座禅
「よし、溜まりに溜まった汚れを取り除けたな。今日の掃除を終えるとしよう」
「うん、心地よい。だが今日と言ったな? 毎日やるつもりか?」
「ワシが育った寺では、出家したばかりの者達が修行として毎日しておった。が、毎日などやってられん。己の目で確かめ、必要とあらば掃除をすればよい」
「それならばこれから先一度たりともやらずともよいのか?」
「構わんよ。己の目に映る景色が汚れておると感じたのならやればよいのだからな」
「道善。お前、案外怠け者なのだな?」
「わっはっは! よく言われておったわ。昔のワシは掃除が嫌いでな。寺に出家したばかりの頃はずる休みをするため、掃除をしている者達からこっそり抜け出し隠れておった」
「ほう? 見つからなかったのか?」
「いいや、父にすぐ見つけられてしもうた。ワシ達のことをよく見ていたお方でな、ズルをすればすぐに気付く」
「叱られなかったのか? 叱られておるならもう少しまともになっていたと思うが」
「ワシがまともになるなど想像もできんな。ワシは父によく叱られておったよ。道善、ズルをするため隠れるならもっと上手く隠れよ。探すワシの身にもなれ、簡単すぎてつまらんとな」
「なんだそれは……我が言えた義理ではないが、その父とやらも怠け者だったのだな。なるほど、道善はその父とやらによく似たということか」
「わっはっはっはっは! ワシにとってその言葉は最も喜ぶ褒め言葉よ。とにかく、掃除は己が必要だと思うた時にやればよい。他の者に強いられてやる掃除は、ただただ辛いだけよ。修行という言葉を都合のいいように使い、己が楽をするための方法でしかない。なんの役にも立たぬ。ワシが掃除をするようになったのは、掃除をしなくてもよい僧位になってからだ。今日天狐に掃除を強いたのは、掃除とは何かを教え、知ってもらうためよ」
「ふーん。一つ聞いてよいか? 何故掃除をしなくてよくなってから、掃除をするようになったのだ?」
「なに、掃除の理を解し、ワシの中で噛み砕き、ワシが人として生きるためには必要だと判断したからだ。世話となるこの寺によろしく頼むと願うのは、ワシの、道善の人としての在り方ということでもある」
「そうか」
「これもまた己を知るためのもの、己の心の理を解する手段の一つよな。さて、ちょうどよい話の流れとなった。掃除をし、悪しきものを掃い、良きものを招く儀を終えたことも幸先がよい。己の心を知る良い機会になるやもしれん」
「何をするつもりだ?」
「座禅というものをする。やることは簡単よ。座るだけでよい」
「座るだけ? その座禅とやらをする必要があるのか?」
「生きていく上で必要かと問われれば、ないと言えよう。無駄となるかどうかは座禅を経験してから考えればよい。とりあえずは座ってみよ」
「……わかった……どのように座ればよいのだ?」
「真面目な寺なら一から教えるだろうが、ワシは不真面目なんでな。好きなように座れ。座禅そのものは、やろうと思えば立っていようと寝転がっていようとできるからな」
「不良坊主め……これでよいのか?」
「ワシの真似をするとは賢いな。ワシの座り方はワシの育った寺で教えられたもの。それが正しい座り方よ。天狐はワシと違い真面目よな。それでよい」
「この後はどうするのだ? 道善と言葉を交えるのか?」
「言葉を交えるのは正しい。言葉を交える相手は己の心よ。己の心と向き合うために座禅を組むのだ」
「己の心と向き合う……」
「そうだ。己の心より湧き起こる問いを、己の言葉で答えるのだ。己の心より湧き起こる感情、その答えを言葉に変える。当てはまる言葉が見つからないのであれば学び、考え、知ればよい」
「わかった。やろう」
「よし、では目を閉じよ。目を閉じることでより一層己の心に近付くことができる。耳を澄ませ、呼吸を整えよ。さすれば己の心をより鮮明に映し出せよう……」
我はなぜここにいる?
