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36.赤い瞳

 私の目の前で、私を馬鹿にするかのように気ままに躍っている炎。それが、ぴたりと動きを止めた。まるで凍りついたかのように。


 瞬時にして、離れを包む全ての炎が動きを止めてしまったのだ。それはとても不思議な光景だった。


 けれどこれは間違いなく私がしたことなのだと、なぜかそう確信できていた。


 そうして私は、迷うことなく炎を見つめ続ける。炎はどんどん縮んで、小さくなっていった。私の望み通りに。


 離れを包み、焦がしていた炎は、もう私が両腕で抱えられるくらいの大きさになっていた。そして炎はそれでもまだ縮み続け、ついに小さな石のようになってしまった。


 熱でちりちりになってしまった芝生の上に、それはころんと転がり落ちる。


 クルミくらいの大きさの、鮮やかな炎の色の石。かがんでそれを拾い上げると、ほんのり温かかった。石をぎゅっとにぎりしめて、顔を上げる。


 離れはすすけて黒くなっていたし、まだ煙の臭いが立ち込めていたけれど、顔をそむけたくなるような熱さはもう消えてなくなっていた。火事は、終わっていた。


 私は、炎を自在に操った。天人のみんなも術で炎を操れるけれど、ここまで見事に、自在に操れる人はいなかった。


 どうして、私にこんなことができたのだろう。訳が分からなくて、ただぼんやりと立ち尽くす。手の中の石の温かさだけが、これは夢ではないのだということを物語っていた。


 どれくらいそうしていたのか、後ろから呆然としたような声がした。エドガーの声だ。


「……ユリ、さん……貴女が、今の火事を……あの言い伝えは、正しかったのか……」


 そろそろと振り返ると、みんなが少し離れた芝生の上に立っているのが見えた。


 私が炎を操って小さくしている間に、お父様が屋上から降ろしてくれたらしい。みんなとても心配そうに、私のことを見つめていた。


 はっと我に返って、そちらに駆け寄る。みんなすすにまみれていたけれど、ひとまず大きな怪我はなさそうだった。そのことに、ほっと胸をなでおろす。


「エドガー様、あの言い伝え……というのは?」


 おそるおそる口を開いて、エドガーに問いかける。彼はよほど驚いているのか、かすかに震えているように思えた。


「……オイジュスの一族は、古くから占いや言い伝えに縛られています。けれど僕は、それらはただの迷信に過ぎないと思っていました……まさか、本当に……そんな……でも、さっき見たものは、確かに……」


「どうした、エドガー? 突然の火事に動揺したのは分かるが、それにしてはやけに取り乱してはいないか。いつも冷静な君らしくないな。今のは、ユリさんの術だろう?」


 心底不思議そうに首をかしげているハーヴェイに、首を横に振って話しかける。


「いいえ、ハーヴェイ様。私は、あんな術は使えません。炎を多少操ることはできても、あれだけの炎を消し去ることなんて……エドガー様、私がしたことについて、何か心当たりがあるのですか?」


 重ねて問いかけると、エドガーはうつむいて息を吐いた。あらぬかたを見つめ、震える声で不思議なことを口にした。


「……赤い瞳は、不吉だ。その言葉は根拠となるできごとと共に、長く語り継がれてきたのです」


 そうして彼は、独り言のようにつぶやき始めた。


「かつて一族に、赤い瞳の者がいた。その者は炎を手足のように操り、オイジュスの領地を焦土と化し、一族を、民を恐怖のどん底に叩き落とした。それ以来、一族は赤い瞳の者が生まれるたびに、速やかに追放していたのです。……だから、ローズも……」


 エドガーは顔を上げ、私をじっと見つめた。それ以上何を言っていいのか分からないのか、戸惑いを顔いっぱいに浮かべて、ただ唇を震わせている。


 その後ろのステファニーたちは、とても複雑な顔をしていた。言い伝えなど嘘だろうという思いと、さっきのできごとへの驚きと。その他様々な思いが、彼女たちの顔に浮かんでは消えている。


 そうやってエドガーたちを順に見渡していると、一番後ろにいるお父様と目が合った。


 ひどく緊迫した、居心地の悪いこの空間で、お父様だけは穏やかに微笑んでいた。その額に光の紋様はもうなく、すっかりいつも通りのお父様だった。


 お父様は進み出てきて、私の前に立った。そうして、私の手元に視線を落とす。その視線にうながされるようにして、ずっとにぎり合わせていた両手を開いた。


 私の手の中からは、夜の闇の中でも赤く光る石が姿を現した。その石に意識を集中すると、ふわりと一筋の炎が立ち昇る。


 炎は形を変え、ひらひらと宙を舞っている。私の思うまま、まるで蝶のように軽やかに。今の私は、術を使うよりずっと簡単に、まるで手足のように炎を操ることができていた。


 夜の闇に舞う炎の蝶たち、とても美しいその姿をぼんやりと眺めながら、お父様に話しかける。


「お父様、私……今まではここまで自由自在に炎を操ることはできませんでした。そもそも、建物を丸ごと包むほど大きな炎を瞬時に消すことのできる術なんて、聞いたことがありません」


