1.一人前になるために、いざ旅へ
「服はちゃんと着替えた、荷物も持った、忘れ物もなし」
野原に、ぽつんと一台の馬車。私はその前に立ち、最後の確認をしていた。
私が着ているのは腕にぴったりと沿った袖と、後ろに大きくふくらんだスカートのドレス。身動きするたびに、服の飾りのリボンがひらひらと揺れる。
普段着とはまるで違う、可愛らしいけれどちょっぴり動きにくい服だ。
そんな私を、大人たちが優しく見守ってくれている。みんなは、これから旅に出る私を見送りに来てくれたのだ。
これから私は、一年をかけて旅をする。私が育った里では、年頃になった者は一人で旅をして、世界を見て回るという習わしがあるのだ。
無事にその旅を終えて戻ってきた者は、晴れて一人前の大人と認められる。
私ももう十六、そろそろ旅に出てもいい年頃だ。だからしっかりと準備をして、こうして里を出てきたのだ。
「それじゃあ、いってきます!」
大人たちに笑顔で手を振って、張り切って箱形の美しい馬車に乗り込む。いざ、出発だ。
「さあ行こうか、ユリ」
そう言って私の隣にするりと腰を下ろしたのは、やはり笑顔のお父様だった。
「お父様、だから私は一人で旅に出るって、ずっとそう言っていましたよね」
「可愛いユリに一人旅なんてさせられないと、私もずっとそう言っていたよ?」
馬車に揺られながら、隣のお父様をにらみつける。お父様は涼しい顔で、窓の外を眺めていた。
私と同じようにいつになく着飾っていて、それがまたとっても似合っている。
袖口にレースがあしらわれたジャケットを着て、首元には純白のスカーフ。飾りの宝石がきらきらと輝いている。
つい見とれそうになるのをこらえて、精いっぱい難しい顔で言い立てた。
「……年頃になった者は、山脈を越えて向こう側の世界を旅する。その旅、つまり『成人の儀』は、普通一人で挑むものですよね」
「普通、はね。ごくまれに、付き添いがつくこともあるよ。……君は私たちとは違うから、心配なんだ」
私たちとは違う。お父様のその言葉に、私は反論できなかった。
私たちは――正確には、私以外の里のみんなは――天人と自称する存在なのだ。様々な術を操り、森深い里で自然と共に静かに穏やかに生きている。
成人の儀から戻ってきた後はずっと年を取ることなく、何十年、何百年と同じ姿で生き続ける。天人は姿形こそ人間とそっくりだけれど、まるで違う存在だ。
天人の里と人間の世界との間には高い高い山脈がそびえていて、人間たちはこの山脈を越えられない。
成人の儀を終えて一人前になった天人だけが、空を飛ぶ術でこの山脈を越えていけるのだ。
だから人間たちは山脈の向こうのことは知らないし、天人たちの存在も知らない。
成人の儀の間、天人の若者たちは人間のふりをして過ごす。天人と人間との表立った交流はない。ずっとずっと昔から、そんな関係なのだそうだ。
「それは確かに、私は天人の生まれではないですけど……でもちゃんと術も使えますし、自分のことは天人だと思っています」
「うん。私もそう思うよ。けれど君はやはり、この人間の世界に縁のある存在だからね。不測の事態が起こらないとも限らないだろう? そうだね……例えば、君の血縁に出くわしてしまうとか」
お父様は天人の里の長で、名前をシオンという。二十歳そこそこにしか見えないけれど実年齢は三十七歳、天人としてはまだまだ若造だ。
十六年前、お父様は成人の儀で人間の世界を旅していた時に、捨てられていた赤子の私を拾って帰った。それからずっと、私はお父様に育てられている。
そのことは、とても感謝している。里のみんなも、天人ではなく普通の人間である私を快く受け入れてくれたし、お父様は私のことをそれはもう大切にしてくれた。ちょっと過保護なくらいに。
私は一度だって、人間の生まれだからということで引け目を感じるようなことはなかった。それに私は、自分のことを天人だと思っている。
けれどやはり今の私は人間でしかないのだ。お父様たちとは違う、短い寿命しか持たない存在だ。
でもこの成人の儀が終われば、私も晴れて正式に天人となることができるのだと聞いている。
この旅をやりとげれば、私もお父様やみんなと同じ時を生きることができるのだ。本当の意味で、天人になれるのだ。
だから、私は人一倍張り切っていた。念入りに準備して、人間の世界のこともしっかりと学んで。一年間、一人でやっていける自信があった。
それなのに、お父様がついてきてしまうなんて。
最初お父様は、見送りにくるだけのはずだった。いつものゆったりした普段着で、他の大人たちに混ざって野原に立っていた。
ところが私が馬車の座席に腰を下ろしたとたん、するりと向かいに座ってしまった。術を使って、一瞬で身なりを変えて。どうもこの感じだと、最初からこうするつもりだったらしい。
そんなことを考えている間も、馬車は軽やかに走っていた。とにかく、どうにかしてお父様を説得しなくては。
大きくため息をついて、もう一度お父様を恨めしげににらむ。
