17.緊急事態と私たちの秘密
車両の一番後ろには、あかあかと燃える炎。吹き荒れる風にあおられて、どんどん大きくなっている。
「……駄目だ、消せそうにない!」
車両の後ろのほうに近づいたハーヴェイが、悲痛な声を上げる。ステファニーは車両の真ん中あたりに立ち、前と後ろを交互に見ていた。
「でしたら、飛び降りるしかないのでしょうか……この車両は、少しずつ速度が落ちているようですし……しばらく待てば、どうにか……」
「いや、火が強すぎる。おそらくは、火が車両全体に回ってしまうのが先だ。せめて少しでも火の勢いをそぐことができれば、あるいは……」
周囲に目をやりながらおろおろする二人をよそに、私は別のことを考えていた。
火を消すだけなら簡単だ。術を使い、水か土を呼び出せばいい。あるいは風の刃で、燃えている部分を切り離してしまうという手もある。そうすれば、ひとまず私たちの安全だけは確保できる。
問題は、ここにハーヴェイがいるということだった。彼は私の正体を知らない。目の前で術を使ってしまったら、しらを切り通せる気がしない。
それにきっと、後でこの車両は調べられるだろう。いきなり連結部が外れて、おまけに火の手が上がった。その原因を突き止めなければならないと、人間たちはそう考えるだろうから。
その時に、どうやって火を消したのかが問題になるだろう。ステファニーとハーヴェイには口裏を合わせてもらうとしても、調査にきた人間たちをごまかしきれるだろうか。
どうしていきなり水や土が現れたのか。火の手が上がったはずの場所に、刃物で切り落としたような跡があるのはどうしてなのか。きっとそんな風に思われてしまうだろう。
そんな考えが、次々と頭の中を走り抜ける。そうしている間にも、炎は大きくなっていた。
駄目だ、悩んでいる時間はない。こうなったらとにかくこの場を生き延びることを優先させよう。後のことは、後で考えるしかない。
そう決意して炎に向き直ったその時、頭の中で声がした。
『ユリ、車両の前方に来てくれ!』
私だけに聞こえたシオンお父様の声に、ほっと力が抜けて涙ぐみそうになる。考えるより先に、足が動いていた。お父様の指示通りに、炎に背を向けて前に向かう。
この車両の一番前に立ち、どんどん離れていく汽車を見る。その後ろの連結部に、お父様が立っていた。もう、互いに手を伸ばしても届かない距離だ。
お父様のつややかな黒髪が激しい風にあおられて、乱れ舞っている。こんな状況なのに、綺麗だなと思ってしまった。お父様がいる、ただそれだけで、私の心には随分と余裕が生まれてしまっているようだった。
『まずは、そちらとこちらを近づけよう。私たち二人で、縄を張るんだ。こうも離れていては、連結し直すこともできないからね』
この風の中では、全力で叫んでも話すことなんてできなかっただろう。でも術を介して伝わるお父様の声は、とてもはっきりと聞こえた。
大きくうなずいて、術を使う。太い縄を頭に思い描いて、その縄を現実の光景に重ねていく。それから、お父様のいるほうへとどんどん伸ばしていった。人間たちには見えない、透き通った縄だ。
前のほうから、別の縄が伸びてくる。二本の縄はからみ合い、きっちりと結ばれた。
『よし、私がこの縄を引いて二つの車両を近づけるから、君は縄が切れないよう補強しておいてくれ』
その言葉に従い、縄に意識を集中した。すぐ後ろでステファニーとハーヴェイの気配がする。きっと二人とも戸惑っているのだろうけど、説明しているだけの余裕はない。
やがて、じりじりと縄が短くなっていく。それに合わせて、前の車両がどんどん近づいてきた。
お父様の顔を近くで見たら、またちょっと泣きそうになってしまった。まだ気を緩めるのは早い。そう自分を叱り飛ばして、術をかけ続ける。
「あの金具を、あそこにはめ込めばいいのかな。思ったより単純な構造で助かったよ」
お父様が落ち着き払った声で、そうつぶやいているのが聞こえる。
連結部は二人くらいが並んで立っていられるくらいに大きな金属の板でできていた。その板が、両方の車両のそれぞれから突き出している。両脇に、丸い穴がいくつも開いていた。
そうしてその板の横には、何本もの鎖が取りつけられていた。その先には、大きな釘のようなものが下がっている。揺れに合わせて釘や鎖が互いにぶつかり合い、がちゃがちゃと大きな音を立てていた。
私たちを安心させるように微笑むと、お父様はさらに二つの車両を近づける。連結部の金属板が、ぴったりと重なった。二枚の金属板に空いた穴も、きれいに重なる。
「ユリ、車両の位置をこのまま固定しておいてくれ。その間に、連結部をつなぎ直すから」
術で生み出した見えない縄をぴんと張って、二つの車両をきっちりと結ぶ。
それを見届けてから、お父様はすっと手を空中に掲げた。それに合わせるように釘が一斉に浮かび上がり、するりと板の穴にはまり込む。そうして、ようやく二つの車両は元通りにつながった。
安堵からぺたんと座り込みそうになった私を、駆け寄ってきたお父様がすかさず支える。
「怖い思いをしたね、ユリ。あと少しだよ。さあ、あの火を消してしまおう」
