心の夜明け
「……フッ……くくく……これ……でも……殺せぬのか……
認めよう……貴様の……勝ちだ――殺すなりなんなり……するがいい……犯したければ……犯せ」
「ワシはお前を殺す気も犯す気もない。ワシはお前を正しに来た」
「わけの……わからぬ……ことを……」
「いいや。お前はワシの言葉を――その意味を既に理解しておる。見えぬように、映らぬように、本心を覆い隠し、真の願いから目を背けている」
「――ッ。そのようなこと……」
「今のお前ならワシの言葉を素直に受け取れよう。己の心を見つめよ。己の目に映っているお前を心配している者を見よ」
「……知らん」
「強情な奴め。まぁよい。お前を好きにしていいのなら好き勝手にさせてもらおう」
「……痛めつけた……女を犯すことが……趣味とは質の悪い男よ」
「人聞きの悪いことを言うでないわ。お前の生殺与奪をワシが握っておるのなら、ワシはお前のその強情さを奪わせてもらう――どれ……どっこらしょ」
「……なにを……」
「なに、話しながら移動しようと思うてな」
「……貴様……我が首を刎ねる力すら無くなったとでも……」
「思っておらんさ。だがお前は既に気はないのだろう? ならおんぶしても問題ない」
「やはり癪に障る男よ……我の……全てを知ったつもりか?」
「なにも知らんよ。しかし、心の在り方に思い当たる節があるのだ。お前の心はワシからしてみれば人と変わらん。生を受け、嫌なことがあり、それが原因で拗ねて捻くれ、素直になれなくなった意固地な子供……いや……赤子か」
「き、貴様!……我が赤子だと!」
「わっはっは! その反応が正に――こら! 暴れるな! また意固地になられたらかなわん。早いうちにその強情さを奪うため、説かねばならんな」
「――ふん」
「まずは、お前に関する噂の話からしよう。妖怪とは何物かわかるか?」
「どうでもよい」
「……はぁ……まぁいい。妖怪とは妖力を持つ化け物のことを指す」
「……ちっ」
「舌打ちするでない。ワシはお前のことを指したわけではない。とにかく一度最後まで聞け――よいな? 人の世では妖怪は人を襲う化け物と認知されておる。だから妖怪の仕業と噂されるようになったのだろう」
「我は――」
「だから聞けと言うておる。ワシはお前のことをいつ妖怪と呼んだ? 一度たりとも呼んだ覚えはない」
「……それは……」
「続けるぞ。そのような認識があちこちで浸透したのは……大方、母が子に言うことを聞かせるため、悪い行いをしたら妖怪が出るぞと脅かしたりしたことからだとワシは考えておる。それに人は、人以外の者が被害に遭っていたとしてもあまり深くは考えん。人は己の目に映るものや都合のいい話くらいしかなかなか認めようとはせん。それもまた適当な話が広く認知されてしまった原因の一つだろうな。お前もそうだろう? 認めたくないものを遠ざけるためにその目に映さぬようにしている」
「…………」
「人の間での妖怪の話は終わりだ。次の話だ。ワシは法師、坊さん、和尚と呼ばれたりする者だ。時に人の話を聞き、時に人を説き、時に妖怪退治をする。では、坊さん達の間での妖怪はどのような物を指すか。わかるか?」
「――知らぬ、知っているわけないだろう」
「当然そうだろうな。もし知っていたのならお前の在り方も大分違っていたかもしれんからな。お前の下に現れた法師達は、恐らくお前のことを多くの人を殺めた畜生、外道と決めつけ、妖怪と難癖をつけ、退治しようとした。お前が今も生きているのは、その者たちが頭が固く、目も当てられんくらい弱かったからよ。ただただ未熟。中には噂を利用し、己に箔をつけようとした者もいるかもしれん。まぁワシは、正道を説くことができるほどの者。勝つのも当然よ、わっはっはっはっは!!」
「その首今刎ねてやる」
「よ、よせ! 危ない!! ちょっとした冗談よ。真に受けず笑って流せ! 全く、冷や汗が出たではないか」
「フン! 自業自得よ」
「話を戻すぞ。坊さんの間での妖怪は、この世に生ける全ての物達を襲う物と定めておる。妖怪が現れてしまうのは、生ける物達の怨嗟、後悔、嫉妬といった様々な負の感情が原因。この世に生きる物を見ると、それらの感情を刺激され手当たり次第に襲うのだ。生ける物は人だけではない。動物だけでもない。動植物全てを指す。動物だけ生きているわけではない、植物もまた生きているのだ。それ故、妖怪は現れたその瞬間から周囲の全ての物に対し呪詛を吐く。お前の反応を見るに、妖怪を見たことがあるな? ならばワシの言を聞き理解しているはずだ」
「だから……どうしたというのだ? 我には……関係のないこと。くだらん」
「いいや、大いに関係がある。お前は噂にある妖怪ではない。妖怪でないのなら、ワシがお前を退治することはない。お前を殺める理由はない。ふむ、この辺りでいいだろう」
「なにを……するつもりだ」
「そろそろ夜が明ける頃合、空が明るくなり始めたのがその証。体を起こす力がないのだろう? どれ、膝枕をしてやろう」
「いらん!」
「そう言うな。ほれ、見てみろ。目を背けるなよ。しっかりとその目に映せ。陽の光に当てられ、空が赤々と染まり、薄暗く色褪せていた山々が、木々が、大地が彩られていくその瞬間を。美しいだろう?」
「……知らぬ……」
「意固地な奴よ。だがその目に流れる涙が、お前の真の心を映し出しておる。その涙は傷心を満たすほど美しいと感じておる証。この夜明けを見なければ涙など流さなかったはずだ。感慨深い景色を見て――ワシと同じように感情が動いておる証」
「……我はなにも……感じてなどおらぬ……」
「ならば己の心をしっかりと見つめてみよ。なぜ涙を流しているのかを己に問え。他者に……ワシに心を覗かれることを許せぬのなら、己で心を覗き答えを見つけよ」
「……黙れ……減らず口が……」
「お前は見て見ぬ振りをしていただけだ。ワシと争っていた時、お前は一度たりとも木々を傷つけなかった。今もお前の様子を窺っているあの一匹の狐を殺めようとはしなかった」
「――ッ」
「お前は妖の力を操るが、呪詛を吐きながら手当たり次第に生ける物を襲う妖怪ではない。人とは違う耳がある。尾がある。だが、その心は人や他の動物が持つ心と同じ」
我は――何物だ?