「そうだね。里で一番の手練れであっても、これだけの炎を消すには三十分はかかるね。私たち天人の術にも、限界はあるから」


 お父様は炎の蝶に注意深く手を近づけて、重々しくうなずく。


「それにその炎の蝶。式神ではなく、炎そのもので蝶を形作っているんだね。術で再現できなくもないけれど、かなり高度なものになるよ。少なくとも私には無理だ」


「私だって、無理でした。……ついさっきまでは」


 そう答えてから、炎の蝶をさらに次々と舞い上がらせる。燃え上がる蝶の群れは辺りをひらひらと舞っている。それをぼんやりと眺め、そうして一度に消す。まばたきするのよりも簡単に。


「きっと、エドガー様のおっしゃる通り、赤い瞳にまつわる言い伝えは正しかったのでしょう。火事を止めたいと強く願ったことで、私の中の力が目覚めたのかもしれません」


 手の中で、赤い石はとても鮮やかに輝いている。ついさっきまで離れを焦がしていた禍々しい炎だったとは思えないほど美しかった。


「私、赤い瞳でよかった。この力のおかげで、みんなを救えた」


 にっこりと笑って、赤い石をぎゅっとにぎりしめる。私の指の隙間から、ほのかな赤い光が漏れていた。


「ただ……こうして言い伝えが正しいと立証されてしまった以上、私は早くここを立ち去ったほうがいいのだと思います」


「ユリさん! そのような、ことは! 僕たちは貴女に命を救われました。貴女は言い伝えの中の不吉な存在とは、違います!」


 珍しく声を荒げるエドガーに、苦笑しながら首を横に振る。


「いいえ、私は元々、ここにいるべき存在ではなかったんです。赤い瞳のローズ、言い伝えの通りの力を持つ私がここにいれば、オイジュスの方々はきっと動揺してしまいます。これ以上、人間の世界を混乱させたくはありませんから」


 優しく言い聞かせると、エドガーは無念そうな顔で口を閉ざした。


 私が手に入れた力、いや、ずっと私の中に眠っていたこの力は、人間たちに知られないほうがいいものだ。


 この力は人間たちを恐れさせ、余計な争いを招く可能性がある。だったら私は、急いでここを離れなくてはならない。そう思った。


「ジャスミンと会えなくなるのは残念ですけれど……今夜のうちに、そっと消えようと思います。エドガー様、後のことはよろしくお願いしますね」


 公爵夫妻も、屋敷の人間も、たぶんまだ薬で眠り込んでいると思う。最初に人間の世界に出てきた時と同じように、術で馬車と御者を生み出せば、深夜こっそりここを発つこともできるだろう。


 そんなことを考えていたら、いきなり何かが飛び出してきた。あっという間に、ぎゅっと抱きしめられる。お父様たちも、驚いた顔をしていた。


 それは、オイジュス公爵夫妻だったのだ。彼らは寝間着のまま、柔らかな室内ばきのまま、ここまでやってきていたのだ。


 私の背後、お父様たちの死角から飛び出してきた二人は、私を抱きしめて口々につぶやいていた。彼らも薬で眠らされていたのか、どことなくふらついている。


「ユリさん、いや、今はローズと呼ばせてくれ。君の力、言い伝え通りの力を、見せてもらった……凍りつく離れの炎、闇夜に舞う炎の蝶……」


 オイジュス公爵が、震える声で言う。まだ薬が抜けきっていないのか、夢でも見ているようなぼんやりした口調だった。


「でも、あなたの力は、エドガーたちを救ったわ。あなたは、言い伝えにあるような悪い存在ではないわ」


 公爵夫人も、涙ながらに語りかけてきた。私をしっかりと胸に抱きしめたまま。公爵はそんな私たちをまとめて抱きしめていた。


「私たちが間違っていた。私たちは、かつて赤子の君を捨てるという過ちを犯した。けれどそれからも、ずっと過ちを犯し続けていたのだ」


「そうよ……私たちは、この家を変えなくてはならなかったのよ。赤い瞳のあなたが、この家の一員として一刻も早く戻ってこられるように。お義父様が亡くなられるまで待つなんて、そんな悠長なことをしていてはいけなかったの」


「ローズ、どうか君には見ていてほしい。私たちは、オイジュス家を変えてみせる。言い伝えは言い伝えとして語り継ぐとしても、それにとらわれることのない、そんな家に」


 やけにりりしく、二人は言い放つ。そうして同時に、エドガーに向き直った。


「エドガー。君も手伝ってくれ。私たちは共に、この家を変えるのだ。この国のため、そして、ローズのために」


「ジャスミンがあなたを選んだわ。今度はあなたが、どうかローズの力になってあげて。きっとあの子も、それを望んでいるだろうから」


「……分かりました、公爵様、奥方様。僕も、喜んで力になりましょう」


 私たちは黙って、そんな宣言をする彼らを見つめていた。ステファニーたちは感動したような顔で、そしてお父様はどことなく悲しそうな、複雑な笑顔で。

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