生生流転(しょうじょうるてん)
何者になりたかったのだろうと、ふと思うことがあります。すぐに浮かんでくるのは「職人」でしょうか。自身の手でモノを作りだして、そのモノに想いを乗せることができていれば、どちらかといえば苦手な「言葉」を、こうして、詩にしようなどとは考えていなかったように思います。
人生を思い通りに生きている人は、そう多くはないように思います。みな、たどり着きたい場所を思い描いて、けれども、そこから遠く離れた場所を歩いている、そんな意味を込めてみました。
静かに、時は流れゆく
「どこまで流れ、果てるのか」
みえぬ不安に急かされて
もがけど、時を掻き分ける 腕のかぎりを知らされて
叶わぬ「いま」に身をあずけ 遠い昨日を懐かしむ
人みな、時を泳げども
数多の腕のつくりだす 時流にのまれ、抗えず
力尽き果て、流される
人みな、時に浚われて
辿り行きたき岸辺より 遠く離れて、いまを行く
人、よく時を泳げども
みどり彩なすあの岸も いつか、大河の端となり
力敢えなく、浮き草は
月を映せど、闇深き 水面を沈む、そのときを
夢ともつかず思いゆく
生々流転は仏教由来の言葉のようです。「万物は幾度も生死を繰り返し、あまたの生を経験していく」というような意味だと思います。お釈迦様についても、お釈迦様たる以前に、幾度もこの世に生まれ変わり、様々な体験をしたとされています。確か、飢えた虎を憐れに思って、谷底に身を投げたというのも、その一つだったように思います。結局のところ、輪廻転生は解脱するまでのいのちの「修行」というとらえ方なのですよね。