「この成人の儀は、私にとってとびきり特別だって、お父様も知っているでしょう。……他のみんなのように、いえそれ以上に立派にやり遂げたいんです」
「そう肩ひじ張らなくてもいいと思うよ、ユリ。一人旅だろうが二人旅だろうが、一年間旅をして戻ってくればいいだけの話なのだからね」
「それは……そうかもしれませんが……」
「どうしても失敗できない旅なら、頼れる仲間がいたほうがいいとは思わないかい?」
いたずらっぽく笑って、お父様が私の顔をのぞき込んでくる。長くてまっすぐな黒い髪がさらりと揺れる。たきしめている香の甘い香りが、ふわりと鼻をくすぐった。
「私も、もう一度人間の世界を旅したくなったんだ。こんなことでもないと、山を越えての長旅はそうそうできないからね。お願いだから、このまま連れていってほしいな」
お父様が哀願するように目を細めた。ついほだされてしまいそうになるのを振り切って、強く言い張る。
「だ、駄目です。この旅は、私のための試練なんですから」
「つれないなあ、ユリ。成人の儀は、ただの旅じゃない。人間の世界で見聞きしたものを里のみんなに伝え、記録に残していく。そういう意味もあるんだよ。情報を集める目や耳は、多いほうがいいだろう?」
「駄目なものは駄目です。近くの町に着いたら、そこからは別行動ですから」
「強情だね。泣き落としも、言いくるめるのも駄目か……しっかりした子に育ってくれて嬉しいけれど……さて、どうしたものか」
お父様がまた窓の外に目をやって、小さくため息をついた。若々しいその横顔は、鋭さとなまめかしさを同時に感じさせるものだった。早い話が、お父様はかなりの色男なのだ。たぶん、里でも一番の。
「よし、決めた。ならば私も一人旅をしよう。一人旅だから、どこをどう旅するのかも自由だ。たまたま行き先が君とかぶってしまうかもしれないけれど、それはあくまでも偶然だからね」
どうやらこれは、逃げ切れそうにない。半ばあきらめつつもまだ納得しきれずに小声でうなっていると、お父様がうきうきと言葉を続けた。
「そうだ、人間の世界を旅している間は呼び名を改めたほうがいいね。私たちの見た目は数歳程度しか違わないし、『お父様』と呼んでいたら目立ってしまうよ」
「それは、まあ、そうですけど……」
「だからこれからは、シオンと呼んでくれ。旅をする恋人たち。そんな設定でどうだろう」
「却下です」
確かに小さな頃の私は、「大きくなったらお父様のお嫁さんになるの」と言っていた。そしてお父様はいまだに独身だ。私たちには血のつながりもないし、そういう関係になっても問題はない。天人たちは寿命が長いからか、年の差のある恋人や夫婦も珍しくはない。
だからと言って、お父様の恋人のふりをするなんて恥ずかしくてたまらない。精いっぱい澄ました顔で反論する。
「でしたら『お兄様』って呼びます。さすがにこれは、譲れませんから」
「兄妹、ね……。私たち天人の里でならともかく、人間たちの世界では、これほど似ていない兄妹も珍しいとは思うけれど」
お父様は黒くてまっすぐな髪に、切れ長の鋭い青紫の目。私は白に近いふわふわの金髪に、ざくろの実のような深い赤の目。ちょっと猫に似た、ぱっちりした目だとみんなに言われている。
里にいる間はまったく気にしていなかったけれど、人間たちの世界ではこの違いは目立つのかもしれない。
「でも、名前で呼ぶのはなしです」
「つれないね。たまにはちょっとした遊び心も大切だと、そう教えたつもりなんだけどね」
「お父様は浮かれすぎです」
「仕方ないだろう。愛娘との楽しい二人旅なんだから」
お父様はそう言って、晴れやかに笑う。さっきは一人旅だと言っていたのに、もう。
昔からこの人はそうだった。いまいちつかみどころがなくて、ふわふわと柔らかく笑いながら、いつの間にやら自分の意見をちゃっかり通してしまっているのだ。
けれどそれを嫌だとは思えないあたり、私もお父様にきれいに丸め込まれてしまっているのかもしれない。
「お父様こそ、これからは娘だなんて言っては駄目ですからね」
「大丈夫さ。私は人間の世界を旅するのは二回目だし、そんなへまはしない」
「本当かなあ……」
「おや、私を信じていないのかな。悲しいね。たった一人の大切な娘が、冷たい目で見てくるなんて」
そう言って、お父様はくすくすと笑っている。とっても楽しそうだ。
あきらめきった私と、鼻歌でも歌いそうなくらいに浮かれたお父様を乗せて、馬車はどんどん進んでいく。やがて遠くに、何かが見えてきた。
「ほら、ユリ。町が見えてきたよ。私たちが成人の儀におもむく時は、まずはあの町に立ち寄るんだ。今までは絵巻や口伝でしか知らなかった人間たちの暮らしが、そこにあるんだよ」
お父様が指さしている先に、何やらごちゃごちゃしたものが見えてきた。大きさも色もばらばらな何かが、ひしめくようにして寄り集まっている。生まれて初めて見る不思議な光景から、目が離せない。
これから、私の旅が始まる。胸を高鳴らせてため息をつく私の肩に、お父様がそっと手を置いた。