「ゆっくり休むといい」
屋敷の中に足を踏み入れる。
実家の侯爵家の屋敷ほどではないけれども、そこそこの広さを持つ屋敷だ。
辺境伯から援助でも受けているのだろうか。それとも騎士としての収入がそれだけ良いということなのだろうか。
そのあたりはここに来たばかりの私には判断がつかない。
それにしても……先ほどから驚いてばかりだったけれど、よく考えたらこの人、手袋越しとはいえ私のことをエスコートしているのよね。
元婚約者なんて手袋越しでも触れたくないって言っていた。そしてそれが当たり前だって周りもそういう目を向けていた。
『呪われた令嬢』である私にどうしてこの人は手袋越しとは言え、触れているのだろうか?
やっぱり政略結婚とはいえ、一応結婚するから我慢している? 先ほど私のことを可愛いなんて口にしていたけれど、それもきっと私が仮にも妻になるからであって本心ではないだろうし……。
私の歩幅に合わせて、ゆっくり歩いてくれるのもなんだか元婚約者とは違う。隣を歩くにしても、いつもおいていかれそうになっていたから。私は基本的に屋敷の外に出してもらえなかったから、ほとんど体力もなく、おいていかれないように必死だった。
「どうした?」
「……なんでもないです」
「そうか。何かあったら言ってくれ」
……相変わらずの満面の笑み。本当に意味が分からない。この人だけじゃなくて、ここの使用人も演技なのか分からないけれど私に対して嫌悪の表情などを向けてこない。仕事の場だからこそ、平然とした態度をしているのだろうか? 主人を大切に思うのならば私のような『呪われた令嬢』なんて奥様にしたくないだろうに……。
そんなことを考えていたら、目的の場所に案内されたらしい。
机やソファのおかれた客間に案内された私は腰かけるように言われる。言われた通りに腰かければ、何故かその人は隣に座った。
近い……。
こんなに近くに誰かが腰かけるなんて初めての経験で、戸惑う。
「カドット侯爵令嬢、名前で呼んでもいいか?」
「……ええ」
「じゃあニアって呼ばせてもらうぞ。ニアも呼び方を決めてくれ」
「……旦那様」
「それもいいけど、名前の方が嬉しいぞ!!」
「……マヌエトロ様」
「様はいらないぞ。母さんが夫婦は愛称で呼んだ方が仲良くなれるって言ってたからな。短めの愛称で呼んでもいいぞ!」
「……えっと、じゃあ、マヌ?」
「それがいい!」
キラキラした目で、期待するようにこちらを見るから勢いに押されて私は望まれるままにマヌと呼んでしまった。
この人はどうしてこんな演技をするんだろうか? 仲良くなれるって言っていたからって……どうせ本心でもないだろうに。
演技をすることで、『呪われた令嬢』である私を勘違いさせて何か利点でもあるのだろうか?
周りへの体裁? そういう仮面夫婦を望んでいるのだろうか? 二人っきりになったら、本性が見えるのかしら。
「結婚式は侯爵の希望で、早急だが一週間後だからな。それまでに急ぎになるが、色々準備するぞ」
「……マヌのご自由に決めていただければいいですわ」
「ダメだぞ! だって結婚式だぞ。女性にとっては結婚式は憧れの場なのだろう? バタバタしてしまうが、一週間でニアの意見も聞きたい!」
「……そうですわね。わかりました」
一般的には結婚式というのは、とても重要な人生の分岐点である。
王侯貴族は政略結婚が多いとはいえ、恋愛結婚も当然ある。そもそも政略結婚でも結婚式というのは、盛大に行われるものである。こんな風に出会って一週間で決行されることはまずない。
これも私の父親が早く私の籍を侯爵家から抜けさせたいからなのだろう。早く不良物件である私を嫁がせて、重荷を無くし、私は侯爵家とは一切関係ないとそう示したいのだ。私が『呪われた令嬢』だからこそ、侯爵家は多大な損害を受けたとそう面と向かって言われたこともあるもの。
会話をしながらも、少しだけ眠くなってきた。
……流石に、ほぼ休みなく辺境伯領までやってきたから疲れが出ているのだろうか。
出会ったばかりの人たちの前で、疲れを見せるなんて隙を見せる真似はしたくないのだけど……。
「ニア、眠たいのか?」
騎士をしているだけあって、目の前のこの人はすぐにそれに気づいてしまう。
「坊ちゃま、奥様は遠い地より来られたのですよ。疲労しているのは当然でしょう」
「それもそうか! ニア、気づかなくて悪かった。部屋を用意してあるから、ゆっくり休むといい」
「……はい。お気遣いありがとうございます」
どうして私を気遣う言葉を口にするのだろうか。こんな風に気遣われたことなんて今までなかったから、なんだか戸惑う。
戸惑ったままの私は、使用人の女性に部屋へと案内される。
あの人……マヌがいない場でも、私を案内する使用人は私ににこにこしている。どうしてなのだろう?
それに「一週間はここで休んでいただく形になります」と案内された部屋は、綺麗な部屋だった。お客さんが泊まる部屋を私が来るからと整えてくれていたものらしい。
なんで一週間は……と言っているのだろうと一瞬思ったけれど、そうか、一週間後には結婚するから寝室が一つにされるってこと……? と私は思い至って戸惑った。
普通の夫婦ならそうだろうけれども、私みたいなのと体面を気にして同室になんてしなくてもいいのに……。
そう思いながらも疲れがたまっていた私は、部屋着に着替えるとすぐに眠りについた。
ちなみに部屋着も私のために沢山用意されていて驚いたものである。