おはよう
「天狐よ。早く起きろ。昨日ワシが言っていたこと覚えておるな?」
「……道善。こんな朝っぱらからどういう了見だ? 我は日が高く昇るまでは寝て過ごすのだ……まだ日すら出ておらんではないか……我の眠りを妨げるでない――あぁ、朝飯か? 昨日はたまたま腹を空かせていただけよ。今日はいらん。早く我の部屋から出て行け」
「馬鹿を言うでないわ! いったい今までどういう生活をしていたのだ!」
「我は陽よりも、月の方が好みなのだ。日が高く昇る頃に起きて小屋で過ごし、日が傾き夕焼けとなる頃に翌日の分と夜食べる物を探し、それが終われば暇を潰す。それが我の生き方よ」
「……念のため聞こう。どのように暇を潰したのだ?」
「なに、大抵は月を眺めておった。他には……気に食わぬ物を殺し、時に訪れる男を食うておったな」
「なんと自堕落な生活よ……天狐、お前を人の世に、この寺に連れてきたこと、こんなにも早く正しいと思えるとは考えておらんかったぞ! 父としてしっかり教えてやる! 早く起きるのだ! さぁ!」
「――ふぅ、わかったわかった。身支度を整える故、部屋から出て行け」
「よかろう」
「まったく……困った男よ……ではもう一寝入りするか――」
「子の考えを見通せんと思ったか!! 今すぐ起きよ!!」
「――ちっ。わざわざ気配まで消しおったのか。タチの悪い男よな」
「なんとでも言うがよい。起きよ!」
「もう起きると誓おう。着替える故、部屋から出ておれ」
「天狐、お前は一度嘘を吐いた。部屋からは出ぬ」
「なんだ? 我の裸でも見たくなったか? 朝から盛るとは……まぁよい。恥ずかしいが――致し方あるまい」
「脱ぎたければ好きに脱ぐがいい。ワシはお前の裸を見ても動じることはない。気が済んだら部屋から出よ」
「…………。わかった出る! 出ればよいのだろう! 寝足りぬというに……」
「ようやくその気になったか。やれやれ手の焼ける子よ」
…………
「待て」
「なんだ? 朝飯を食べるのだろう?」
「朝飯の前に教えることがある」
「こんな朝早くから覚えねばならぬことがあるのか?」
「そうだ。天狐がそれを知っていたとしても一から教えていく。それはワシのためでもある。親として子に教えることは、己もまた学び直すと言うことでもあるからな」
「よくわからぬが……なにを教えるつもりなのだ?」
「挨拶だ」
「あい……さつ? 挨拶とはなんだ?」
「朝はおはよう。昼はこんにちは。夜はこんばんは。と、声をかける時に使う言葉よ」
「……ふぅん?」
「挨拶というのは人の世で互いを認識するための言葉でもあるとワシは考えている。ワシが声を発した時、誰に対して声をかけたのか、それを理解するために名前がある。もちろん、親が子にどのように育ってほしいのか、その願いを込めて名付ける場合もあるがな」
「なぜ名前の話が出てくる?」
「物の例えの一つよ。まぁ聞け。その名を呼んだ時、親しい間柄であればそのまま話をできよう。しかし、そうでなかった場合はどうか?」
「我はどうも思わぬ。話しかけられたのなら言葉を返すだけよ」
「天狐はそう考えるのだな。だが他の者はどうだ?」
「……わからぬ」
「お前が人に声をかけた時のことを思い出してみればよい。言葉にする必要はない。驚かれたこともあるだろう。警戒された時もあるだろう。不審がられたときもあるだろう。気さくに応じてくれたこともあるだろう。応じ方、感じ方は人それぞれなのだ」
「……ふむ……」
「名はその物を示すもの。挨拶は互いを認識し最初に声をかける時に使う言葉。人の名を覚え、挨拶を交わすことは、その者が他者を認め、知ったというわけだ。人の世で学ぶことを決めたお前が覚えねばならんことだ」
「他者を認めること……知ること……か」
「そうだ。ワシはお前の親となり、子であるお前に名を授けた。それは、何物でもなかったお前をこの世で――人の世で生きることを認めた証。そしてお前はワシの名を知り、親と認めた。では、次はどうすればよいかわかるか?」
「……?」
「はっはっは。いきなりできるとは思っておらん。では手本を見せよう。ワシとお前は今日の朝出会い、今日初めて互いを認識した。であるならばやるべきことは一つ。挨拶だ! おはよう、天狐」
「――っ! お……はよう。道善」
「うむ! ワシは天狐を認識し、天狐はワシを認識した。これはとても大切なこと。己がその場にいることを認められた証でもある。今教えたことは人の世を知るために最も大事なことだ。忘れぬようにな」
「……わかった。肝に銘じよう」
「では挨拶を済ませたのだ。朝飯にしよう」