(我は道善にこの寺に連れられたからここにいる)
我はなぜそれを受け入れた?
(我は道善に負けた。認められるほどに強かった)
我はなぜあれほど嫌っていた道善を殺そうとしない?
(我が道善に負けたからだ)
そんなはずはない。今この場で油断している奴の首を刎ねればよい。なぜしない?
(それは……)
我は――何物だ?
(――っ!)
奴は我のことを何物でもないと言った。気に入らぬ。
(我は――)
我は――何物だ?
(――っ! なぜこうも揺さぶられるのだ?)
奴は我を手懐けたつもりか?
我は――何物だ?
気に入らぬ
我は――何物だ?
許せぬ
我は――何物だ?
命などどうでもよい
我は――何物だ?
殺せ
我は――何物だ?
(我はっ! 我は――我は!! 我は我は我は我は我は――!!)
「天狐よ。心が乱れておるぞ」
「――っ!」
「己と向き合うことで表れた問いを今すぐ答える必要はない。表れた問いを忘れず胸に留めておけ。その湧き起こる問いに答えるために、お前はこの世を人の世を学ぼうとしておる。学び、考え、知る。人の世の中で日々を過ごし、少しずつ答えを探していけばよい」
「……なぜ目を閉じているお前が、我が乱れていると思ったのだ」
「目に映さずとも、耳で、気配でわかる。息遣いが荒い。衣擦れも聞こえる、体が揺れ動いているな。心に余裕がある者は、己と向き合いながら周囲にも気を配ることができる。天狐よ。呼吸が乱れるのは己の問いに答えられず、心が乱されている証。体が揺れ動くのは己の問いから逃げ出したいという心の表れ」
「…………」
「今一度言おう。己の問いに今答える必要はない。生きている間に答える必要もない。いつまで経っても答えられないこともある。ある日突然答えられるようになることもある。言の葉を交え、学び、考え、知る。さすれば己の心の理を解しやすくなろうて」
「お前が己の問いに答えられないこともあるのか?」
「当然よ。ワシもまだまだ己の心から湧き起こる全ての問いに答えられておらん」
「ならばなぜ乱れておらんのだ?」
「それはワシが天狐よりも人の世で長く生きておるからであろうな。ワシも生まれたばかりの子供だった頃は毎日のように掻き乱されておった。答えが出せぬことに苛立ち、歯を噛み締めておったな」
「お前もそうだったのか……」
「ワシもお前も未熟者よ。今しがた己の心の問いに答えられず、どうしたものかと困っておったところだ」
「どのような問いだ? 我に教えてくれ」
「ワシは天狐を養子に迎えたこと。果たして本当に正しかったのか? 天狐の道をワシは正すことができるのか? 天狐が己に問うておる己が何物かを答えられるよう育てることができるのか? ワシの人の生は果たして正道を歩めておるのか? 口にすればキリがないわ」
「途方もないな……」
「まさしく。今答えを出すことができぬ問いばかりよ。答えられるようになるのは遥か先かもしれん。出ないままかもしれん。それはこれからのワシ次第よな。天狐の心の問いに答えられるかどうかもまた、これからの天狐次第よ」
「そうか……そうかもしれぬ」
「では乱れた心を整えるため、深呼吸をせよ。大きく息を吸え」
「――すぅ――」
「次はゆっくりと息を吐け」
「――はぁ――」
「心は落ち着いたか? 落ち着けていないならもう一度同じことをせよ」
「――すぅ――――はぁ――」
「どうだ?」
「……わからぬが、先より落ち着いた」
「わからぬでは困るぞ。己と再び向き合えるようになるまで心を整えよ」
「――すぅ――はぁ――すぅ――はぁ――」
「どうだ?」
「……もう、大丈夫だ」
「うむ、ならばもう一度目を閉じ、己の心と向き合え」
「……あぁ、わかった……」