「我は――」
「そしてお前は人だけが扱う言葉を使う。妖怪は呪詛を吐くが言葉を覚えようとはせん。人の子が言葉を覚えるのは、周囲の仲間と心を通わしたいからだ。仲間と共に在りたいからだ。そうでなければ、他者を知る必要がないと感じていたのならば、言葉など覚えはせん」
我は――何物だ?
「我は――」
「人を惑わし誑かせ陥れるだけなら、人を殺めるだけなら、目に映る物を全て殺めていたのなら、お前の力であればこの山が荒れ果てていても不思議ではない。お前の心が、目を背け映らぬようにしていた心が、それを許さなかった。それは他者を思いやる心であり、この山に住む全ての者達を同じ生ける物として認めていた証。もう一度言おう。己の心と向き合い、己の心を知れ」
我は――何物だ?
「……わからぬ……我は……わからぬ。我は、我は――何物だ?」
「今のお前は何物でもない」
「――ッ……そうか……我は何物でもないのか」
「お前は己が何物か知りたいのだな。言葉を覚えたのも知るためか。その己の心の問いは、生まれたばかりの赤子が持つ問いよ。何物でもないことを悩むのならば、知りたいのであるならば、ワシがお前の心を育んでやろう。その問いは独りでは決して解決できぬからな」
「……どういう……ことだ?」
「己が何物かを知るためには、同じ生ける物と交わり、己の心を育まねばならん。心を育むには長い時をかけ、この世を学び、知り、触れ、この世の理を解し、その上で己の心と向き合い必要がある。お前は今日ワシと出会うまで独りだった。己が問いを探し求めるようになった時には、他者に恐れられてしまっていたのだろう」
「…………」
「お前の持つ己の問い。ワシも共に考えてやる。ワシは何物か? ワシは人だ。ならばまずお前がやるべきことは人を知ることだ。人とはどういう物かを己の目で見て心で感じ、学べ。だからワシはお前を人の世へと連れて行く」
「勝手なことを」
「なに? お前の生殺与奪はワシが握っておるのだろう? 暴れて嫌がろうとも、ワシがお前を人の世へ引き摺り込んでやる。覚悟するがいい」
「――減らず口が」
「わっはっはっはっは! 元気が出てきたようだな? どれ、日の出は十分堪能した。そろそろ行くとしよう」
「どこへ連れてくつもりだ?」
「近くに空き寺があるらしい。そこへ行く。ワシはこの地の様子を見てほしいと今は亡き父に頼まれておったのだ。ワシの予定では噂の原因を調べ、解決した後、各地を旅して生涯を過ごすつもりだったのだがな。旅をやめる代わりにお前の心を育てると決めた。地に足つけた方がお前の心を育てやすい」
「余計な世話をせずとも良い。我のことは放っておけ」
「馬鹿者。そうはいかん。ワシはお前を知った。そのお前を放っておけるなら、さっさと退治しておる。知った者のことをそのままにしておくつもりはない――すんすん――まぁ大丈夫だろう。旅の途中、何度か洗った。ちと匂うかもしれんが、我慢しろ。真っ裸よりはマシよ」
「ぬくい」
「人肌で温まっておるからな。どっこいしょ。さて行くか」
「――――」
「安心しろ狐。命を奪うようなことはせん。この者はワシが預かる。お前の心配事もちゃんと取り除いてやるからな。お前のことをずっと心配しておったのだ。声をかけるくらいしたらどうだ」
「……我は……知らん……」
「全く頭の固い奴め。これは時間がかかりそうだな」
「……ふん……」