お父様は私の肩を抱いて、車両の最後尾に向かっていく。炎はさっきよりも勢いを増し、車両の中ほどまで腕を伸ばし始めていた。それを見ながら、お父様だけに聞こえるような小さな声でつぶやく。
「火を消すのにうかつに術を使えば、どうやっても痕跡が残ってしまうので、どうしていいのか分からなくて……」
「なるほど、それを気にして消火が遅れたんだね。君は思慮深い、いい子だ。大丈夫、ここは私に任せて」
そう言うと、お父様は炎の前に立ちはだかり、両腕を伸ばした。次の瞬間、炎がぴたりと動きを止めた。それから、するすると縮んでいく。
ステファニーとハーヴェイが目を丸くしている。お父様は微動だにすることなく、炎を見つめ続けていた。
炎はさらに縮み、ついに消えた。床や壁の黒い焦げ跡も、同じように縮んで、元の色を取り戻していく。
やがて、車両の中はすっかり元通りになった。辺りにほんのかすかに漂う焦げ臭さだけが、確かにそこに火の手が上がったことを物語っていた。
「ふう、どうにかなったようだね。間に合ってよかった」
「お父様、今のは?」
「君に見せたことはなかったかな。時戻しの術だよ。色々な物の時を戻すことができるんだけれど、制約が多くてね。生き物には使えないし、せいぜい数十分しか戻せないし、おまけにとても疲れるし……」
そう答えて、お父様は大きなあくびをする。ハーヴェイが信じられないものを見るような目でお父様を見続けていることにも構わずに、お父様は私の手を引いて中央の座席に向かう。
「この汽車は、もうしばらく走っているのだろう? 少し寝かせてくれ……ユリ、後は任せた」
そう言うが早いか、お父様は私を座席に座らせ、自分もその隣に座った。そしてあっという間に、そのまま眠ってしまったのだ。私の肩にもたれて。
私とステファニーとハーヴェイは、ただ黙りこくっていた。ステファニーはちらちらとこちらを心配そうに見てくるし、ハーヴェイはもの言いたげな目で私とお父様を交互に見ていた。
「……あの、一つお願いがあるのですが」
説明しなければならないことは山ほどある。でも他の乗客が来る前に、これだけは言っておかなくてはならない。
「ハーヴェイ様、今しがたこの車両で見聞きしたことについては、どうか他言無用に願えますか」
彼のほうを向いて、正面からじっと見つめ返す。ハーヴェイはしばしためらった後、そっと口を開いた。
「……それは、構わないが……一つ、交換条件を出してもいいだろうか」
「何でしょう?」
「君たちには、何か事情があるのだろう。よければ、その事情を少しなりとも教えてはもらえないだろうか。そうでないと、先ほどの白昼夢のような光景について、いつまでも納得のいかない思いを抱えてしまいそうなんだ」
「……はい。話せば長くなりますし、他の方には聞かれたくない話ですので、また今夜にでも」
この汽車の旅は、二日かかる。だから今日は、途中の町で一泊することになっているのだ。たくさんの人がいるこの汽車よりも、宿で話すほうが安全だろう。
その言葉に、ハーヴェイはふっと肩の力を抜いた。
「ああ。余計なことをせんさくして悪いとは思っているのだ。だが、そうしてもらえると助かる。……それにしても」
彼は切なげに微笑んで、私の隣を見た。お父様は私にもたれたまま、静かに寝息を立てている。
「シオン殿は、自分はユリさんの血のつながらない兄なのだと、そう言っていた。だが先ほど、君は彼を『お父様』と呼んでいた」
その指摘に、あっ、と声を上げそうになる。そういえば先ほどの騒動の中で、私は確かにそう言った。あわてていたのとほっとしたのとで、つい演技を忘れてしまっていたのだ。
「君たちの関係がどうなっているのか、とんと見当がつかない。それについても、教えてもらえることを期待している」
「あ、はい……」
これだけ色々見られてしまったからには、たぶん全部話さなければならないのだろう。その時のことを考えると、今から頭が痛かった。
「あら、これって……」
その時、車両の最後部でステファニーの声がした。彼女はそこにかがみこみ、火元の辺りを調べていたようだった。ほっそりとしていてはかなげな見た目の割に、彼女は行動力がある。
ハーヴェイが私の前を離れ、ステファニーのところに歩み寄る。そうして二人は、何かをじっと見つめているようだった。
私もそちらが気になったけれど、お父様を支えなくてはいけないので動けない。仕方なく、首だけを伸ばして二人に呼びかける。
「何か、あったのですか?」
しかし二人は、すぐには答えない。どうしたのかなと思っていたら、やがてハーヴェイが絞り出すような声でつぶやいた。
「……火元は、油を染み込ませた縄だ。それが、わらの束に巻きつけられていた」
「縄の反対側の端は、熱せられた石炭に結わえられていました。時間が経つと縄が発火して、わらが燃え上がる仕掛けになっていたようですわ。それは今外しましたので、もう問題ありませんけれど」
「それって……」
「間違いなく、人為的なものだね」
すぐ近くから、声がした。私にもたれて眠っていたお父様が、目を覚ましていたのだ。
二人で立ち上がり、ステファニーとハーヴェイのもとに向かう。二人が説明してくれた通りの仕掛けが、物陰に転がっていた。
とても簡単なその仕掛けは、とてもまがまがしいもののように思えてならなかった。