風呂
「もう夕暮れ時か。風呂の準備を始めるとしよう」
「風呂? 風呂とはなんだ?」
「人の体についた汚れを落とすための場所よ。人の入れる桶を風呂桶と呼ぶ。風呂桶の中に水を入れ、かまどで温め、お湯にするのだ。お湯に浸かると気持ちが良いぞ。体と心の疲れが癒えていくからな」
「ふぅん」
「寺に風呂があってよかった。毎日冷たい水で水浴びなどしたくはないからな。まずはこのかまどに火をつけてと……そして、火が薪に燃え移るまで、落ち葉や小枝を注ぎ足しながら――ふぅ――ふぅ――このように火吹き竹で風を送ってやるのだ。どうだ? わかったか?」
「我はそのような面倒なことなどせぬ。火など我の力で起こせるのだからな」
「…………」
「どうした道善? 我をそのような怪訝な目で見るとは……ははーん? 悔しがっておるのか?」
「……悔しがってなどおらん。頭からすっぽりと抜け落ちておったわ。ただ、ワシは天狐が人の世の大変さを知るためには必要だと考えておるからどちらにせよ教えておった。お前もやってみよ」
「あっはっはっはっは! ムキになってあるではないか。可愛らしいところもあるではないか。のぅ?」
「うるさい。とにかくやるのだ。これは人の世を知るための大事なこと。一月は修行の一環としてやってもらう! 一月は力の使用を禁ずる!」
「くくく、まぁそういうことにしておいてやる――くくく」
……………
「湯気が立ってきたな。そろそろ頃合いよ。ではどちらが先に入る?」
「決まりでもあるのか?」
「いや、無い。入る者とかまどの前で湯加減を調節する者に分かれるためよ。先に入った者は風呂から出た後、後に入る者の湯加減の面倒を見る。外に出るから、ちと汚れたり湯冷めしたりするだろう。後に入るなら先に入った者の汚れが湯に残っておるから夢心地とはいかんかもしれん。ワシはどちらでも構わん、天狐次第よ」
「そのように分かれて入らずとも、我は一緒でも構わんぞ? 見られて困る体ではない故な。それとも見られて困る体なのか?」
「そういうわけではない。火の元から離れてしまえば火事になってしまう。寺を燃やすわけにはいかん」
「我は……」
「一月は力を使うことを禁ずると言ったばかりだぞ。これもまた修行の一環と思え」
「……む――そうか。ならば後で良い。その方がのんびりできそうだ」
「わかった。ではワシから入ろう」
…………
「……ふぅ〜……」
「ずいぶんと――ふぅ――ふぅ――心地良さそうだな?」
「……あぁ……骨身にしみる……人の世の中の数少ない極楽よ……」
「――ふぅ――ふぅ――極楽か――ふぅ――ふぅ――」
「……天狐、そこまで火を強くしなくとも良いぞ」
「――ふぅ――ふぅ――どうした? 何か言ったのか?――ふぅ――ふぅ――」
「こ、こら天狐! あちち! もう良い! もう良い! もう火を強くせずとも良い! あちちちち!」
「おや? 不要であったか。すまぬな」
「危うく茹で上がるところだったわ」
…………
「ふぅ……なるほど……悪くない」
「天狐よ、湯加減はどうだ?」
「少しぬるいな」
「――ふぅ――ふぅ――こんなものでよかろう。どうだ?」
「あぁいい湯加減だ。湯気の立つ泉に入って心地良さそうにしていた猿達の気持ちがようやくわかったわ」
「ほう? この地に温泉があるのか」
「あれを温泉と呼ぶのか」
「入ってみようとは思わなかったのか?」
「あぁ思わなかったな。小屋に帰る途中だったのよ」
「ふむ、そうか。ところで天狐よ。今日一日を経てどう感じた。まぁまだ夜飯の支度が待っておるがな」
「どう感じた――か。朝、まだ眠いというに叩き起こされ腹が立った。朝飯時に他の物を食うことに様々な考えを示した人の世に驚いた。やらなくてもよい掃除に意味を持たせる人の世を不思議に思った。座禅を組み、己の心と向き合うことの難しさを知った。組手を行い、訳のわからぬ技とやらに振り回され……やはり腹が立った。風呂は悪くないな。心地よい湯に浸りながら月を見上げるのは風情があって良い。人の世は、人という生き物は複雑だな。理解し難い生き物よ……だが――」
「だが?」
「悪くない。一人で過ごしていた頃に比べれば……な」
「ワシと一月共に過ごせそうか?」
「さてな。そこまではわからぬ。道善、一月人の世におれば、我は我が何物か答えられるようになるのだろうか」
「ワシにもわからぬよ。答えたはずだ。一生をかけても答えは得られぬかもしれんとな。だが、ワシは人の世を学べば天狐の己の問いの答えに近づけると考えておる」
「……一人で過ごしていても答えはいつまで経っても出なかったのだ。気休め程度に信じて過ごすとしよう――」
「出るのか?」
「あぁ、十分堪能した。夜飯の支度をするのだろう?」
「もちろんだとも、天狐にも手を貸してもらうぞ」
「あぁ。支度もまた人の世を学ぶ機会となるやもしれん。待っているよりはいい」