま、お父様はそう言ってぼやいている。
「まあ、いいか。私たちには時間ならたっぷりあるのだからね。またいずれ、君が驚いて動けなくなるくらいの告白を、お目にかけてみせるよ」
「……なんだかとんでもないことになりそうな気もしますが……一応、楽しみに待っておきますね」
オイジュスの屋敷を出てからの短い旅の間に、お父様は幾度となくこうやって甘い言葉をささやいてきた。
隠していた思い、というか私がうっかり気づかずにいた思いをはっきりと打ち明けてから、お父様はすっかり遠慮がなくなってしまった。
正直、戸惑いはあった。でもそれ以上に、ずっとずっとお父様と一緒にいられるだろうということが、とても嬉しい。
「だったらこの旅の間に、慣れておかないといけませんね。ねえ、シオン?」
今の私たちは、夫婦ということになっている。それはつまり、未来のための準備運動のようなものだろう。
「ふふ、やっぱりこの旅についてきてよかった」
私の返事を聞いたお父様が、心底嬉しそうに笑った。
きっとこの旅を終えて、あの山脈の近くの町まで戻ってきた時には、私たちの関係は変わっているのだろう。
それを見て、迎えにきた天人のみんなはどんな顔をするのかな。なんとなくだけれども、ちょっぴり呆れつつも祝福してくれるような気がする。
そんな様を想像しながら、お父様の胸にぎゅっと頬を寄せた。子供のころから変わらない、懐かしくて優しい香りがした。
◇
一方その頃、オイジュスの屋敷。
その一室では、正式にこの家の跡継ぎとなったエドガーが、公爵夫妻と共に領地の統治について話し合っていた。机の上には、たくさんの書類が広げられている。
エドガーはもとより聡明な青年として知られていたし、公爵夫妻も先日までのふぬけた様子が嘘のように、てきぱきと実務をこなすようになっていた。
そうしてそのさまを、青い小鳥が見守っている。小鳥は嬉しそうに机の上を歩いたり、時折エドガーたちの肩に留まったりしていた。
しばらくして仕事が一段落ついたのか、エドガーたちは満足げな顔で書類を片付ける。それから茶を運ばせて、休憩を取り始めた。
「本当に君は優秀だな、エドガー。ずっと親戚たちの進言を突っぱねていた過去の自分を、恥ずかしく思う」
「いえ、こうして公爵様と奥方様に認めていただいた。そうして、ジャスミンの力になることができた。それだけで、十分です」
「まあエドガー、私たちのことは伯父伯母と呼んでくれていいのよ。あなたは私たちの養子となったのだし、それに……ジャスミンについて語り合える、数少ない仲間なのだから」
公爵夫人のその言葉に、小鳥がふわりと宙に舞い上がった。そのままジャスミンの姿となり、空いた席にすとんと腰を下ろす。
『お兄様が、本当にお兄様になってくれて、私も嬉しいの。……でもあと二十年もしたら、親子くらいに年が離れてしまうかしら。ちょうど、ユリとシオン様との関係とは逆ね』
はしゃいだその言葉に、そこに出てきた名前に、他の三人は同時にしんみりした顔をする。
「ユリさん……彼女を大舞踏会で見かけた時は、息が止まるかと思った」
「どうにかして彼女をここに招かなくては、そんなことしか考えられなかったわ」
「……今としては、少々強引なやり方だったと思っている。そのせいで、彼女は私たちにあまりいい印象を抱いていないようだったし」
『けれどそのおかげで、私は目覚めることができた。消えてしまう前に、彼女に助けを求めることができたの』
「ですから僕たちは、このオイジュス領を、そしてこの国を平らかに治めていきましょう。それこそが、ユリさんにできる償いであり、恩返しなのですから。……そうですよね、伯父上、伯母上」
エドガーの言葉に、公爵夫妻は神妙な顔をしてうなずいた。それを見たジャスミンが、静かにつぶやく。
『私……最初はね、お父様とお母様が亡くなるのを見届けたら天に帰ろうと思っていたのよ。でも、見守りたいものが増えてしまったわ』
エドガーたちは口をつぐんで、ジャスミンに注目する。彼女は家族たちを見渡して、静かに微笑む。
『ユリが生きている限り、私も存在することができる。その時間を、私たち人間の世界の平和のために使いたいなって、そう思うのよ。幽霊でしかない私にだって、きっとできることがある』
半ば透き通った顔に決意を込めて、ジャスミンは力強く言い切った。しかし次の瞬間、彼女は自信なげに視線をさまよわせた。
『その、でもね……そうすると、もしかすると幽霊屋敷とか、そんな噂が立ってしまうかもしれないけれど……それでも私、ここにいて、いい?』
「もちろんだ。もうどこにもいかないでくれ、ジャスミン」
「そうよ。またあなたがいなくなってしまったら……私たち、今度こそ耐えられないわ」
「先のことを心配しても仕方がないよ。それに、どんな噂が立ったって、僕たちは君といることを選ぶから」
三人の返事に、ジャスミンは目を潤ませる。ぽろぽろと涙を流しながら、それでも彼女はまた微笑んだ。この上なく、幸せそうに。
そうして彼女はつぶやく。ここにいない、自分の片割れに呼びかけるように。
『私たちに未来をありがとう、ユリ』
彼女を見ている三人の家族の目元にもまた、美しい涙が光っていた。
ここで完結です。読んでくださって、ありがとうございました。
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